アンダグチャー太田




アンダとは油のことだ、アンダグチャーとはあることないことを流暢にしゃべる人間のことをいう。太田氏は元琉大学長・沖縄県知事・参議院議員という沖縄ではトップクラスの人間である。そんな偉大な人物をアンダグチャー太田と呼ぶのは大変失礼なことではある。

太田氏はものすごい知識を持っている。多くの書物を読み、ものすごく勉強をしたと思う。琉球王朝時代から現代までの沖縄、日本、アメリカに精通している。豊富な知識には敬意を表する。
しかし、豊富な知識を自在にあやつり、琉球王朝時代の昔から現代までを流暢に理論展開するが、あまりにも流暢すぎて、言葉は繋がっても内容はつながっていない。

残念なことであるが、内容に深みのない太田氏のしゃべりはアンダグチであり、太田氏をアンダグチャーと呼ぶしかない。

「基地問題一つ取ってみても沖縄に対する中央政府の構造的差別は頑として続いているし、『平和憲法の下に帰る』といった復帰のスローガンとは裏腹に肝心の日本国憲法自体が危機に瀕しているからです。自衛隊が合憲とされて海外に出動するなど、われわれに希望を抱かせたり第9条が台なしにされているどころか、格調高い憲法の前文の理念もいつしか忘却のかなたに押しやられているしまつです」

基地問題、構造的差別、祖国復帰、日本国憲法、自衛隊、第9条、憲法の前文と太田氏の口からは次々と重要な言葉が飛び出し、その言葉が太田氏の流暢なアンダグチによってスムーズにつながっていく。しかし・・・・・。

「基地問題一つ取ってみても沖縄に対する中央政府の構造的差別は頑として続いて」の「構造的差別」という用語は最近よく見られる言葉である。以前はなかった。沖縄民族、アイヌ民族は日本政府に差別されていると考える民族差別問題に関心がある知念ウシさんのような人たちが、米軍基地が沖縄に集中しているのは沖縄差別であると主張したこから構造的差別の用語がつかわれるようになった。
沖縄差別の思想は、沖縄を差別しないために米軍基地を日本全国で平等に負担しろと主張する。いわゆる「県外移設」である。今まで沖縄の反基地運動は米軍基地の国外(アメリカ)への撤去を主張し続けてきた。祖国復帰運動の時も米軍基地の本土並みを主張していたのであり、本土に沖縄の基地を移転して、沖縄と本土の米軍基地を平等にしろという主張はなかった。

構造的差別論は差別をなくして負担を平等にするために「県外移設」の主張につながる考えである。日本への米軍駐留は認めていて、反戦平和運動の米軍基地を撤去の主張とは異なっている。構造的差別論は米軍基地の日本維持を主張するものであり、反戦・平和論を否定するものである。

沖縄に軍事基地があるから戦争に巻き込まれる。沖縄が戦争に巻き込まれないために米軍基地は撤去しろと主張してきた「命どぅ宝」をスローガンにしてきた沖縄の反戦平和運動を構造的差別論は否定していることを考えもしないで太田氏は「基地問題一つ取ってみても沖縄に対する中央政府の構造的差別は頑として続いて」いるというのである。

構造的差別論は米軍基地を認める理論であるのに、「中央政府の構造的差別は頑として続いて」と述べた後に「平和憲法の下に帰る」という軍隊を持たない反戦平和の思想を述べるているのである。構造的差別論を語るなら平和憲法を語るわけにいかないし、平和憲法を語るなら構造的差別論は語れない。しかし、アンダグチャー太田氏は平気で二つをつじつまが合っているように話すのである。

平和憲法主義であった社会党はいまでは見るかげもなくなった。共産党も少数である。「われわれに希望を抱かせた第9条が台なしにされている」と太田氏はいうが、客観的にみれば第9条に希望を抱いたのは少数の人たちであり、自衛隊が海外に出て人道支援するのを多くの国民は支持し、自衛隊が世界への人道支援ができるということで多くの国民に夢を与えた。第9条よりも自衛隊の合憲のほうが国民に夢を与えたということだ。

