母を思い出す記事・元メードとアメリカ人家族




1950年代に当時米軍人の故チャールズ・レイメン・ジュニアさん家族のメードとして米軍キャンプ瑞慶覧内で働いていた今帰仁村の徳前美代子さん(75)を、チャールズさんの子供らが52年ぶりに尋ねた。
子どもたちは徳前さんを「第二の母」と慕う。おととし夫を亡くして1人で暮らす徳前さんは「もうひとつの家族」との再会に涙した。
徳前さんは50年代後半から5年ほどチャールズさんの家で働き、家族と親しくなった。次男ジャンさん(61)は、長男にいじめられるとよく徳前さんに泣きついたという。
家族が帰国する時は「悲しくて一緒に行きたいぐらい」だったが「私の故郷は沖縄だから」ととどまった。
帰国後も互いに毎年クリスマスカードを送り続け、大事に保管していた。
今回、次女ダィニスさん(54)夫婦が中国に転勤したことを機に「沖縄が近くなった」と米ウィスコンシン州に住むきょうだいと共に徳前さんを訪問。18日に再開した。
長女シェリーさん(66)は「亡くなった母はいつも美代子さんに会いたいと話していた。今度は米国に来て」と感慨負深げ。強大は23日に帰国するが、ジャンさんは「体は帰るが心はここにある」と徳前さんを抱きしめた。
徳前さんは「夫が亡くなって以来、泣いてばかりいたが、にぎやかになった。もう1つのファミリーだ」とほほ笑んだ。
                     沖縄タイムスか琉球新報

このような記事を見ると母を思い出す。母は生活を支えるためにメードをやった。50歳近い母は英語は使えなかった。それでもメードをやった母は勇気があるが、英語を話せない母を快く雇ったアメリカ人家族もまた心の広い人たちである。
私はアメリカ新聞を4年間やったが、アメリカ人はとにかく気さくでフレンドリーであった。英語には日本語のような上下関係を表す敬語がない。それは言葉だけでなく表情にも表れる。アメリカ人の大人でも中学生の私に友達のような感覚で話した。
新聞代の集金の時、片言の英語で話しながらも、アメリカ人と話すと心が解放された。沖縄の社会では祖先崇拝、大人を敬うという習慣が強い。そして、大人たちはフィリピン人、台湾人、朝鮮人だけでなく白人、黒人もそれぞれ評価しながら差別していた。

母がメードしたアメリカ人家族は毎年クリスマスの頃に家族の写真と手紙を送ってきた。私が帰省すると母はうれしそうに私にアメリカ人家族の写真と手紙をみせた。母は返事を送らなかったのに、一年に一度の手紙はかなり長い間続いていたと思う。
若い私は手紙に興味がなく母の話を聞き流していた。母は私に手紙を書いてほしかったと思うが、私は書かなかった。

徳前さんの記事を読むと、帰省した私にわざわざ手紙を出してきて、うれしそうに写真の家族の一人一人について話していた母を想いだす。
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沖縄戦体験者の反戦平和主義は現実が見えない




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沖縄戦体験者の反戦平和主義は間違っている


私は琉大に1967年入学した。ベトナム戦争が激しかった時であり、戦場カメラマンの撮った写真がほとんど新聞毎日掲載されていた。
村が焼かれやけどを負って逃げ惑う子供たちた、子供を射殺した米兵、ソンミ村の人たちを皆殺しにしたソンミ事件、枯葉剤、リアルなベトナム戦争映画等々、ものすごい量のベトナム戦争の悲惨な現実をマスコミや映画が伝えた。

ベ平連というベトナム戦争に反対する団体も生まれ、反戦平和運動が全国に広がった。
ベ平連概要
[編集]1965年(昭和40年)2月7日に開始されたアメリカ軍による北ベトナムへのいわゆる「北爆」で一般市民の死者が増えたことがマスコミで報道されると、反戦運動が始まった。

60年安保で「声なき声の会」を組織した哲学者の鶴見俊輔や政治学者の高畠通敏が、「声なき声の会」を母体に作家の小田実を代表として1965年(昭和40年)4月24日に「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」の名で発足させたのが始まりである。同年、久保圭之介に代わり吉川勇一が事務局長になる。

「反米」であるものの、既存政党とは一線を画した無党派の反戦運動であり、基本的に「来る者は拒まず・去る者は追わず」の自由意思による参加が原則で、その「いいかげん」とも評された程の自由な雰囲気により、労働組合や学生団体などの様々な左翼団体のみならず、右翼の玄洋社[1]や学生、社会人、主婦など、職業や社会的地位、保革などの政治的主張を問わず、多くの参加者を呼び寄せる事になった。

その後1966年(昭和41年)10月16日に名称を「ベトナムに平和を!市民連合」に変更し、全国に活動が広がって行ったが、新左翼諸派との活動との関係が強くなりイデオロギー色が濃くなっていった。特に共労党からのメンバーが多く、ベ平連と共労党を兼ねたメンバーにいいだももや吉川勇一、栗原幸夫、武藤一羊、花崎皋平らがいる。日本赤軍の主要メンバーとなる丸岡修が参加したり、開高健をはじめとしてこれらの左傾化を嫌い運動から離脱していくものが増加した。

