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安全問題研究会(旧・人生チャレンジ20000km)~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

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【書評】この経済政策が民主主義を救う~安倍政権に勝てる対案(松尾匡・著、大月書店)

2016-11-12 23:12:16 | 書評・本の紹介
当ブログが最近、すっかり書評ブログ化している気がする。それほどまでに現実の政治に展望がなく、ネットも絶望的につまらない。入院と、Win10の不具合によって約1ヶ月、ネットから遠ざかったが、ちっとも困らなかったという事情もあり、当ブログ管理人はネットから離れ、知識の吸収は本による「原点回帰」をしている。こんなにたくさん本を読んだのは学生時代以来だと思う。

さて、今回取り上げるのは、「この経済政策が民主主義を救う~安倍政権に勝てる対案」(松尾匡・著、大月書店)。出版している大月書店は、新日本出版社とともに、知る人ぞ知る日本共産党系列の出版社。「そっち系」の本は充実している。ただ、著者の松尾は、保守系のPHP出版等からも自著を出版しており、「そっち系」の人でないことは誤解のないようにしていただきたい。

そういうわけで、「そっち系」方面の一部だけで話題になっているが、なぜリベラルがいつまでも自民党に勝てないかを考察した上で、リベラル派は経済政策に難があるからだという問題意識が、本書の出発点になっている。選挙のたびに争点を尋ねるマスコミの世論調査では、いつも1位は「景気・雇用」で2位は「社会福祉」。反原発、基地反対、それ自体はとてもすばらしいことなのだけれども、これらはいわば「飯を食うことにつながらない」テーマ。どんなにすばらしいことを唱えても、腹が減っては戦はできないし、どんなすばらしい政策も、資本主義が資本主義である限り、お金がなくては始まらない。そのことを忘れて、原発をなくすため、基地をなくすためには空腹に耐えろ、では誰もついてこない。本書は、そんな「本音のお話」から始まっている。

とはいえ、経済学に関する知識は、大学で一応、経済学科を経験している私にとってはイロハのイに属するような、ごくごく基本的な話ばかり。中学校社会科の公民の授業のようで、「なめとんのか!」というのが正直なところ。ただし、経済学を専門に勉強した経験のない人には、参考になる内容ではある。

この本では、松尾の最も言いたいこと、すなわち結論は巻末の「むすびにかえて」ではなく、「はじめに」にいきなり書かれている。緊縮政策は左翼・リベラルにとって禁じ手であり、左翼・リベラルこそどんどんお札を刷り、政府支出を拡大して、その金で弱者を救済せよと説く。緊縮財政で社会が疲弊したギリシャで、いきなりSYLIZA(急進左翼連合)が政権を取ったりしているのは、こうした緊縮政策で結局、貧困層が苦しめられたことが背景にある。本書はそうした欧米諸国の動向も念頭に置いている。

当ブログの書評が「それまで自分の中で常識となっていたことを転換させてくれる本」「それまで地球の周りを太陽が回っていると思っていた人々に、実際に回っているのは太陽ではなく地球のほうなのだとわからせてくれる本」を「名著、好著」の基準としていることは、すでに過去ログでも述べている。そして、この基準に照らすなら、本書もまた名著、好著の部類に入る。なによりも、政府(特に財務省)による「国の借金1000兆円」との宣伝が行き届きすぎて、日本国民はもうかなり以前から「緊縮財政が当たり前」「金がないんだから、政府に何を言っても仕方ない。自分で解決するしかない」と信じ込まされている。自分で解決するしかないから、ある人は新自由主義に走り、別の人は差別排外主義に傾倒することで他人(特に外国人、マイノリティ、女性)のせいにし、そのどちらも選べない「優しい人たち」は静かに自分の命を絶っている。左翼・リベラルが政権を取ったとき、本書に書かれている政策を実行できるなら、多くの人を救うことができるだろう。安倍政権? そんなもの1秒で粉砕できる。

実は、当ブログ管理人はかなり以前から、「消費増税などせず、国債を発行して資金調達すればいいのでは?」と薄々思っていて、妻にだけは何度か話したことがある。1000兆円の借金を抱えている日本にとって、もう100兆や200兆くらい借金が増えたところで大勢に影響はないし、その国債の7~8割は日本国内で日本の金融機関、日銀、富裕層が保有しているのだから「外国に日本の命運が握られている」わけでもない。

そして、何より重要なことは、貧困層からも容赦なくむしり取る「逆進性」の象徴としての消費税などより、「買いたい人が買い、買いたくない人は買わなくてもよい」「買う能力のある人が買い、買う能力のない人は買わなくてよい」国債のほうが、よほど応能負担(能力に応じた負担)の原則にかなっており、その意味では公平な手法であるといえる。赤字国債は「財政法」で発行が原則、禁じられており、発行するには法改正が必要だが、国民の注目を集めやすく、与野党対決法案になりやすい税制改正法案と違い、特例公債法案(財政法で原則、禁止されている赤字国債の発行を、今年度に限って○○兆円まで認める、という内容の法案)は誰も注目せず、対決法案にならないから簡単に国会を通過する。

増税が難しい日本では、政府は赤字国債によって資金の調達を続けてきた。財務省は、国債の償還にいわゆる「60年ルール」を採用していて、例えば10年ものの国債を60兆円分発行した場合、10年後に実質的に返すのは6分の1の10兆円だけ。残り50兆円分は、新たに国債を発行して「借り換え」をする自転車操業でしのいでいる。10年ものの国債でも、6分の5は借り換えで済ませるこの手法では、本当に6分の6の全体が返されるのは60年後になる。60年ルールとはそういう意味である。つまり、富裕層(に別に限らないが)が買った国債は、60年後にならなければ全体が戻って来ない、事実上の「富裕層課税」として所得再分配の機能を果たしてきたのである。

