Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

教育勅語が問うた リテラシー

2017-03-11 13:05:27 | 社会・経済

今日3/11は、東北・関東に大いなる犠牲を生じた東日本大震災の当日。6年前の、2011=平成23年のこの日午後、M9.0、最大震度7の激震が、大津波を伴って襲来。福島原発の大事故も重なり、15000人以上の犠牲、数千人の行方不明を生じ、今も12万人を超える方々が、仮設住居などの避難生活を余儀なくされている模様。改めて、犠牲各位への弔意と、避難を続けざるを得ない方々へのお見舞いを申したい。又、避難先にて、大人、子供の区別なく、いじめや嫌がらせの挙に出る遺憾な問題も複数起きている様だ。地域や行政が一体になり、こうした問題を徐々にでも解消する策を探り、打ち立て実行して頂きたいものだ。

海外では、かねて民間の友人と通じた政治資金疑惑などで弾劾話のあった、朴 槿恵(ぱく・くね)韓国大統領の弾劾及び失職が決まり、同国内は、同(前)大統領弾劾派と支持派が対立、衝突による犠牲も生じている様だ。失職から60日以内とされる次期大統領選は、5月上旬にも実施の様だが、情勢から、新北鮮派で反日志向の野党幹部が最有力らしい。竹島の帰属、慰安婦問題を抱える選出後の我国の対韓政策は、緊張を伴ったものにならざるを得ない可能性が高い。その辺りも、我々日本人は注意して見守る必要がありそうだ。

本題に入る。大阪府下の、復古志向の教育方針が良くも悪しくも注目された、私立小学校の認可申請か取り下げられたとか。最大の問題は、立地予定の国有地の、不当に安価とされる払下げの件だった訳で、設立が見送られた以上は国による買戻しとなりそうだが、既に相当部分が完成した、建物設備の存廃や予算処理などをどうするかの問題が残るだろう。納税者として、行政などの対応を引き続き注意して見守りたいものだ。これ以上疑惑を生じない、明朗な方法での処理を望みたいものだが。

もう一つの話題、明治から戦前までの教育指針「教育勅語」が注目された事について、拙所感を少し。当該の設立見込みだった私立小学校では、既存の私立幼稚園にて既に実施の、教育勅語の唱和が予定されていた様だ。同勅語は、基本的には天皇主権だった明治憲法と対をなす指針で、その事から、主権在民が確立した現憲法体制下では、それはそのまま全てが適合する訳ではなく、幼稚園児や小学生に、そのまま唱和をさせるには適切を欠いたものだったろう。そこの所は、保守の側と言えど、糾す必要有と愚考するものだ。が、しかし・・

世間には、こうした不適切のみを糾すのではなく、明治憲法や教育勅語を史実として触れ、研究し理解する事自体を良しとしない思潮がある様だ。特に、左派野党や日教組、エセ平和人権勢力の間に結構根強いと言う指摘もある。拙者は、これも又同様に芳しからじと心得る。

現代にはそのままでは通じないとは言え、明治憲法も教育勅語も、厳然とした史実であった。又、その内容を検証すれば、天皇主権、皇室中心の価値基準は多々あれど、人としての心得や倫理の指標としては、今尚有益な所も少なくないのだ。その有益を活かし、時代に合わぬ所は糾し、史実として認め、尊重して次代に繋げ、生かして行く姿勢こそが健全な思考ではないのか。「自国の神話、即ち歴史を忘れる民族は滅びる」との歴史学者 故A・トインビー博士の言葉もある。

江戸期から続く教養「読み・書き・算盤」中、読み書き能力、或いは読解記述力の事を「リテラシー(Literacy)」と言う。広くは、PCなど情報機器の知識及び利用能力までを指す事もある様だ。特に、メディアとの向き合い方、情報を自己の目的に合う様、使用できる能力の事を「情報リテラシー」と呼んで区別する事もあるらしい。この能力を、技量を磨いてこそ、歴史や社会の事共と、まともに向き合い、自己の知力で署問題を乗り越え前進できるのだと、拙者は心得るものである。

教育勅語は、確かに幼少者に唱和させるべき内容のものではないかもだが、他方、厳しく史実として学びの対象にはし続けるべきものである。日本国憲法にしても、経緯的には明治憲法の改正法だし、戦後一度は改正された教育基本法にしても、教育勅語の美点を継承した所が存在する。それをしないのは歴史歪曲であり、共産勢力や日教組、それに不良帰化人とかの思考と大差ない。現在、聖徳太子の呼称問題が表面化している様だが、こんな問題を生じる、文部科学省の管掌能力(ガバナンス)には疑問を感じざるを得ない。政治や行政に信念がないから、こんな問題を起こすのではないか。又、今後関係が難しくなるだろう大韓民国では、日本海の呼称を「東海(とんへ)」に変えさせる運動が根強くあると聞く。これも、我国の各省庁は軽く扱ってもらっては困る事だ。「気が付いたら、世界地図が変えられていた」事にもなりかねない。我国固有の事共や、由緒ある呼び名とかは、行政も国民市民も、もっと重い気持ちで向き合うべき。「祖国を敬い守る」事の一端は、その辺りにあるはずだ。

大阪・豊中の私立小学校問題は、用地の所で遺憾な疑惑を生じたのは事実だが、教育勅語による、国民市民やメディアのリテラシーを試す好機となったのも事実である。ここに、明治天皇や同時代の賢人各位の凄さを感じたのは、拙者一人ではないと心得るのだが。今回画像は今から数年前、当地の東郊、豊橋市街を行く私設の路面電車 豊橋鉄道東田(あずまだ)本線の、JR豊橋駅近くの模様。曜日や時間を問わず、大変に交通量の多い所で、車両間の接触事故を生じる事も間々あるも、この時はたまたま通行の流れが切れ、割合すっきりした画像を得る事ができた記憶がありまして。勿論今も大きくは様変わりしていませんが、中々再訪の機会に恵まれないのも事実です。 (P.S) 以下のURLに、教育勅語の資料をご紹介しておきます。再読の上、現代に有意義な所もきっとあるかと心得ます。勿論、最終判断は読者各位次第ですが。

http://chusan.info/kobore8/4132chokugo.htm


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