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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

自分は不幸だと思っている人へ

2017-06-01 14:54:44 | 教会
自分を不幸だと思っている人はいませんか?
わたしは中学生のころ、自分ほど不幸な人はいないと思っていました。喘息という重い持病があり、体が弱かったこと、生きるのが下手で、友達に恵まれなかったこと等がその理由です。

両親と祖母に愛されて育ったのに、その愛がわかりませんでした。劣等感が強く、自分は欠陥人間だと思っていました。
喘息がひどくなったのは、母親と祖母から過保護に育てられたせいで、強い劣等感があるのは、両親が自分の欠点ばかりを指摘するからだと思って恨んでいました。

今から約2千年前、生まれつき盲人の姿をみた人々が、盲目に生まれついたのは誰のせいか、本人の罪か両親の罪かと尋ねました。
結果には原因があると思っていたのです。現代においてもそのように詮索する人がいますね。(以下礼拝メッセージを聞いて書きました)

でも、イエス様は、罪の詮索をきっぱりと拒否されました。彼が生まれつき盲人であるのは「神の業(わざ)がこの人に現れるため」と言われました。(新約聖書ヨハネ9:1-5より)

どんなに大きな苦難があっても、神はあらゆる苦難より偉大で、神にとって不可能はないと言っています。このことは、自分を不幸だと思っているすべての人への希望の言葉です。
神様は、現在の自分の不幸を親や他人の責任だと思っている人、現在の自分の不幸は過去の恵まれない境遇のためだと恨んでいる人を通して神の業を成し遂げてくださいます。


イエス様が癒しの業を行うとき、それぞれ違った方法で行われます。その場で見えるようになった盲人もいますが、この人に対しては、泥を目に塗り「行ってシロアムの池で洗いなさい」と言われました。
この人は、半信半疑だったかかもしれませんが、言葉通りシロアムの池で洗うと、そのときから見えるようになりました。(ヨハネ9:7より)

わたしは、不思議な導きで今年の4月から20年以上も続けていた教会学校の小学科教師を辞め、テイーンズ(中高科)の教師として遣わされました。

今月、自分がどん底の苦しみの中にいた中学時代のことを現代の中高生に語る機会が与えられました。あのときはなぜこんな苦しい目に合うのかわからずに死を願い、親や周囲の人を恨んでいました。何のために苦しんだのでしょうか? 苦しみの中で絶望の叫び声をあげてから46年たって苦しみの意味がわかった気がします。神様の栄光を顕すことができるように祈りつつ備えています。



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