加えて、松尾の掲げる政策――「左翼・リベラルこそどんどんお札を刷り、政府支出を拡大して、その金で弱者を救済せよ」が経済的に合理的なのは、「無駄な支出の削減」をめぐって「公共事業ムラ」と闘わなくてすむ点にある。民主党政権が3年ちょっとのわずかな期間で倒れてしまったのは、「コンクリートから人へ」のスローガンの下に、福祉・医療・教育に充てるための財源を、いきなり公共事業削減で捻出しようとして「公共事業ムラ」との全面戦争に発展したからである。コンクリートから人へのスローガン自体の正しさを、当ブログは疑わないが、日本の「公共事業ムラ」はあまりに強力すぎて、脆弱な政権なら一撃で倒してしまうほどの利権を持っている。政権基盤も十分に固められないうちから、「無駄な支出の削減」を通じて、日本で一番強力な敵にいきなり闘いを挑んだ民主党政権はあまりにやり方が無謀すぎ、倒れてしまった。

そしてその民主党政権の失敗を通じて、リベラル層は「もう二度とこの国で政権交代はできない」とすっかりあきらめ、選挙に行くこと自体をやめてしまった。民主党に政権を奪われた2009年総選挙より、その後の総選挙での得票のほうが少ないにもかかわらず、安倍自民党政権はリベラル層のこの失望に支えられ、安定的に推移してきたのである。

誰かを助けるために誰かから金を奪うのではなく、ゼロから金を作るよう説く、松尾の本書における提言には価値がある。築地移転だ、オリンピックだ、リニアだと暴走の限りを尽くす公共事業ムラはいずれ倒さなければならないが、小泉政権でも民主党政権でも倒せなかった彼らと闘うのは得策とは思えない。衰えたりとはいえ、建設業界では未だに1000万人近い人が働いており、それは8000万人と言われる日本の労働力人口の8分の1にも達する。公共事業ムラを倒すということは、「日本の労働力人口の8人に1人が失業してもいい」という主張を認めることであり、あまりに犠牲が大きすぎるのである。どんな強力な政権でも公共事業ムラを倒せないのには、それなりの理由があるのだ。

それでも日本の土木・建設業界は徐々に縮小しており、ムラもそれによって縮小している。リニアなどの公共事業と闘ってきた当ブログとしても悔しいけれど、つける薬もない彼らのことは「自然死するまで放置」しか手がなく、彼らが浪費する国家予算は民主主義の必要経費と割り切るしかない。どうせ日本国債を買っているのは日本の富裕層と金融機関なのだ。利益を受け取る者が、内部で国債を買い、せっせと公共事業ムラを支えているだけの話だ。その国債の借り換えも実質的には彼らが行っているのだから、もう勝手にすればいい。彼らの動向と無関係に、こちらでも国債を発行し、どしどしお札を刷って、国民が本当に必要としている分野(医療・福祉・教育)に金を回す――松尾のこの手法でしか、「保育園落ちた」と泣いている母親を救う手はもうないと思う。

以上の理由から、当ブログは、一見、荒唐無稽に思えるが、実際には理にかなっている松尾の経済政策を支持するとともに、本書も推薦図書に指定する。

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【書評】あの日(小保方晴子・著、講談社)

2016-11-05 13:48:05 | 書評・本の紹介
ご存じ、「STAP細胞」騒動で日本中を混乱の渦に巻き込んだ、元理化学研究所研究員・ユニットリーダー。「リケジョの星」と持てはやされながら、科学界から「追放」された「元」科学者による著作。あえてジャンル分けすれば「暴露本」の一種と考えていいだろう。話題をさらった著書として、Amazonではベストセラー1位が今なお続いており、購入も考えたが、結局は図書館で借りて読んだ。

結論から言うと、外部から細胞に刺激を加えた場合、細胞が初期化し、緑色に光るSTAP「現象」は確認されたものの、得られた初期化細胞は脆弱で生命力に欠けており、これを再生医療の現場で実用化するためには、まず移植が可能なように生命力を持たせたまま、初期化した細胞を維持しなければならない。だが、その第1ステージさえ突破できないまま、研究中止を余儀なくされた――そんな印象だ。

とはいえ、中学・高校の理科で生物を選択していた私にとって、細胞核とか細胞膜、アデノシン三リン酸なんて用語はとても懐かしく、一生懸命中間・期末試験に向けて生物関係の勉強をしていた青春時代を思い出させてくれる。中学・高校の理科で生物を選択している生徒であれば理解可能な程度に、小保方さんが自分のしていた研究内容をわかりやすく説明した前半部分は楽しく読めた。米国ボストンで過ごしたバカンティ研究室留学時代の話もうらやましく、小保方さんが、このまま成功の階段を着実に上っていくように思われた。

小保方さんの研究生活が「暗転」したのは、なんと言っても理研に移ってからだろう。特に、若山輝彦・山梨大教授との出会いが彼女の人生を大きく狂わせた。小保方さんの「転落」の軌跡が示された後半部分は、若山教授にいかにして研究生活と人生を狂わせられたかの告発に費やされている。

