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参院選に向けて~「戦後日本の対米従属と官僚支配~「特別会計」体制」を読む

2022-06-27 23:29:05 | 書評・本の紹介
(この記事は、当ブログ管理人が「レイバーネット日本」に発表した記事をそのまま掲載しています。)

森健一さんのこの本は、厚さこそ160ページだが、およそこの100年に起きたあらゆる出来事が記載されており、政府に都合のいいことしか書かれていない「検定教科書」などよりよほどためになる知識が詰まっている。800ページにも及ぶ大作として送り出された「戦後史のなかの国鉄闘争」も併せ、改めて森さんの博覧強記ぶりに驚かされる。

本当はもっときちんと読み込んでから書評を書くべきなのだろう。だが、「本書は、2022(令和4)年7月10日に投開票される第26回参議院選挙に向けて書かれている」(はじめに)と森さん自身が記述しているとおり、参院選前に書評をしなければ意味がないので、エッセンスだけでもご紹介し、参院選に向けて私たちがどのように行動すべきかをまとめてみたい。

森さんは、本書の中で、戦後、官僚の「隠し財布」「隠し財源」といわれてきた国の「特別会計」制度からあらゆる形で利権が流し込まれた結果、有権者の25%が自民党の岩盤支持層に育ってきたという仮説を立て、それを検証するため、膨大な「戦後史の証言」を集めている。

特別会計制度については、小泉政権当時の塩川正十郎財務相の「母屋でおかゆ、離れですき焼き」という発言が比較的知られる。母屋(一般会計)では金がなくておかゆをすすっているのに、離れ(特別会計)ではすき焼きを食べているとして、官僚の隠し財布となっている特別会計制度の問題を指摘し、話題になった。

特別会計とは、国の特定の事業について、収支を可視化するため一般会計とは別に区分される予算のことだ。特徴的なのは、一般会計を財務省が所管するのに対し、特別会計はその事業を担当する省庁の所管となることである。例えば、社会資本整備特別会計は国土交通省所管。様々な原発関係交付金の原資になっているエネルギー対策特別会計のように、経産省、文科省、環境省の3省庁にまたがるものもある。これは、エネルギー対策特別会計予算の中でも商業目的のもの(電力会社など)は経産省、研究開発目的のもの(日本原子力研究開発機構=旧動燃など)は文科省、廃棄物処理や環境対策は環境省と、縦割り行政になっているからである。事業を担当する省庁が直接所管するため、財務省が口出しできず、聖域としてばらまき的無駄遣いがたびたび問題とされてきた。

一般会計予算は、形骸化が指摘されているが、一応は国会(予算委員会)で審議の対象となる。国会で審議されるのは、予算書の中の「項」の区分までであり、「目」以下は各省庁が財務省と協議して振り分けている。また、国会議員の中で予算書を本当の意味で読みこなせている人がどれだけいるかは心許ない。それでも国会で審議され、テレビ中継されること自体に意味があるし、細かい区分など知らなくても、国会では予算の規模や使い道、事業の妥当性などを質すことができる。ところが、特別会計に関してはほとんど闇の中で、審議らしい審議はされていない。

こうした特別会計は、最盛期には30を超えていたが、最近は整理が進んで十数会計にまで減った。民主党政権当時に大きな話題になった道路特定財源も、当時は道路整備特別会計という国交省官僚の隠し財布だったが、一般財源化された。毎年2兆円近くあった道路財源も、今では1兆円程度にまで減っている。

だが、本書を紐解くと、「特別会計の数も予算額も減り、国の予算は透明化した」などという御用経済学者の説明が全くの嘘であることがわかる。実際は、国の機関の独立行政法人化、政府系金融機関への資金運用委託など、特別会計の「民営化」が進んだ結果、膨大な国の資金の運用は昔以上に不透明になり、見えなくさせられている。国会でろくな審議が行われなくても、特別会計として国家予算の体裁を取っていれば、予算の専門家である会計検査院の検査が定期的に入るが、政府系金融機関などの民間企業は、出資金の半分以上が政府からのものでない限り、会計検査院も定期検査はできないのである(会計検査院法第22条5号)。このような、国会の目も会計検査院の目も届かないところから、公共事業や補助金を通じて政府資金が不透明な形で流れ、有権者の25%に及ぶ自民党の岩盤支持層が形作られているというのが本書のポイントである。

本書に登場する1つ1つの証言は、それだけでは「森説」を裏付ける根拠としては若干、弱いようにも見える。しかし、1つ1つは「弱い証拠」にすぎなくても、これだけたくさん集まると重みを持って迫ってくる。これだけ多くの証言が集まるということは、人の一生に相当する戦後80年という長い時代の中で、それだけ多くの人が同じように感じていることを意味するからである。

この本を手にした人は1つの疑問を抱くであろう。「自民党が支配維持のため岩盤支持層を築く必要性は理解するとしても、それがたったの4分の1で達成可能なのか?」という疑問である。

私が本書を斜め読みする限りでは、「なぜ4分の1なのか」についての説明は見つからなかった。だがこれに関しては、実は海外に興味深い類似例がある。「北朝鮮データブック」(重村智計・著、講談社現代新書、1997年)によれば、朝鮮民主主義人民共和国では、朝鮮労働党への「忠誠度」を基に、国民を「核心層」(忠誠度の高い岩盤支持層)、「動揺層」(社会情勢次第でどちらに転ぶかわからないと党中央が判断している中間層)、「敵対層」に分けて意図的に分断しているという。重村によれば、比率は「核心層」3割、「動揺層」5割、「敵対層」2割である。

北朝鮮における「核心層」3割という数字は、森さんが主張する自民党の岩盤支持層25%にきわめて近い。また北朝鮮での「動揺層」5割も、日本での無党派層(世論調査のたびに「支持政党無し」と答える層)45~50%程度と近い数字である。北朝鮮での「敵対層」2割も、日本における左翼・リベラル層の数字がこれくらいと考えれば、驚くほどよく似ていると言えるだろう(余談だが、安倍元首相が自分に批判的な左翼・リベラル層を「こんな人たち」に負けるわけにいかないと発言して物議を醸したが、安倍元首相が私たち左翼・リベラル層を「敵対層」とみなしているなら、日本と北朝鮮はまるで双子のようにそっくりである)。

