海の向こうの中華人民共和国とミャンマー国では依然として未曾有の災害に見舞われ喘いでいる所。
中国では情報収集に手間を要したやむを得ない面があるとは言え、我国救援隊の出動受入れが遅れると言う残念な事態がありました。
「もし震災直後に出動できておれば、状況は変わったのではないか」との声は被災した各位からも寄せられています。未曾有の事態にて致し方なかったのでしょうが、我国政府の対応が概ね良好でまあ称賛に値するものだっただけに、歯がゆい気もします。
それ以上に遺憾なのが軍政下のミャンマー国。既に数万の犠牲を生じ疫病が流行する兆しも見えるだけに、友好国以外の外国よりの人的支援に対する頑なな拒否姿勢をやめ、支援受け入れに転ずるべきでしょう。
この所本当に暗い報道が続き、見聞きしている方が疲れてしまうこの頃ですが、今夜は拙居所の近所の話題を記して参りましょう。
JR名古屋駅より南方の中川運河に、全国的に有名な水門、松重閘門(まつしげこうもん)が築かれています。
この水門は、元々旧鉄道省名古屋貨物駅と名古屋港とを結んだ中川運河と、同じく水運の為名古屋北部から都心を通って名古屋港へ向かう堀川を水路にて接続させる為に設けられた水門でした。全長約91m、全幅約9mで竣工は1930=昭和5年。翌年より供用が開始され、60総tまでの船舶が通過できたとされます。
中川運河より堀川の方が数十cm水位が高かった為、船の通過時に水門を閉めて水位を上下に調節して通過を可能とする「閘門式」水門が採用され、これが名称にもなっています。上り方向にも調節可能とする為地下水路が設けられ、これは1914=大正3年に開設された中米のパナマ運河と同様の方式及び構造であります。
戦前戦中、そして戦後の高度成長期にかけて良く物流の要としての大役を果たしましたが、その後の道路整備に伴う自動車普及の時勢により1976=昭和51年にトラック輸送にその座を譲り、使命を終える事となります。
その後一時は都市高速道路開設などとの絡みで解体撤去なども検討された様ですが、名古屋市民有志による保存運動の奏功もあって1993=平成5年に名古屋市の事実上の文化財、都市景観重要建築物の指定を取り付け、現在に至ります。
現在の水門そのものは、安全への配慮もあってコンクリートにより封鎖されていますが、水門を上下させる錘(おもり)を収めた全高約20mの西洋風尖塔は4基全てが残り、水運華やかだった頃を偲ばせてくれています。
水門の上には現在、県道と名古屋高速道が通り、昔とは様相が異なりますが、道路両側に2基ずつ建つ尖塔が水路の規模を物語ってくれています。
この辺りはJR東海道線と新幹線、そして名古屋鉄道本線より車窓からも見る事ができ、桜の時期は特に見ごたえがありますので、当地へお越しの節は是非1度ご覧下さる事をお勧め致します。
過日のですが、水門尖塔の模様を載せておきます。後方道路の反対側にも、同様の尖塔が2基あります。*(地球)*