「憲法9条に匹敵するほど重要とみなされる第8章の『地方自治』も有名無実化しています。かつて一独立国家を成していた歴史背景もあって、沖縄ほど自治を求め地域主権の確立を熱烈に志向した地方自治体は全国でもそう多くはない。にもかかわらず、敗戦後67年たった現在も帝国憲法下となんら変わることなく中央集権制度が幅を利かせています。そのため戦後民主主義をを虚妄とする見方も後を絶たないのです」

琉球王朝が薩摩藩に支配されたのが1609年である。その時から沖縄は独立国ではなくなった。今から400年前である。

1609年3月、薩摩の大名であった島津家が3000人の兵で琉球王国に攻め入った。琉球王国の王、尚寧王は軍隊を動員して、抵抗するが、豊富な戦いの経験をもち、しかも鉄砲を使う薩摩軍に歯が立たず、4月には首里城を明け渡した。琉球王国は戦争で島津の軍隊に敗北したのである。敗北したということは琉球王国は薩摩藩に支配され、薩摩藩の領土になることを意味する。

薩摩藩の実質的な領土になった琉球王朝であったが、政治上の実権はないものの独立王国の形は残した。理由は中国と貿易している琉球王朝の利益を薩摩藩が得るためであった。尚寧王は捕虜となり薩摩へと連行された。江戸に行き徳川家康と秀忠に謁見した。2年後に尚寧王は琉球へ戻されるが、薩摩藩に忠誠を誓う起請文を書かされた。薩摩藩は琉球王朝の存続は認めながらも実質的に支配下に置いた。薩摩藩の支配下に置かれることを拒んだ謝名親方は処刑された。

琉球王府は、年貢9000石、芭蕉布3000反、琉球上布6000反、琉球下布10000反、むしろ3800枚、牛皮200枚を薩摩藩に収めなければならなかった。中国との貿易も薩摩藩の監視のもとで行った。
琉球王朝は、1609年から1868年の明治になる約260年間は薩摩藩の支配下におかれ、なにをするにも薩摩藩の許可が必要だった。琉球王朝は独立国とは程遠い国であった。

現代に通じるような沖縄が一独立国家であった歴史背景はない。沖縄が、「自治を求め地域主権の確立を熱烈に志向した」ことは過去の歴史にはない。

中央集権に対する自治を求めた地域主権の思想は太田氏も述べているように民主主義を根拠にしている。琉球王朝は武士階級が農民階級を支配する身分制度のある国家であった。琉球王朝に民主主義思想があったはずはないし、沖縄が地域主権を求める運動をやったことはない。
戦後の沖縄では主席公選を要求する運動はあった。

戦前の帝国憲法下では知事は中央政府が派遣した。戦後は地方の首長は地方の選挙で決める。戦後は地方自治が一歩進んだ。戦後は少しずつ地方に権限が移っていった。太田氏の「敗戦後67年もたった現在も帝国憲法下となんら変わることなく中央集権制度が幅を利かせている」と太田氏は述べているが、太田氏は戦後の地方自治の変化を見ていいない。

普天間基地の辺野古への移設は県知事が許可しないとできない。日本政府とアメリカ政府が苦労して作り上げたシナリオであっても県知事がイエスと言わなければ実現できないのは地方自治の権限が強くなったことの証拠だ。
中央集権が幅を利かしているのなら、辺野古移設のことで県に交付金を500億円も多くあげたり、首相をはじめ多くの大臣が沖縄詣でをするはずがない。

「戦後民主主義を虚妄とする見方が後を絶たない」と思うのは太田氏の間違いである。戦後民主主義は少しずつ発展をしている。

独立主義と民主主義は異質なものだ。身分制度国家であった琉球王朝は薩摩藩に支配されるまでは独立していた。リビア、アフガン、イラクが独裁国家である時も独立していた。独立国家だからといって民主主義国家であるとは言えない。沖縄が独立したからといって民主主義国家になるというものではない。独裁国家になるかも知れない。沖縄独立論は希望を抱かせるような思想ではない。

日本は民主主義国家である。沖縄は日本の法の下にある。独立国家ではない現在の沖縄は民主主義国家のもとにある。沖縄には日本の法が適用されているのだから沖縄は民主主義社会である。米軍基地やアメリカ軍人の犯罪は日本とアメリカの国際的な国家間の問題であり、国内の民主主義制度とは別の問題である。
民主主義は永続的に民主化の改革をつづける。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« しあわせが向... ああ闇にくず... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。