一党独裁か、それに近い政治体制が取られている国で、国民の半分が政治的無関心を決め込んでくれている場合、支配政党に忠実な層が国民の中に3割もいれば、十分統治可能であることを、北朝鮮の例は示している。世論調査のたびに「支持政党無し」と答える約半数の有権者が「選挙に行っても何も変わらない」と考え棄権することで、本当に何も変わらなくなってしまうのである。

 ●私たちはどう行動すべきか

残念ながら、2割程度に過ぎない「敵対層」の私たちがいくら頑張ったところで「核心層」(自公政権)を倒すことはできない。参院選で改憲を阻止するためには、寝た子ならぬ「寝た無党派層」を起こさなければならない。このところずっと選挙に行ってないという人が身近にいたら、立憲野党への投票を働きかけてほしい。

自民党の岩盤支持層は4分の1、25%。私たち「敵対層」も2割で少し負けているだけに過ぎない。無党派層の1割程度を起こすことができれば立憲野党にも勝ち目がある。そのことは、先日の杉並区長選でも証明されている。

参院選は、衆院選と違って政権選択選挙ではないが、もし、与党を過半数割れに追い込み「ねじれ国会」を再現できたらいろいろなことが可能になる。自公政権に挑戦するような法案を、参院先議で提案することができるようになる。国会の同意が必要な政府関係機関のいわゆる「同意人事」は、衆参両院の同意がなければならないため、参院が拒否権を発動することもできるようになる。

会計検査院には、国の予算が投じられている事業に関し、国会からの要請があれば特別検査を行うことができる権限があり、そのための専門部署(第5局)まである。この「特別検査要請」は衆参どちらか一方の院だけで発議可能なので、例えば「アベノマスク」「コロナ給付金」「東京五輪」など、国民的関心が高そうな分野から、検査要請を出して不透明な政府資金の解明を行わせることもできる。民主党政権成立前夜の「ねじれ国会」の時期には、実際にこのような多くの検査要請が参院によって行われた。参院に国会の持つチェック機能が戻ってくるだけでも、やりたい放題の政府与党に対する牽制になる。特別会計をはじめとするヤミ資金にメスを入れるため、日本版「動揺層」「敵対層」の有権者の中から、森さんの問題提起を受け止め行動する人が1人でも多く出てくることに期待している。

(文責:黒鉄好)

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【週刊 本の発見】『多数決を疑う~社会的選択理論とは何か』

2022-05-10 23:14:43 | 書評・本の紹介
 (この記事は、当ブログ管理人が「レイバーネット日本」の書評コーナー「週刊 本の発見」に寄稿した内容をそのまま転載したものです。)

 『多数決を疑う~社会的選択理論とは何か』(坂井豊貴・著、岩波新書、720円+税、2015年4月)評者:黒鉄好

 レイバーネットに日常的に接している人の中には、長い人生で「一度も多数派になんてなれたことがない」という方や、それ以前に「自分は明確にマイノリティであり、多数派になりたくてもそもそもなれない」という方も多いだろう。そんな人たちを含む多種多様な人たちを漏れなく包摂していく社会はどうしたら作れるのか。モヤモヤを抱きつつも、解決策がないままあきらめを抱いている人は本書を手にとってほしい。

 著者・坂井は「政治家や有権者が悪いのではなく、多数決が悪い」と指摘する。多数決を「他の方式と比べて優れているから採用されているわけではない」として「文化的奇習」とまで言い切る。多数決を当然の前提として、野党共闘でどう自民党と闘うかという思考から抜け出せないでいる「反自民陣営」をも、坂井はひらりと飛び越えていく。

 坂井は、現行制度に代わるものとして、ボルダルールなどいくつか世界で採用例のある意見集約ルールを紹介する。ボルダルールとは、例えば5人の候補者がいる場合、1位としたい候補者に5点、2位に4点……というふうに点数付けをし、最下位を1点とする。有権者が付けた合計点を算出し、定数3の選挙区の場合、上位3人を当選とする。スロベニア(旧ユーゴスラビアから独立)が採用している。

 ボルダルール以外にも、様々な意見集約ルールがある。坂井がそれらに基づいて試行すると、すべて異なる結果が導き出された。民意などというものが「本当にあるのか疑わしく思えてくる」(本書P.49)。あるのは意見集約ルールが与えた結果のみなのではないか――坂井が導き出した大胆な結論である。

 現在の小選挙区制も「政権交代可能な二大政党制を作り出す」という目的を持って行われたことを想起されたい。目的が初めにあり、そこに向かっていくために意識的に意見集約ルールを変える。「改革」は狙い通りの結果をもたらすどころか、自民1強という最悪の結末を生んだ。

「現行制度が与える固定観念がいかに強くとも、それは幻の鉄鎖に過ぎない」と本書はいう。そもそも労働者は鎖の他に失うものはなく、人が作ったルールは変えられる。小選挙区制はもちろん、多数決自体を疑ってみよう。今までと違う新たな光景が見えるに違いない。

 本書の第5章では、坂井が関わった東京・小平市の国道328号線問題が突如として登場する。政策決定過程に一般市民がまったく関われないことを問題視し、市民が行政の決定過程に民主的に関与する道を開くべきだという指摘は当然すぎ、重要である。だが社会的選択理論を主題とする著書に唐突にこの問題を紛れ込ませているのには違和感がある。これはこれで十分、1冊の本にするだけの重要問題だと思うので、本書からは独立させ、別書として論じるべきではないだろうか。