あ然としたのは、小保方さんが早稲田大学に博士論文を提出するとき、指導教員の添削を受けた後の完成版ではなく、添削前の未完成版を誤って提出してしまったと述べている点だ。そのことに気づかず博士号を認定、未完成版の論文をそのまま国立国会図書館に納本した早稲田も、今回の騒動が起きるまで気付かなかった小保方さんも、あまりにずさんだ。

未明までの論文執筆で時間的に追い詰められていたとはいえ、こうした当たり前のことを当たり前にできない小保方さんの「詰めの甘さ」が、結局は魑魅魍魎が跋扈する理研で、名誉欲の塊の研究者たちに利用され、陥れられることにつながっていったのだと思う。加えて言えば、東京女子大の研究者に誘われたから同大へ、バカンティ教授に誘われたからバカンティ研究室へ、理研に誘われたから理研へ、と二転三転する小保方さんの軌跡を見ていると、あまりに自分の運命を他人に委ねすぎで、研究者として自分がどこで何をしたいのか、という主体性がまったく見えてこない。ちやほやしてくれる周囲に流されているだけのように見え、このことも、彼女が陥れられることにつながっていったように思われる。小保方さんは、「生まれ変わってもまた研究者になりない」などと書いているが、もっと主体性を持ち、当たり前のことを当たり前にこなせるようにならない限り、難しいだろう。

Amazonのレビューでは、この本を高く評価する一般読者と、否定的に評価する研究者に真っ二つに割れていることも興味深い。こうした事実こそ、日本の科学界が「ムラ」化し、一般国民の常識とかけ離れていることを示している。「言いたいことがあるなら論文で反論すればいい」と評している「科学者」も見受けられるが、すでに理研の職も早稲田の博士号も失い、科学界を「追放」となった小保方さんに対して、それは酷な要求というものだろう。私は、科学界を追放された以上、小保方さんの身分は一般人であり、「一般人枠」の中で科学界批判の著書を出すことには問題はないと考える。

「この本に書かれていることは本当なのか」と疑う声も、ブックレビューに多く出されているが、私はおおむね事実という印象を受ける。嘘やでっち上げでここまで具体的で整合性のとれた記述は不可能と思われるし、STAP騒動勃発後の理研の対応についての記述が支離滅裂なのも、理研の対応そのものが支離滅裂なのだから致し方ないところだ。実験を繰り返しても自分の望む現象が再現できなかったことや、論文を投稿しても「不採用」になったことなど、自分の失敗も隠すことなく告白している。そして何よりも、理研の職から博士号に至るまですべてを失い、文字通り「命以外に何も失うものがない」状況に至った小保方さんにとって、こんなところで嘘をつく実益がないからだ。

この本の中で、自己の名誉欲と権力を満たすためなら何でもする、手段を選ばない人物と言わんばかりに徹底的に批判された若山教授は、ここまで言われた以上、何らかの見解を表明することがあっていいのではないか。無視し続けることで嵐が過ぎるのを待っているのかもしれない。だが、このまま反論せず沈黙を続ければ、この本に書かれたことを事実として認めたことになる。「笹井―小保方ライン」を潰し、笹井氏は自殺にまで追い込まれた。このことに、若山氏は良心の呵責を感じないのか。もし、感じないとしたら、日本の科学界の腐敗ももはや御しがたいように思う。

当ブログは、2014年6月18日付け記事「STAP細胞、そして「美味しんぼ」~信じたいものだけを信じ、科学と強弁する自称科学者たちへの最後通告」の末尾でこう記した。『めまいがするほどあまたの堕落、腐敗、利権、打算と野望にまみれた師弟関係、そして何より真理も事実も否定して、自分の信じたいものだけを信じ「科学」と強弁する「ムラ」住人たち――もう日本の科学に未来はない』。本書を読んだ限りでは、日本の科学界に対するこの評価を、変える必要はないように思う。

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【書評】感情の政治学(吉田徹・著、講談社選書メチエ)

2016-09-07 22:34:00 | 書評・本の紹介
入院中、妻に頼んで地元の図書館で借りてきてもらった1冊。読破は退院後の9月7日になってしまった。

「それまで自分の中で常識となっていたことを転換させてくれる本」「それまで地球の周りを太陽が回っていると思っていた人々に、実際に回っているのは太陽ではなく地球のほうなのだとわからせてくれる本」ーーこれが私の「名著、好著」の基準である。そして、この基準に照らすなら、本書は名著、好著の部類に入る。

なによりも、「政治とはどのようにして発生するのか」という問いから出発しているだけに、本書が扱う内容は根源的で、刺激的である。そして、選挙と、デモ・集会など「選挙に回収されない政治的意思を回収させる政治的行動」に優劣を付けず、フラットに扱っており、そのどちらも民主政治のために必要とした点は大いに評価したい。

最も刺激的で、吉田らしいと思うのは、政治についての根源的な考察をしつつも、「選挙は権利であると同時に義務なので行きましょう。行かなければ、政治家に白紙委任したことになります」に代表される、いかにも学級委員的、総務省的なきれい事を言わず、逆に、選挙にかかるコストと政治から受け取るリターンを比べて、前者のほうが大きいことはわかっているから、合理的な市民ほど選挙に行かない方が正しい選択になる、と堂々と述べている点。「政策を良く吟味する有権者」ほど「選択肢がない」と嘆く一方、自分の会社の仕事のために自民党に投票する人々や、費用対効果を度外視して自分の理想のために共産党に投票する人たちのように、選挙が「合理的でない行動を取る人たちだけのものになっている」日本政治の現状を、よく考察している。これを読んでいると、ますます選挙に行くのが馬鹿馬鹿しく思えてくる。