1973年(昭和48年)1月27日に南ベトナムと北ベトナム、アメリカなどの間でパリ協定が調印され、アメリカ軍がベトナムから全面撤退したことを受け1974年(昭和49年)1月に解散した。
                    ウィキペディアより

みなさんは、沖縄でもベ平連のようなベトナム戦争に反対する運動があったと思っているだろう。しかし、ベトナム戦争に反対する運動は沖縄にはなかった。
ベ平連が沖縄にできたのは私の学生時代だった。リーダーが私の知っている女性の彼氏だったので、彼女の紹介で何度か話し合ったことがある。

ベ平連とは全然性質が違う反戦平和団体が姫ゆり部隊など沖縄戦の時、看護師として従軍した女性たちの団体だった。
現在の、オスプレイ配備反対県民大会実行委員会の「東京行動」を沖縄から支えようと、オスプレイの強行配備や米兵暴行事件に抗議するアピール文発表した「沖縄戦を語り継ぐ元女子学徒融資の会」である。

学生の時、そのような反戦平和を主張する人たちに私は疑問を持ち、疑問は反発に変わった。
最初に疑問を感じたのは、彼女たちは沖縄戦の悲惨な体験を語り、戦争は二度とあってはならないと主張したが、彼女たちは現在起こっているベトナム戦争についてはなにも言わなかったことだ。
兵士と民間人合わせて300万人の死者を出した朝鮮戦争について話したこともなかった。
報道されるベトナム戦争の悲惨さ、残酷さは沖縄戦に匹敵するものだった。殺されたベトコンの生首の写真もあった。残酷な拷問についての記事もあった。
しかし、彼女たちはベトナム戦争について話すことはなかった。
彼女たちは自分が体験した沖縄戦のことだけを話した。
私は思った。
彼女たちにとっての戦争は自分たちが体験した沖縄戦だけではないか。朝鮮戦争、ベトナム戦争は彼女たちには見えない戦争なのではないか。
私は彼女たちに疑問が湧いてきた。そして、それは確信に変わった。

沖縄戦の悲惨な体験をした彼女たちは、自分たちの悲惨な体験イコール戦争であり、戦争イコール自分たちの悲惨な体験である。それ以外の戦争は彼女たちが感知しない戦争であった。
なぜ、沖縄戦が起こったかについて彼女たちは知らないし、沖縄戦の原因を追究する気も彼女たちにはなかった。
なぜ、沖縄戦が起こったかは彼女たちにとって重要な問題ではなかったのだ。戦争の悲惨さを体験したことだけが彼女たちにとって重要だったのだ。

なぜ、戦争が起こるのか。
彼女たちは答える。軍事基地があるからだと。米軍基地がある沖縄は戦争に巻き込まれてしまう。だから、米軍基地は撤去しなればならないと彼女たちは訴える。

戦後67年間一度も戦争が起こっていない事実があるのに、米軍基地あり続けて67年間の間一度も戦争が起こっていないことに疑問を持たず、戦争が起こっていない原因を追究することもなく、軍事基地があるから戦争が起こると彼女たちは信じ言い続けている。

彼女たちは戦後の民主主義国家と社会主義国家の勢力争いから生じる戦争について知らない。
アメリカがテロの温床であるアフガンのタリバン政権を倒してアフガンを民主主義国家にするためにアフガンに進攻したことを知らない。
イラクのフセイン独裁国家を倒してイラクを民主主義国家にするためにアメリカ軍がイラクに進攻したことを知らない。
アフガン戦争もイラク戦争も彼女たちにとっては沖縄戦と同じ人殺しの悲惨な戦争である。

元女子学徒有志の会の中山きく代表(84)は、「オスプレイ反対」と書いた赤リボンを胸に付け「基地強化は絶対許せない。首相は絶対に行動団と会うべきだ」と訴えている。

中山きくさんは、アルジェリアで起こった武装勢力による人質殺害事件が日本にとって深刻な問題であることを全然知らないだろう。
国内に資源のない日本はエネルギー資源、鉱物資源を求めて世界中を駆け巡らなければならない。しかし、日本人がテロに狙われている事実が今度の人質事件で明らかになった。
資源開発に暗雲が立ち込めたが、日本は海外に資源を求めなければならない。テロの襲撃にさらされることを知っていても、日本は海外に資源を求めなければならない。難しい問題が政府に突き付けられた。

でも中山さんにはアルジェリアの武装集団による襲撃事件は関心がない。
軍事基地があるから戦争が起きると信じている中山さんは「基地強化は絶対許せない」と九人が殺害され一人が安否不明になっていている事件に沈痛な安倍首相に「首相は絶対に行動団と会うべきだ」と息巻いている。

沖縄戦体験だけで戦争を語り、沖縄を語る中山さんは、世界の中の沖縄が見えないし、日本が見えないし、アジアが見えないし、世界が見えない。

沖縄駐留の米軍がアジアの民主主義と平和を維持しているのが見えない。
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