 だが、その点を割り引いても、本書は「多数決がすべてではない」との希望を読者に与えてくれる。多くの人に読まれるべき好著との評価を変える必要はない。

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【週刊 本の発見】少女の澄んだ瞳が見た福島原発事故後10年の記録/『わかな十五歳 中学生の瞳に映った3・11』

2022-03-03 19:00:58 | 書評・本の紹介
(この記事は、当ブログ管理人が「レイバーネット日本」の書評コーナー「週刊 本の発見」に寄稿した内容をそのまま転載したものです。)

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わかな十五歳 中学生の瞳に映った3・11』(わかな・著、ミツイパブリッシング、1,700円+税、2021年3月)評者:黒鉄好

 著者・わかなさんは、福島県伊達市に住む中学3年生の時に福島原発事故に遭った。それまでは親の敷いたレールの上を、いい子の仮面をかぶって走るのがいい人生だと信じてきた。そんな虚構を打ち砕いたのが3.11だった。この世で最も大切なのは「命」のはずなのに、親も教師も友人も自分自身をごまかし、命より他のものを上位に置き、平気で天秤にかける。その矛盾に心を苛まれ、わかなさんは何度も死を思ったと告白する。

 この葛藤は多くの福島県民に共通のものだ。震災死者数は岩手県5,145人、宮城県10,567人、福島県3,920人と東北太平洋側の被災3県の中で宮城が半数を占める。だが震災「関連死」は岩手県470人、宮城県929人に対し、福島県は2,319人で福島が3分の2を占める。自死や孤独死が大半だと思われる。先の見えない辛さ、それまでの人間関係を中心とする「社会関係資本」の喪失が、被災者の心理に大きな影響を与えるのだ。

 2011年3月11日はわかなさんの卒業式だった。望んでいた福島県内の高校にせっかく合格したのに、自分の意思で避難を決めたわかなさんは山形県の高校に編入となる。山形も放射能汚染されているはずなのに、編入先の高校の生徒たちが他人事で、福島を外国での出来事のように見ていることにショックを受ける。この高校生活が「暗黒の3年間だった」とわかなさんは言う。

 高校の友人の助言で、ツイッターに思いを吐き出すようになると、心配してくれる人の多かったのが北海道であり、移住への希望が募る。短大生の時、山形の自宅を出て北海道に移住。自分の気持ちに蓋をしようとして壊れてしまった多感な思春期は、それでも自分に正直に生きようと決めた今、貴重な準備期間だったとわかなさんは振り返る。

 読み終わった瞬間、痛みを感じる。著者わかなさんの純粋さが、大人たちのどんな小さな心の欺瞞も容赦なく撃ち抜くからだ。「嘘や、不正や、隠ぺいを野放しにしてきた積み重ねが、原発事故を招いた」(本書P.92)との指摘に評者は全面的に同意する。評者もまた各地に講演に招かれるたびに同じことを主張してきたからである。

 評者の政治上の師であった国労闘争団の故・佐久間忠夫さんは「14歳の時国鉄に入り、戦争が終わった。昨日まで軍国主義を唱えていた教師が無反省に民主主義に変わるのを見て大人を信じられなくなった」と、生前よく語っていた。わかなさんの澄んだ瞳にもそれと同じものを感じる。昨日まで信じていた価値観が目の前で崩れ落ちた77年前の焼け野原。2011年3月の福島も、日本にとって第2の敗戦なのだ。

 大人を信じず、自分の頭で考える人々が戦後民主主義の礎を築いた。77年後の今、私たちは再びスタートラインに立たされ、試されている。わかなさんは自分に正直に生きることを、読者はじめ他者へも求める。日本、そして日本人が壊れ墜ちた民主主義を再建できるかどうかは、どれだけ多くの人がいわゆる「大人としての分別」を投げ捨てられるかにかかっている。

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【転載記事】〔週刊 本の発見〕核のない未来を願って 松井英介遺稿・追悼集

2022-01-06 23:11:09 | 書評・本の紹介
(この記事は、当ブログ管理人が「レイバーネット日本」の書評コーナー「週刊 本の発見」に寄稿した内容をそのまま転載したものです。)

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気骨ある反核医師の生き様から核廃絶の重要性を学ぶ~『核のない未来を願って 松井英介遺稿・追悼集』(松井英介遺稿・追悼集編集委員会・編、緑風出版、3,400円+税、2021年11月)評者:黒鉄好

 核兵器と、核のいわゆる『平和利用』としての原発。その双方に反対し精力的な活動を続けてこられた松井英介・岐阜環境医学研究所長が82年の生涯を閉じたのは2020年8月。お連れ合いの和子さんから「故人の追悼集を出したいので、生前にゆかりのあった人に追悼文を寄稿いただきたい」と評者にも依頼があった。英介さんを中心に発足した「株式会社はは」の会報的なものだろうと思ったので気軽に引き受け寄稿した。贈呈を受けてから、立派な装丁を見て驚いたというのが正直なところである。

 「株式会社はは」は、福島で、子どもの歯の生え替わりで抜けた乳歯を保存、残留する放射性ストロンチウムのデータを記録し被曝の実態を解明するための民間プロジェクト組織である。放射性ストロンチウムはカルシウムに似た性質を持ち、歯や骨に蓄積しやすいことからこのプロジェクトが発足した。「はは」は2018年に開設したばかりで、まさにこれからという時期に英介さんは旅立った。

 評者と英介さんとの関わりは米軍によるイラク戦争に遡る。米軍が使用した劣化ウラニウム兵器の危険性を民衆法廷で証言いただいた。天然ウラン鉱石から原爆や原発の燃料となるウラン235を抽出後、残ったウラン238は核分裂を起こさないため燃料にはならないが、放射性物質であるため利用もできず各国は処分に困っていた。だが地上で最も重い物質である点に米軍が着目し砲弾に転用。砲弾が燃える際に飛散したウラン238を吸って多くのイラク市民が被曝した事実は、英介さんとの出会いなくしては知り得なかった。当時は距離感もイメージできないほど遠い国の出来事と思っていた放射能被曝に、その後よもや自分が遭うことになるとは夢にも思っていなかった。