新自由主義を関係性の政治で置き換えることを説いた第3章だけでも、カネを出して読む価値がある。かつて、労働組合や企業、地域社会などに組織化されていた人々が粉砕され、個人単位にバラバラにされている状況では、人は自分の身を自分で守ることしか考えられないようになり、そのことが新自由主義を生み出した、このような状況では、政治的に維持が必要な公共財は獲得できない、とする論考には説得力がある(例えば、保育や介護も公共財なので、市民が個人単位に粉砕され解体された新自由主義的状況で、ブログに「保育園落ちた日本死ね」と書き込むだけでは保育所は獲得できない、という状況のよい説明になっている)。

中道左派がどれだけ弱者救済や格差是正を訴えても無党派層がまったく選挙に出て来ないのに、橋下徹や小池百合子のような新自由主義ポピュリストが小さな政府を訴えると、一気に投票率が上がるのはなぜか。日本にいわゆる中道左派的「リベラル」層は存在せず、存在しているのはリベラルでも「ネオリベラリスト」(新自由主義者)だけなのではないかという疑問を私は以前から抱いていたが、その見方が正しいことが証明されたように思う(ただし、この見方にかなり私の主観が交じっていることは付記しておきたい)。

日本の政治がよくなるためには、難解な「○○主義」などではなく、隣人との関係をきちんと取り結び、粉砕された個人を再度組織化し、相互不信から相互信頼へ転換すること、とした吉田の提言には傾聴の価値がある。

とはいえ、「感情の政治学」というタイトルほど難しい内容とは思わない。平たく言うと「政治とは仲間作りのことである」ということを大まじめに論じたに過ぎない。学級委員選挙に立候補した児童生徒が「なあ、俺とお前って、仲間だよな」と言っている風景を「政治」レベルに引き上げて論じている本だという言い方もできる。私の本書に対する理解が間違っていなければ、労働組合や政治組織で「オルグ」(組織化)と呼ばれるものこそが本来の政治だということになる。

著者の吉田は、この本ではない別の場所で、「リベラルは組織化されていないから選挙ではからきし弱い」という趣旨の発言をしているが、本書でもその基本路線にはまったくぶれがない。(吉田は本書ではひとことも触れていないが、)自民党政権を倒したければ、反自民の人たちが、味噌もクソも一緒でかまわないから、徒党を組み、仲間作りをして、一致結束して行動すればいいということがわかる。

でも、それが一番難しいんだよなぁ。「あんなウ○コなんかと一緒に行動できるか」とすぐ結束を乱す者が現れて、市民派・リベラル派はいつもバラバラになる。選挙に勝つためならウ○コでも平気で食べる自民党を、少し見習わなければならないのかもしれない。

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【書評】リニア中央新幹線に未来はあるか(西川榮一・著、自治体研究社)

2016-09-05 23:35:31 | 書評・本の紹介
2014年10月、全国新幹線鉄道整備法に基づき事業認可が下りたリニア中央新幹線について論じた本。リニア計画の概要からリニアの原理や走り方、旅客需要予測、環境問題・安全問題、コスト比較など、わずか120ページの中にリニアをめぐるあらゆる論点が盛り込まれている。それでいて、既刊のリニア批判本とは内容がほとんど重複しておらず、新たな論点を通してリニア問題に関する知見が得られる好著といえる。

この本の、既刊のリニア批判本と異なる大きな特色は、「無駄な公共事業」全般に対する批判にも使えるような普遍的な論点を提供している点にある。リニアの費用対効果を算出する際にJR東海や国土交通省が用いた「犠牲量モデル」(西川は「機会損失モデル」と呼んでいる)と呼ばれる手法に、批判を加えているのだ。

犠牲量モデルとは、本書の説明によれば、〔輸送量〕×〔利用者の時間価値〕×〔短縮時間〕によって計られ、鉄道に限らず公共交通機関の費用対効果を算出する場合に多く用いられる。〔移動コスト〕は〔運賃〕+〔移動時間〕×〔時間価値〕で計られる。移動時間短縮のためにいくらまでなら余計に費用を負担してもよいかを計る指標が時間価値であるとされ、時間短縮効果が高いことにより大きな価値を見出す旅客ほど公共交通機関に多くの費用を負担してもよいと考える(平たく言えば、急いでいる人ほど「時間をお金で買うこと」に肯定的となる)。

この算式では、移動コストに時間価値の概念を導入しているため、公共交通機関は速ければ速いほど、時間短縮効果が大きければ大きいほど、また、急いでいる旅客が多ければ多いほど、移動コストが低く算定されることになる。予想される乗客数を操作して多く見積もれば見積もるほど、移動コストが下がり、結果として高速輸送機関の建設推進派を利する。原発の安全性と同じで、推進派が算定する移動コストなど、いかようにも操作可能でまったくアテにならないのである。

同時に、この「犠牲量モデル」が公共交通機関の費用対効果の算定手法として使われる限り、リニアのような事業を止めることは永遠にできないことを意味している。政府・企業などの推進派によって行われるこの手の「まやかし、目くらまし」の手口を明らかにしたという点だけでも、本書は一読に値する。

リニアに3兆円もの国費が投入されることをおかしいと感じる人、「こんなことに使うカネがあるならもっと別のことに使うべきだ」と考えている人は、この犠牲量モデルに対する分析だけでもご一読をお勧めする。

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【書評】東芝不正会計 底なしの闇(今沢真・著、毎日新聞出版)