 原発事故後、福島で今後どうすべきか途方に暮れていた私は、郡山市での講演会で英介さんに偶然再会した。「ヒトの肺胞というのは、大人の場合、広げると面積はテニスコート1面分と同じ。福島で生きるということは、その面積いっぱいに放射能を吸うことです」。肺胞の大きさを印象づけようと、両手をいっぱいに広げて話す「英介節」は昔と変わらず健在で、驚きより懐かしさを感じた。それまでの私は、福島原発事故が巨大すぎて現実感覚を持てずにいたが、8年前は写真で見るだけだった遠い異国の放射能被曝者と同じ数奇な運命を、これから自分も生きなければならないのだと厳しい現実を悟った。

 本書には、英介さんとともに直面したその厳しい運命と、それでも格闘しながら生きることを選択した137人もの寄稿者の思いが綴られている。そこには、原子力ムラの地位と利権に溺れた者たちが世迷い言のように繰り返す根拠なき楽観など微塵もない。緊急事態宣言下で強行された東京五輪は、多くの市民に日本の衰退と精神的荒廃を自覚させる契機となったが、本書の137人の寄稿者たちは10年も前から気づいていたのだ。

 原子力ムラ関係者を福島、そして世界から追放しようとする137人の闘いとそれにかける思いに本書を通じて接してほしい。その闘いはまだ緒に就いたばかりであり、10年経った今もなお、終わりが見える気配はない。

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【転載記事】〔週刊 本の発見〕女性のいない民主主義

2021-11-04 23:43:46 | 書評・本の紹介
(この記事は、当ブログ管理人が「レイバーネット日本」の書評コーナー「週刊 本の発見」に寄稿した内容をそのまま転載したものです。)

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なぜ日本で「女性政治家」が増えないのか~『女性のいない民主主義』(前田健太郎・著、岩波新書、820円+税、2020年3月)評者:黒鉄好

 世界経済フォーラムが発表するジェンダーギャップ指数で日本は常に最下位グループで、順位の足を引っ張っているのはいつも政治部門。なぜ変われないのか、女性政治家が増えない理由はどこにあるのか。解決方法はあるのか。その疑問に挑戦している。

 「女性議員が増えなくても、女性の意見や悩みに共感し、耳を傾け、その意見を政治に届けるまっとうな男性議員が増えれば政策決定上は問題ないのではないか」という主張も根強くあるが、前田はこうした意見に対し、民主主義という政治体制の下で「誰が誰を代表しているのか」との疑問を提示。「政治家はみずからの支持者の社会的属性と同じ属性を持っている」と指摘した上で「代表者を持てない社会層の意見は政治には反映されない」と分析。「存在の政治」との表現で、女性の意見を政治に反映させるため、女性政治家を増やすことはやはり必要であるとする。

 前田はさらに、なぜ女性の意見が政治に反映されにくいかについても分析している。政治とは利害関係のぶつかり合いであり、労働組合・業界団体などに集団化、組織化された社会層が有利であることは明白である。こうした組織化は男性中心に行われてきた。女性の組織化が男性に比べて進まなかった理由について、前田は女性の意見や利害関係が男性に比べて多様であることを指摘する。実際、女性は雇用形態ひとつとっても男性の非正規化が問題とされるはるかに前から正規、非正規など多様で、共通の利害関係に基づく社会集団への組織化は難しい面があった。さらに、このような組織化された社会団体から候補者が「発掘」されるケースが多いことも女性が政治から排除されることにつながったとする前田の分析は説得力を持つ。これらは与野党共通の課題であり、女性政治家を意識的に育成する何らかの仕組みが必要であることを示唆している。

 日本で女性政治家が育たない原因についての前田の分析は多方面に及び、納得できるものが多いが、様々な要因が積み木のように少しずつ積み上げられて今日の状態が作り出されていることも同時に見えてくる。「この要因さえ取り除けば状況が劇的に改善する」という特効薬的な解決策は存在しないように見え、それだけに本書を読み進めば進むほど、解決の困難さも浮き彫りになるとともにため息が止まらなくなる。だが、前田が同時に指摘しているのは、政治への女性進出が始まったのは欧米諸国を除けば21世紀に入ってからであり、日本だけの問題ではないという事実である。もちろんそれを言い訳にしてよいわけではないが、「千里の道も一歩から」と腰を据えて取り組む以外にないと思う。

 本書に不足があるとすれば、前田が単純に女性政治家の「数」だけにこだわった議論をしている点である。「どのような女性政治家が増えるべきか」の議論は行われていない。まず人数が増えることが第一であり、「質」の議論はその後でいいと前田が考えていることは本書の他の記述から伝わってくる。だが女性政治家が一定の数を確保した後は「質」が議論される日が来る。前田がそのときにどのような議論を展開するのか。1980年生まれの若き著者の今後も含め、注目すべき1冊である。2020年新書大賞第7位。

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【転載記事】〔週刊 本の発見〕企業犯罪を罰するには~JR福知山線事故から生まれた1冊

2021-09-02 20:33:57 | 書評・本の紹介
(この記事は、当ブログ管理人が「レイバーネット日本」の書評コーナー「週刊 本の発見」に寄稿した内容をそのまま転載したものです。)

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組織罰はなぜ必要か』(組織罰を実現する会・編、現代人文社ブックレット、1,200円+税、2021年4月)評者:黒鉄好

 企業や法人、政府機関などの組織が不注意などの過失により事故を起こし、多くの被害者を出しても、日本には100年近く前に制定された刑法の規定により責任者の「個人としての罪」を問うことしかできない。法人にも罰金刑を併科できると定めた法律も一部にあるが、あらゆる形態の組織犯罪を網羅して、そのような規定を持つ法律は存在していない。このため、大組織になればなるほど責任と権限が分散、「誰もが少しずつ悪いが決定的に悪い人は存在しない」という壁に阻まれ、日本では墜落事故で520人が死亡しても、脱線事故で107人が死亡しても、原発事故で10万人近い人が避難民となっても、いまだ誰一人として刑事責任を問われていない。

 本書が生まれるきっかけとなったのは2005年の福知山線脱線事故である。当時23歳の娘さんを事故で失った大森重美さんが代表となり「組織罰を実現する会」が結成された。大森さんは「組織の構成員ひとりひとりは灰色であっても、灰色が重なり合うことで黒に近づき、組織全体であれば罪に問えるのではないか」として、組織に高額の罰金刑を科することができる制度(組織罰)の創設に意欲を見せる。

 構成員に理不尽な事故対策サボタージュを強いることで得をするのは個人でなく組織だ。高額の罰金刑を通じて組織から「不当利得」を返還させることには合理性がある。

 福知山線事故のほか、笹子トンネル天井板崩落事故や軽井沢スキーバス事故遺族など、本書には様々な事故の遺族が登場する。第2章ではそうした遺族たちが思いを述べる。遺族の悲痛な思いに接すると胸が締め付けられる。第3章では、質問に対し専門家が回答するQ&A方式で、組織罰という聞き慣れない制度に対する解説が行われている。第1章で制度の概要を説明し、第2章では遺族の思いを前面に出して、法制度不備の理不尽さに対する読者の怒りと共感をうまく引き出し、組織罰制度の必要性に対する確信を与えてから、第3章で導入への具体的な道筋を描くという本書の構成は、全体を読み終えてみると意外にうまくできていると感じる。

 評者自身も福知山線脱線事故には長く関わってきた。福島第1原発事故当時、県内に住み間近でその理不尽も味わった。この事故も、福知山線事故と同じように検察の不起訴処分を検察審査会が覆し、強制起訴によって刑事訴訟が行われている。ただ2019年9月の東京地裁判決はここでも無罪。現行裁判制度の限界も改めて浮き彫りになった。

 組織罰制度がモデルとしている「法人故殺法」制定後の英国では、公共交通機関の事故が3割も減ったとの報告がある。制定に激しく抵抗した英国産業連盟(経済団体;英国版経団連)も「企業の信用度が高まることがビジネスにもプラスになる」として今では法人故殺法を容認している。世界の組織罰制度の一覧表からは多くの国がすでに同様の制度を設けていることが分かる。ここでも「日本の常識は世界の非常識」なのである。

 法人故殺法案は、保守党政権下では黙殺され続け、労働党政権時代になって日の目を見た。日本で組織罰制度が実現するかどうかは、私たちが政治を変革できるかどうかにかかっている。

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【転載記事】〔週刊 本の発見〕『地域における鉄道の復権~持続可能な社会への展望』/すべては「国鉄分割民営化」から始まった~「公共」壊した「改革」を超えて

2021-07-02 22:09:55 | 書評・本の紹介
(この記事は、当ブログ管理人が「レイバーネット日本」の書評コーナー「週刊 本の発見」に寄稿した内容をそのまま転載したものです。)

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〔週刊 本の発見〕『地域における鉄道の復権~持続可能な社会への展望』(宮田和保・桜井徹・武田泉 編著、緑風出版、3,200円+税、2021年3月)/すべては「国鉄分割民営化」から始まった~「公共」壊した「改革」を超えて

 2021年は、奇しくもJR発足後最初の惨劇となった信楽高原鉄道正面衝突事故(1991年)から30年、石勝線特急列車火災事故(2011年)から10年の節目の年である。信楽事故を起こしたJR西日本はその後、さらなる悲劇・尼崎事故を起こし、コロナ危機のなかで中国山地の不採算ローカル線切り捨てに乗り出している。JR北海道に至っては、路線全体の半分を「自社単独では維持困難」な路線に指定し、鉄道事業からの全面撤退すら現実のものになろうとしている。JR東海は南アルプストンネル工事によって大井川からの流量が毎秒2トンも減少するとの試算があるにもかかわらず、静岡県にまともな説明もしないまま国土破壊のリニア開業へ向け暴走する。「大雨が降っても道路はすぐ復旧するのに、鉄道は復旧されずに消えていくのはおかしい」という疑問も市民の間に広がっている。

 このような惨状を生み出したのは国鉄分割民営化であり、本書はその全体像を改めて捉え直し批判を加える。鉄道をめぐっては、北海道のローカル線問題を中心としながらも、安全問題、経営問題、「改革」反対派組合員の不採用などの労働問題、リニア、整備新幹線と並行在来線などあらゆることを取り上げている。

 「改革」の背景にある新自由主義はいかにして生まれてきたのか。どのように社会の隅々にまで浸透し世界を持続不可能に追い込んできたかについても分析、批判を加えている。国鉄分割民営化の総決算と新自由主義批判。一方だけでもじゅうぶん1冊の本になり得るほどの重い2つのテーマのどちらとも手を抜かずに格闘した労作である。

 日本でも世界でも、既存の支配構造への批判は多く聞かれるようになったが、今や重要なのは「世界を解釈することではなく変革することである」。持続可能な社会への展望という副題が示すように、本書は持続不可能な新自由主義社会を清算した後に来るべき新しい社会像についても対案を示す。JRグループを中心とした鉄道改革の方向として、持株会社制による旅客6社間の格差是正策のほか、上下分離や、あらゆる公共交通機関を連携させ一体的に運用するドイツの「運輸連合」など、1980年代の改革で壊されたものの単なる修復にとどまらない新しい制度の提案も試みている。そこには、執筆陣が実際に欧州を訪問し、公共交通を実地調査した際の知見も取り入れられている。自動車中心の従来型のまちづくりから脱し、公共交通中心のまちづくりへ転換していく必要性も述べられている。

 13人もの共著者が30回以上も討議を繰り返す中から本書は生まれた。SDGs(国連「持続可能な開発目標」)の評価をめぐっては共著者間で激しい議論もあった。北海道ローカル線と住民の関係、鉄道再建策を論じた節のほか、尼崎事故遺族・藤崎光子さんを取り上げたコラムの担当として私自身も共著者に加わった。公共交通問題をライフワークとしてきた私にとってもこれまでの活動の集大成になったと思っている。

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【重要発表】当ブログ管理人初の著書「地域における鉄道の復権~持続可能な社会への展望」が発売になりました!