2016-09-04 22:54:38 | 書評・本の紹介
入院中に読んだ3冊目。東芝での不正会計問題について追ったドキュメントである。著者は毎日新聞論説委員、毎日新聞ウェブサイトの「経済プレミア」編集長兼論説委員であり、「経済プレミア」の立ち上げに関わった人物でもある。

アマゾンのブックレビューなどでは、「今沢氏の自分語りがウザい」「経済本としては食い足りない」という評価が目についた。当ブログとしては、今沢氏の自分語りについては別にウザいと思わないが(そもそも「本」とは自分語りをするための媒体でもある)、気になったのはこの本の中途半端さだ。どのような層を読者として想定しているかが今ひとつ見えにくいのである。

財務諸表が読め、日本経済新聞の記事も難なく読みこなすような人たちにとって、本書による解説は食い足りない、掘り下げが足りないと映るであろうし、逆に「日経の記事なんて読むだけで頭痛がしてくる」という層の人たちからは、もう少し詳細な説明が欲しいと思われるだろう。「経済プレミア」を、経済が専門でない人々にフォーカスした媒体にしたいと考えているのであれば、せめて「減損処理とは、企業の事業廃止や縮小に伴って不良資産となった固定資産の帳簿価格を、実勢価格に合わせて引き下げるとともに、差額を評価損とする会計処理」のことである、という程度の説明は必要だろう。今のままでは、経済プレミア自体「帯に短したすきに長し」の状態で中途半端になるのではないか。そんな懸念がわき上がってくる。

とはいえ、この間、毎日新聞や「経済プレミア」が報道してきた東芝不正会計問題を、1冊の本にまとめ、経過を追いやすくしたことは評価できる。東芝の不正経理問題に関心を持っているものの、インターネットで個別の記事を検索し、まとめる作業をこれから行うだけの労力を割きたくないと考える人たちにとって、この本は悪くない選択だと思う。ただ、そうした努力も、東芝の不正経理問題が完全決着していない2016年1月段階で第1刷が刊行されたため、中途半端なものに留まっている。

今沢氏には、ぜひ、この問題を最終決着まで取材していただくとともに、この本の続編としてまとめていただけるよう希望する。東芝の不正経理問題の全貌を明らかにする仕事は、それによって初めて完成したといえるだろう。

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【書評】蔡英文 新時代の台湾へ(蔡英文・著、前原志保 (監修・翻訳)、白水社)

2016-09-03 22:29:16 | 書評・本の紹介
台湾で史上初の女性総統に就任した蔡英文氏による著書。2015年12月に台湾で発売されたものの日本語版。

2,000円以上もする高い本だが、これだけのカネを出す価値はある。

「自民党政権に代わる新たな政権への交代につながるヒントはもはや日本国内にはない。日本に国情がよく似た海外の先行例を探るしかない」というのが、この本の購入の動機だった。少なくともアジアでは、平和的政権交代が最も上手く機能している台湾政治の中に、自民党政権に代わる新たな政権へのヒントがないかと考えたのである。

そうした私の疑問への答えは、本書にある程度提示されているように思えた。蔡英文が優れているのは、政治家として「自分の理想、成し遂げたいこと」と「国民、周囲が自分に期待していること」との間のバランスが良く取れている点にある。日本の政治家は、このどちらかに極端に偏っている人がほとんどである(具体例を挙げると、憲法改正という「やりたいこと」への思いが強すぎて、人の言うことにまったく耳を傾けない安倍首相のような人物と、「周囲が自分に期待していること」への思いだけが強すぎて、有権者の息子の就職の世話をするなどの単なる「御用聞き」に堕している人物の両極端しかいない)。「理想を掲げつつ、現実と格闘しながら進む」という、本来の意味での政治家は、日本に皆無と言っていい。

蔡英文が、2012年総統選に敗北してから、台湾各地を回り、人々と交流する様子が本書には描かれている。こうした人々との交流を通じ、人々が自分に何を求めているかを熟知しているからこそ、蔡英文は逆境でもぶれずに選挙戦を戦うことができたのだろう。

日頃は選挙区にも顔を出さず、それぞれの持ち場で歯を食いしばって働く庶民の中に入っていくこともなく、選挙が近づいてくると政党を壊しては新党を作り、「私に清き1票をください」と連呼するだけの日本の野党なんて、戦う前から蔡英文に負けている。日本の野党関係者は、蔡英文の爪の垢でも煎じて飲むべきだろう。

もうひとつ、感じたのは日本の行政が硬直化していてまったくダメな点だ。本書で印象に残ったのが、外壁にひびが入ったままの校舎で授業を受け続けている子どもたちを前に、地元住民がボランティアで外壁を修理したエピソードである。台湾ではこうしたことが、成熟した市民社会の下で普通に行われているようだ。

だが、これが日本なら、まず成功しないだろう。日本の市民が、見るに見かねて同じことをしようとすれば、「市(区町村)の財産である校舎を市民がなぜ、何の権限で勝手に修理しているのか」と役所から邪魔が入るだろう。もし市民が、子どもたちのために善意での修理を強行したとしても、下手をすると「権限のないものによる勝手な修理は認めない」として、役所がわざわざ血税を投じ修理前の状態に戻す工事を行う、などという事態が冗談ではなく本当に起こりかねない。