2021-03-13 12:30:12 | 書評・本の紹介
管理人よりお知らせです。

当ブログ管理人として、雑誌への寄稿を除けば人生初の著書がこのたび出版されました。ただし、単著ではなく共著です。執筆者は当ブログ管理人を含め13人に上ります。

書名は「地域における鉄道の復権─持続可能な社会への展望」(緑風出版)です。都内では、神田神保町の「書泉グランデ」等ですでに販売されているのを確認しています。北海道内でも、紀伊國屋書店札幌本店ではすでに在庫を確認しています。

JR北海道が、自社単独で維持困難な10路線13線区を公表してから、この秋で丸5年となります。バス転換が相当とした5線区のうち、3線区(石勝線夕張支線、札沼線北海道医療大学~新十津川、日高本線鵡川~様似)はすでに転換済みか転換決定済みです。

鉄道事業開始に当たって収支見積書の添付を義務づけている現在の鉄道事業法を廃止し、ローカル線を公共財として維持できるような新たな法体系をゼロベースで構築しない限り、もはや日本でローカル線を維持することはできません。安全問題研究会は、そのための抜本的対案として、JRを再国有化するための「日本鉄道公団法案」をすでに公表しています。

このようなお寒い状況がなぜ引き起こされたのか、背景にある新自由主義思想はどのように生まれ、この社会を侵食し、持続不可能な状態へ日本と世界を追い込んできたのかの考察も試みています。そうした考察の中から、ローカル線が廃止に怯えることなく、生き生きと輝きながら存続、発展できるようにするための方策も提示しています。「道路は災害に遭ってもすぐ復旧するのに、鉄道だけが国の支援も受けられず、台風や洪水のたびに消えていくのはおかしい。なんとかしたいが、どうしたらいいかわからない」と感じている多くの人々にとって、この本は大きな示唆を与えてくれると思います。

本書中、第2章「JR北海道の経過と現状」の第2節「廃止対象路線と住民・自治体」及び第5章「持続可能な社会の形成と鉄道の再生の可能性」の第2節「北海道の鉄道の再生プラン」の部分を当ブログ管理人が執筆しました。

価格は3,200円と学術書並みとなっていますが、当ブログ管理人を通じて購入いただくと著者割引(2割引)が適用されます。当ブログ管理人と面識のある方は、ご連絡いただければ対応します。また、当ブログ及び安全問題研究会ホームページに、申込専用メールアドレス等を設けられないか検討しています。これらの部分は改めてお知らせします。

緑風出版は、社の方針としてAmazonによる本の取り次ぎに反対しており、Amazonへの出荷を拒否しているため、Amazonでは購入できません。すぐにお読みになりたい方はお近くの書店にお申し込みいただくか、少しお待ちいただける方は、当ブログ管理人にご連絡いただいても構いません。

当ブログ管理人にとっては、自分の名前で出版する初の著書です(雑誌を除く)。ボロボロになってしまった日本の鉄道の再建のため、ひとりでも多くの方が、本書を手に取られることを希望しています。

以下は、緑風出版社による本の紹介です。

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 北海道の鉄路は全路線の半分に当たる10路線が維持困難として廃線の危機に直面している。国鉄の「分割・民営化」から30年、JR各社では不採算路線の廃止などで、全国的な鉄道網の分断が進行している。鉄道は安全性、定時性、高速性で高く評価され、地域社会の発展に不可欠であるのに、政府の自動車・航空偏重政策の前に危機を迎えている。

 本書は、JR北海道の危機的状況にたいして、新自由主義による従来の「分割・民営化」路線の破綻を総括し、「持続可能な社会」の考え方を基本に、鉄道路線の存続・再生、地域経済・社会の再生の道を提起する。(2021.3)

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【転載記事】〔週刊 本の発見〕『武建一が語る 大資本はなぜ私たちを恐れるのか』

2021-03-05 21:02:30 | 書評・本の紹介
(この記事は、当ブログ管理人が「レイバーネット日本」の書評コーナー「週刊 本の発見」に寄稿した内容をそのまま転載したものです。)

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労働運動の「神髄」見せる関生労組の清々しさ 『武建一が語る 大資本はなぜ私たちを恐れるのか』(武建一 著、旬報社、1,500円+税、2020年12月)評者:黒鉄好

 一切の虚飾のないストレートなタイトルと裏腹に、本書は、囚われの身となった著者が拘置所で迎えた保釈の日の描写から始まる。ドラマか映画でも見るかのように一気に引き込まれる。

 戦後、高度成長の波に乗った日本の歩みにみずからを重ねるように頭角を現す全日建連帯労組関西生コン支部委員長の武さん。権利獲得、ヤクザとの闘争、経営者との対決と協調。破天荒だが正義の炎を絶やさず、大きな敵に敢然と立ち向かう武さんのスケールの大きさが、読者の心を捉えて離さない。

 資本家が資本家たり得るのは、単に生産手段を所有することのみにとどまらず、価格、生産量や出荷量などの決定権――言い換えれば経営権を独占するからである。しかし、武さんの率いる関生労組は、経営者・資本家のこの「聖域」にズカズカと平気で踏み込む。過当競争による値崩れを防ぎ、適正価格での販売を通じて得た利益を労働者に還元する。あるいはコンクリートの品質を確保して建築物の安全を守る。そのような大義名分を掲げ、生産・流通のコントロールに乗り出す。原材料のセメントを少しでも高く売り暴利をむさぼるメーカーと、買い叩こうとするゼネコン。前門の虎、後門の狼という状況の中で、生き残りを賭け、利害が一致する局面では生コン経営者と共闘もする。大資本が関生労組を恐れる理由は、経営権を侵食する存在だからである。