本書を読んで、悔しいけれど、日本はもう完全に台湾に負けていると思った。市民意識、政治、行政あらゆる意味で。「同じ島国で、面積が狭く、エネルギー・資源もなく、片や国民党、片や自民党による長期1党支配の歴史を持つ日本と台湾は、似たもの同士」だと、本書を読むまでは思っていた。だが、定期的に政権交代ができるようになった台湾に対し、日本は一時期の例外を除いて60年近く1党支配が続いている。産業構造の転換にも失敗し、建設業など非効率な産業への公共投資ばかりが続き、たいした成果も上げていない。シャープも鴻海に買収された。このまま行けば、日本はいずれ台湾の背中も見えなくなり、中国・北朝鮮とともに「東アジア最後の1党支配国家群」に分類される日が来るーーそんな近未来が、本書を読んではっきり見えた。

日本に果たして、蔡英文のような政治家がいるだろうか。「自分の理想、成し遂げたいこと」と「国民、周囲が自分に期待していること」との間のバランスが良く取れ、違う政治的意見を持つ人々とも交流を厭わず、「理想を掲げつつも現実と格闘しながら進む」タイプの政治家。蔡英文に比肩する政治家は、いないように思える。

蔡英文より、1回り、2回りスケールが小さくても良いなら、辛うじて、嘉田由紀子・前滋賀県知事が私の持つ蔡英文のイメージに最も近い日本の政治家だと思う。乱開発を抑制し、無駄な公共事業の象徴だった新幹線栗東新駅建設を中止し、利益誘導しか頭になかった県議会自民党を分裂させ、「対話でつなごう滋賀の会」(対話の会)という地域政党を作ることで県議会に足がかりも得た。こうした新しい政治家が、日本に、それも地方でなく中央政界に、ひとりでも出てくれることを願う。

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【書評】「野党」論~何のためにあるのか(吉田徹・著、ちくま新書)

2016-09-02 22:22:55 | 書評・本の紹介
さて、入院中、さすがに手術直後の2~3日間は身体が苦しく、何もする気が起きなかったが、4日目くらいからは次第に身体も楽になり、日頃なかなかできない読書をするのに十分な時間を確保できた。これから数日間の記事で、入院中、読んだ本の書評を書くことにしたい。なお、読んだ順に取り上げることにする。まず最初は「「野党」論~何のためにあるのか(吉田徹・著、ちくま新書)」から。

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55年体制当時の「政権を目指さない、反対だけの野党」の時代が終わり、ポスト55年体制期における「政権交代可能な保守2大政党」に向けた試みも民主党政権の失敗で潰えた後、未来の野党がどのようにあるべきかを論じた好著。

そもそも、日本では野党について真面目に論じた書物自体が極端に少なく、日本共産党以外の野党は論壇からまともな議論対象として認識されたことさえない。「対案を示さず反対ばかり」「外交・安保を理解できない反日売国集団」という自民党・ネトウヨの宣伝が行き届きすぎて、野党が国民に相手にされていない現実がまずある。そうした中で、あえて誰もやろうとしない仕事にチャレンジした吉田の心意気は評価できる。

吉田は、55年体制期の「抵抗反対野党」、ポスト55年体制期の「政権交代型野党」の後に来るべき未来の野党像として「対決型」野党を提示している。「争点対立的」で「動員の範囲」「野党性」がいずれも「高」い野党、つまり自民党とは異なる社会像(オルタナティブ)を提示でき、無党派層を含む国民多数を動員できる政党、というのがその具体的内容である。

私は、民主党政権崩壊の原因は「公約に書いていることはまともにやらず、公約に書いていない消費増税に踏み込んだこと」「第2自民党化したこと」に原因があると考えている(民主党が第2自民党に過ぎないならば、国民は政権担当実績の長い自民党でいいと考えるだろう)ので、吉田が提示したこの未来の野党像には大いに共感できる。

ただ、ここまで理想的な野党は政権交代の本場、欧米諸国でもそうそう実現していない(フランス社会党やドイツ社会民主党、スペイン社会労働党あたりが吉田の考える理想の野党像だろう)。歴史的に「野党不毛地帯」の日本で、こうした野党の生まれる余地があるのだろうか。考えれば考えるほど、暗澹とした気持ちになる。

著者の吉田は政治学者であり、現実政治を担わなければならない「当事者」としての野党とは立場が違う。学者の使命は「あるべき理想」を提示することであり、その意味で吉田は学者としてきちんと仕事を果たしたと言えよう。

自民党政権はすでに60年近くに及び、保守合同による自民党成立以前を知っている人は若くても70~80歳代という状況の下で、多くの日本人は、「野党を育てるといってもどうやって育てていいかわからないし、そもそも野党に何を期待していいのかもわからない」というのが実情だろう。このような有権者しかいない国で、まともな野党が育つわけがない。まともな野党は、それを育てたいという国民が存在して初めて育つものである。

そのように考えると、本書には「どうすれば野党が育つか」の処方箋が欲しかった。著者の吉田は、諸外国の政治事情にはそれなりに知見があり、諸外国の例も豊富に紹介されているが、政治的諸条件の違う諸外国の例は日本の参考にはなり得ない。日本の政治事情に即した野党の育て方についてのヒントが欲しかったが、それが提示されていないのは、吉田もその方法論を持ち合わせていないからだろう。

しかし、野党とは何か、それが政治においてどのような役割を果たすべきかについては示されている。日本の政治状況を考えると、今はそれで十分ではないだろうか。野党がこんな体たらくの日本で、あまり高望みをしても仕方がないと思う。

自分たちの子どもたち、孫たちの世代になっても、まだこの本が「有り難がられて読まれ続けている」状況にならないよう、今の世代の私たちが、吉田の提示する理想の野党に少しでも近いものを生み出せるよう、できることから取り組む以外にないのではないだろうか。

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【本の紹介】2014甲子園データバイブル

2014-08-26 20:04:43 | 書評・本の紹介
甲子園データバイブル 記憶が記録と重なる時 2014 第1回~第95回全試合完全網羅

本来なら甲子園大会開会前にご紹介できると良かったのだが、いろいろあって大会後になってしまった。

「第1回(1915(大正4)年)~第95回(2013(平成25)年)全試合完全網羅 必携保存版」の名にふさわしいデータ集。夏の甲子園大会、第1回からの全試合データが載っている。高校野球ファンには垂涎の1冊だ。

載っている主なデータは、各大会ごとの出場校一覧、全試合対戦成績、総本塁打数、総観客動員のほか、優勝チーム紹介、記憶に残る名選手、プロに進んだ主な選手など盛りだくさん。これが95回分載っていてお値段は1,620円という超破格。私ならたぶん5,000円でも買うと思う。それほどの価値がある。

当ブログのように、歴史的経緯まで踏まえた大会講評を書くのでなくとも、「過去にこんな大量得点試合、あったかな?」「あの学校はいつが初出場なんだろう?」といったような高校野球ファンの素朴な疑問の多くはこの1冊で解消される。今後の高校野球の楽しみ方がひとつ増えること請け合いだ。来年以降の大会のために今から入手しても決して遅くない。

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【コミック】からかい上手の高木さん 1巻【一部ネタバレあり】

2014-06-26 21:36:24 | 書評・本の紹介
からかい上手の高木さん 1巻(ゲッサン少年サンデーコミックススペシャル)

当ブログの「書評・本の紹介」カテゴリでは、いつも重い本、お堅い本の紹介がほとんどなので、たまには肩の力を抜いてマンガの紹介でもしてみよう。少年サンデー誌上で読み切りとして連載された同名の作品を単行本化したもので、作者は山本崇一朗。コミックは6月に発売されたばかりだが、ネットで早くも話題の作品。「自分もこんな甘酸っぱい青春を過ごしたかった」と多くの男性諸氏が悶絶、憤死…しているとかいないとか。

ストーリーは至って単純だ。小学校高学年~中学生くらいの頃、女子への恋愛感情をうまく処理できない未熟な男子が、好きな女子にわざと意地悪をしたり、甚だしい場合はわざといじめたりといったことを身近に見聞きした方がいると思う。本作は、ひとことで言えばこれの男女逆バージョン。隣の席の男子、西片を好きになった女子、高木さんが、西片をひたすらからかい、意地悪をしまくる。

とにかく、高木さんのいたずらの徹底していること。授業中でもお構いなく、1日何十回も西片をいたぶっては「ぷくく」とドヤ顔で笑い、「いい反応するわ」「これだから西片からかうのやめらんない」とのたまう。西片はそれが悔しくて、今日こそは高木さんに恥をかかせてやろうと復讐を誓い、反撃に出ようとするが、いつも高木さんに「返り討ち」にあってしまい、やられっぱなしの毎日…。

高木さんのいたずらが悪意のない、遊びレベルのものであるために、読者は読後に嫌悪感を抱かずにすむ。山本先生の作品を私は初めて読んだので、他の作品は知らないが、主人公・西片、ヒロイン・高木さんには名字だけで名前も設定されていないようだ。2人は彼氏彼女の関係ではなく、名前で呼び合う関係にはほど遠い状況なので、これでも問題ないのだろう。

巻末の「おまけ」では、西片とじゃれ合う高木さんを見て、2人の関係を疑った女子のクラスメートが、トイレで高木さんに「西片くんと付き合ってるの?」と聞く。これに対し、高木さんは「付き合ってない」と答える。問いただした女子のクラスメート(ユカリ・サナエと呼ばれていた)はそれを聞いて、それ以上の追及はしないで終わらせているが、「三度のメシより恋バナ好き」のこの年代の少女たちが、そんなんで納得するもんなんだろうかと、私はふと疑問を抱いた(もっとも、この作品はそんなよけいな詮索をするよりも、高木さんにいじられまくる主人公・西片に感情移入して楽しむものだろう。読み進んでいくうちに、西片に感情移入した男性読者の多くは、自分が高木さんにいじられ、遊ばれている感覚になってくる)。

私も多くの読者同様、「こんな甘酸っぱい青春、してみたかった」という感想を抱いた。とはいえ、今、そんなふうに思えるのは、とりもなおさず自分が「大人だから」。もし自分が中学生で西片と同じ立場だったら、恐らくは毎日、高木さんの「攻撃」をどう回避するかで精一杯で、そんな状況を楽しむ余裕なんてまったくなかっただろうな、とも思う。

読者によって、本作は合う/合わないが大きく分かれる作品であるように思う。子どもの頃、西片のようなヘタレ人生を送っていた男性読者にとっては、この作品に甘酸っぱさと同時にほろ苦さも感じるかもしれない。

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【書評】リニア新幹線 巨大プロジェクトの「真実」

2014-04-29 23:28:24 | 書評・本の紹介
リニア新幹線 巨大プロジェクトの「真実」(集英社新書)

昨年、JR東海の発表したリニア中央新幹線計画は、全国新幹線鉄道整備法(全幹法)に基づく整備計画路線として認可され、いよいよ今年から着工へ向けた準備作業が始まることになる。リニア新幹線計画を止めるなら、事実上、これが最後のタイミングだ。本書はそうしたタイミングを捉えて出版されたリニア計画全面批判だ。