 『法律など守っていたら組合をつぶすことはできない』――かつて財界の労務担当といわれた日経連が開催した講演会で、元役員の講師が放った言葉を本書は暴露する。それを読んで私は身震いがしたが、衝撃は受けなかった。同じような例は歴史書をひもとけばいくつでも見つけられるからだ。私がすぐに思い出したのは『国労を崩壊させる、その一念で(国鉄「改革」を)やってきたわけです』という中曽根康弘の言葉である。資本家の聖域である経営権に踏み込んでくる者は誰であろうと許さない。どんな手段を使ってでもつぶすという資本側の「不退転の決意」がそこに込められている。

 私は、関生労組にかけられている攻撃がかつて国労に向けられたそれと同じであることを理解した。この攻撃から関生労組を守るためには、あのときと同じように、すべての労働者が考え方や立場の違いを越えひとつにならなければならない。

 この闘いに関生労組は勝てるだろうか? 長く複雑な過程を経るとしても、最終的に勝てると私は判断する。どんな乱暴な経営者もどん欲なハゲタカも「全体の利益」という経済原則を越えることはできないからだ。他人を犠牲にして自分だけがいい思いをしようとする者は、社会各層の利害を調整し、全体の利益を図るという経済の自己調節機能によって手痛い反撃を受ける。武さんの波瀾万丈の人生ドラマからはそんな未来への希望も覗く。自分だけの利益ではなく労働者、社会全体のためになるように行動する。日本社会が久しく忘れてしまっている労働運動、社会運動の「神髄」を見せてくれる1冊である。

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【書評】スターリン~「非道の独裁者」の実像(横手慎二・著、中公新書)

2016-11-13 15:38:23 | 書評・本の紹介
「ソ連崩壊後に公開された史料をもとに知られざる「素顔」に迫る~スターリンを知らずしてロシアは語れない」と、帯には大きく書いてある。著者・横手は慶大法学部教授。過去には在モスクワ日本大使館調査員として勤務経験を持つロシア専門家。

ロシア革命は1917年、ソ連邦の崩壊は1991年。ソ連が存在していた期間は74年間であった(実際にはソ連建国宣言は1922年に行われたが、本エントリではロシア革命をソ連時代の起点としている)。スターリンは1922年の共産党書記長就任から53年の死去まで、31年間もソ連の最高指導者として君臨した。ソ連時代の歴史の4割はスターリン時代だったことになる。その意味では、「スターリンを知らずしてロシアは語れない」というキャッチコピーは正しい。

スターリンと旧ソ連の実情を知らない読者のために概要を述べておくと、スターリンはロシア語で「鋼鉄の人」を意味する変名で、本名はヨシフ・ヴィッサリオーノビッチ・ジュガシビリである。ロシア語っぽくないのは彼がグルジア出身だからだ。この時代、君主制や右翼独裁政権と戦っていた革命政党の党員は、自分自身や組織を弾圧から防衛するため、本名ではなく変名を名乗ることが多かった。例えば、ロシア革命指導者のレーニンも変名で、本名はウラジミール・イリイチ・ウリヤノフ。スターリンの政敵であったトロツキーの本名はレフ・ダヴィデヴィチ・ブロンシテインという(ダヴィデヴィチはユダヤ教のダビデに由来しており、このミドルネームが示す通り、トロツキーはユダヤ人である)。トロツキーという変名は、彼が帝政ロシアで逮捕されていた時代の、収容所の看守の名前から取ったと言われる。

ロシア以外の国の革命政党も事情は同じであり、例えば日本共産党の不破哲三議長の本名は上田建二郎。本名で活動している上田耕一郎副委員長は実兄である。

また、ソ連の正式国名「ソビエト社会主義共和国連邦」の「連邦」に当たる部分はロシア語で「ソユーズ」である。この名前は、ソ連が打ち上げた宇宙船の名前にも使われていたが、「連邦」とも訳せるものの、本来のロシア語の語感としては「同盟」に近い。ソビエト(労働者階級代表による評議会)体制によって社会主義を目指す諸国の「同盟」という意味合いを込めてソユーズという単語が充てられた。ソ連の正式国名の英語表記も“The Union of Soviet Socialism Repubrics”であり、“Union”とは労働組合の「ユニオン」と語源が同じである。間違っても米国のような単なる“United States”(国家の連合体)とは異なり、当ブログの見解では「ソユーズ」はやはり連邦ではなく同盟と訳されるべきものである。

さて、前置きが長くなったが、本書はグルジアでの彼の生い立ちから幼少の神学校時代、そして神学校の不条理な現実を意識して革命運動と民族問題に関心を抱いていくスターリン(愛称ソソ)の様子から、死去するまでの彼の人生を丹念に追っている。この時代、多くのロシア社会民主労働党(ボルシェビキ~後のロシア共産党)党員たちは、民族問題を重要な問題だと考えていなかった。この分野で頭角を現したスターリンは、やがて民族問題に関する論文をレーニンに高く評価され、革命家の道を歩み始める。

多くのスターリン研究が明らかにしているとおり、本書もスターリンの能力が最大限に発揮されている分野は組織作りと実務能力であるとしている。特に、特定の問題に集中し、高い問題解決能力を示すスターリンは、理論・思想形成や革命などの激変期の対処には向かないが、平時における党・国家の実務や統治といった分野では優れた能力を示した。その意味では、スターリンを革命家に分類するのは正しい評価とはいえないような気がする。本書が示しているスターリンの実像をワンフレーズで表せ、と言われたら、当ブログは「党官僚」「党組織者」と答える。

トロツキーも、「裏切られた革命」の中で「もし、誰かが将来のスターリンの党書記長就任を予言したとしたら、そこに居合わせた全員が(スターリン自身を含め)彼らを悪質な中傷者と罵っただろう」「彼らでは革命は達成し得なかった」と述べている。スターリンに対する正しい評価だといえよう。