リニア中央新幹線計画に批判的な長野県飯田市議会議員から当ブログ管理人宛に「地元ではリニアに関し、全くものがいえない状態」というメールが送られてきたこともある。リニア計画に対する批判は、どうやらこの国にとって、3.11以前の原発同様「完全なタブー」のようだ。極端な言い方をすれば、3.11以前の原発と同様、リニアに批判的な人は村八分にされるか、頭がおかしいと思われる。そうしたファシズム的状況が社会を覆っている。大手メディアはもちろん、週刊誌にすらリニアに対する批判記事が載ることはない。それだけに、本書が出版されたことは大変貴重といえる。

本書を読めば、リニアが百害あって一利なしということが良く理解できる。現在の東海道新幹線の乗客の8割がリニアに転移したとしても、建設費を償還できるかどうかは微妙。国土交通省の審議会とJR東海が「お手盛り」で見積もった需要予測は、なんと「全列車全車両満席」が前提になっているというから、驚きを通り越して呆れてしまう。現在の東海道新幹線すら座席使用率は8割、しかもこれから人口減少社会が待っているというのに…。

全行程の8割がトンネル内で車窓もろくに楽しめず、電磁波の身体への影響を心配しながら乗車し、東海道新幹線なら新大阪まで乗り換えなしで行けるところをわざわざ名古屋で乗り換えなければならないリニアに、東海道新幹線の乗客の8割もが転移するなんてことがあるわけがない(どうしても転移させたいなら、東海道新幹線の東京~名古屋間を廃止するくらいの荒療治をやらなければならないだろう)。

本書では、さらに驚愕の事実が明らかにされる。JR東海社長みずから、定例記者会見で「(リニア中央新幹線は)絶対にペイしない」と発言したというのだ。だとすれば、この計画は、誰が何のために進めているのか。ここまで来ると全くわけがわからないが、思えばこうした「意味不明な金食い虫公共事業」は八ツ場ダムに典型的に見られるように、これまでもあちこちにあった。アベノミクスは明らかにこうした「昭和型公共事業」復活を目指しており、「新幹線はいらないけど新幹線工事は欲しい」「高速道路はいらないけど高速道路工事は欲しい」という人たちに向けた政治的ばらまきとして、この中央リニア新幹線計画もまた位置づけられていると考えるべきだろう(昨年末、2014年度予算の財務省原案が決定する直前の国土交通省1階ロビーで、公共事業を求める「背広に鉢巻き姿の業界関係者」が「エイエイオー」と拳を振り上げていた、という話まであるくらいだ)。

著者の橋山禮治郎氏は極めて冷静に、データを示して論証しながら、中央リニア計画を「失敗が決定づけられているプロジェクト」と断ずる。その上で、リニア方式をやめ、従来型新幹線方式で中央新幹線を建設してはどうか、と提案している。当ブログ管理人はその見解に全面的に同意する。奇しくも今年でちょうど開業から50年を迎えた東海道新幹線は老朽化が進む。民営化後は国鉄時代のような「リフレッシュ運休」も行っておらず、運行の安全面はかなり危機的な状況にある。酷使が続いている東海道新幹線の「代替路線」を確保する意味からも、また近い将来襲来が噂される南海トラフ地震によって太平洋沿岸の輸送が途絶する事態を避ける意味からも、中央新幹線で東京~大阪を結んでおくこと自体は有意義なことだと思うのだ。「ネットワークとしての既存の鉄道路線網を有効活用せよ。従来の鉄道網のどことも接続できないリニアは鉄道ネットワークを破壊する」という橋山氏の主張に、改めて鉄道関係者としての深い見識を見る思いがする。

本書の中で、橋山氏はさすがにここまでの指摘はしていないが、私は、青森から鹿児島中央までが新幹線で結ばれた今、そろそろ新幹線を貨物輸送にも活用したらどうかと思っている。新幹線を活用できれば、「その日の朝、大間で揚がったマグロを新鮮な状態のまま、昼に都内の料亭で食べる」などという、現在ではほとんど不可能なことが可能になる。過労運転で疲弊しきっているトラック業界の労働条件改善の一助にもなるだろう。

「新幹線で、軸重の大きな機関車牽引方式の列車の高速運転なんてできるのか」という疑問をお持ちの方もいるかもしれないが、すでに技術面では克服されている。東海道本線で1日1往復、運転されている貨物電車「スーパーレールカーゴ」JR貨物M250系電車を標準軌化し、交流25000V、50/60Hz共用に改造するだけですぐにも新幹線に投入できるだろう。電車方式で超高速貨物輸送を行う先例を世界で初めて作れれば、「貨物列車は機関車牽引方式が当然」という世界の鉄道界に衝撃を与えることができる。リニアなどよりそのほうがよほど私には価値のあることだと思うが…。

このように考えると、国鉄分割民営化から27年という時の流れを改めて強く感じる。新幹線を貨物輸送に使うことができれば、新幹線は旅客輸送、在来線は貨物輸送というJR発足時の前提条件も大きく変わる。現状の旅客6社+貨物という枠組み自体、意味を成さなくなり、この点からも限界に達したJR体制は再編が避けられないだろう。

いずれにせよ、本書は難しい技術論争の隘路に迷い込むのではなく、技術的知見を持たない一般市民にも理解できるよう、経済性(費用対効果)や環境問題の観点からリニア計画を論証している。本書を読めば、リニア計画の無謀さは余すところなく理解できるであろう。

2014年、JR体制との最大の攻防は北海道の安全問題とリニア建設問題である。いずれもJR体制の根幹に関わる問題だ。当ブログと安全問題研究会は、本書を「推薦図書」に指定するので、ぜひこの本を読んでほしいと思っている。

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