日本において、スターリンは「政敵を次々と粛清・処刑した残虐非道の独裁者」というイメージが定着している。ソ連をモデルに社会主義・共産主義革命を目指していたはずの新左翼政治党派の中でさえ、「スターリン主義」は党内分派・反対派弾圧とほぼ同義語として使われてきたし、「反帝・反スタ」のようにスターリン主義を帝国主義と同列に並べてその打倒を訴える党派も今なお存在する。

しかし、本書が示すスターリンの実像は、そうした残虐非道のイメージからはかけ離れている。実像としてのスターリンは、しばしば優柔不断で、状況対応的で、内外情勢の変動に合わせて政策をジグザグに変えてきたプラグマティストとして描かれている。しかし、こうした彼の柔軟さこそが31年もの長期政権を実現する原動力であった。また、食料生産の担い手である農民が飢餓に直面するほどの厳しい食料徴発政策を採ってまで、スターリンが重工業優先の経済建設を行ってきたことは、後の歴史家から「大量虐殺」と批判された。だがもしこれと正反対に、彼が農民を食べさせることを最優先にし、軽工業化政策を採っていたら、ソ連が「大祖国戦争」(独ソ戦)に勝つことはできなかったとする横手の見解に、当ブログは全面的に同意する。

民主主義擁護を使命としている当ブログにとって、このような横手の見解に同意することには苦痛を伴う。しかし、当時のソ連を取り巻く内外情勢を見ると、ナチス・ドイツと軍国日本によって東西から挟み撃ちされる恐怖に怯え、軍事上の保障を願っていた米英両国は当てにならず、独力で第2次大戦を戦わざるを得ないかもしれない――そう考えていたスターリンにとって、これ以外の選択があり得ただろうか。私はなかったと考えている。食料徴発による飢餓政策を「虐殺」とする歴史家の見解は、しょせんは「歴史の後知恵」に過ぎないのである。

当ブログとして、読者のために、どうしても言及しておかなければならないことがある。「誰がスターリンをこのような独裁者に育てたのか」という、当然出されるであろう疑問への見解である。本書を読む限り、しばしば優柔不断で、状況対応的で、内外情勢の変動に合わせて政策をジグザグに変えてきたプラグマティストのスターリンが、みずから独裁者になりたいと望んだ形跡は見当たらない。むしろそこに描かれている実像からは、周囲の取り巻きたちが勝手に彼を神格化し、祭り上げ、彼の権勢を利用して政敵を追い落としているうち、次第に彼が絶対不可侵の領域に置かれていく過程が垣間見える。その意味では、明確に目的を持って独裁への道をみずから望んだヒトラーとは実情が違うように思われる。

これに加え、要因を探るとすれば、彼が党組織化能力と実務能力に長けていたこと、帝国主義諸国によるソ連包囲が彼による状況対応的措置を正当化する力として働いたことが挙げられる。前者=党の組織化はそのまま党内権力の強化・再配分であり、後者=帝国主義諸国による包囲は軍事的かつ即時的対応を通じて権力の強化作用をもたらすからである。不幸だったのは、第2次大戦をバックとしたこの一連の強権発動装置としてのソ連型社会主義が、第2次大戦後の東ヨーロッパ諸国にそのまま持ち込まれ、社会主義のモデルとされたことにあると思う。

最後に、スターリンの死因についても述べておきたい。彼の死に関しては、毒殺ではないかという疑惑が今もソ連史研究者の中に強くある。中でも、内務人民委員部(内務省に相当)で、事実上秘密警察のトップとして君臨してきたヤゴダ、エジョフなどの前任者が、スターリンによって用済みと見なされた後、銃殺に追い込まれていくのを見たベリヤが、「自分もいずれそうなる」と恐れ、スターリンに毒を盛ったとの説は広く信じられている(ちなみに、ベリヤはスターリンの死後、共産党第1書記に就任するニキータ・フルシチョフとの権力闘争に敗れ、結局は処刑で人生を終えている)。

しかし、本書が示す「実像」は、そうした毒殺説が否定されるべきであることを示唆している。すでに死の前年、1952年後半から、言動が支離滅裂で、彼の最大のよりどころであった集中力がなくなり、ミコヤンやモロトフなど、長く彼に仕えてきた側近さえ米国のスパイと疑って追放していくなど、本書は丹念にスターリンの「老化」「劣化」の過程を浮き彫りにしている。横手は、こうしたことを根拠に、ナチス・ドイツとの壮絶な戦争と、その後の米国との厳しい冷戦による重圧が、彼を死に導いたとしているが、この推測に大きな誤りはないように思う。死去時のスターリンは72歳であったが、当時のソ連の医療・保健水準を考えると、どこにでもある平均的な死であったと考えていいのではないだろうか。

いずれにしても、本書は「非道な独裁者」とされるスターリンの実像を明らかにした貴重な著書である。スターリンに興味を持つ人は日本ではごく限られており、本書を手に取る人は少ないと思う。だが、一定の諸条件(やりたいことへの強烈な政治的意思、周辺諸国からの戦争圧力、勝手に祭り上げ、権威化しようとする取り巻きの存在など)が重なれば、こんな凡庸な人物でも容易に独裁者に転化しうることを丹念に検証したという意味で、当ブログは本書を評価する。今、「中国の脅威」を振りまきながら、安倍首相が党規約を変えてまで自民党総裁に3選しようとしている姿や、頼まれもしないのに周囲が勝手に安倍首相の「自衛隊礼賛演説」にスタンディング・オベーションしているのを見ると、周囲の取り巻き連中によって独裁者への階段を押し上げられていったスターリンの軌跡と重なって見える。今こそ、「凡庸な人物」を独裁者へと押し上げていく「日常的な恐怖のシステム」に目を向けさせるとともに、それに対する政治的警戒を惹起するため、当ブログは本書がより多くの人に読まれることを願う。

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