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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

存在価値がわからなくて(その2)

2017-06-13 20:29:43 | ティーンズ
「存在価値がわからなくて②」

そのころ喘息が悪化して、よく学校を休んでいました。当時はいい薬や予防薬がなかったので、発作が起きると、苦しくて横になることもできなくなります。発作は昼ではなく夜中に起きることが多く、夜中に病院の救急外来で注射をしてもらっていました。病院は坂の下にあって、歩いて五分のところでしたが、行くのに三十分以上かかっていました。

ある夜、ひどい発作が起きたとき、父親が会社の人に車に乗せてもらって帰ってきました。家に車がなかったので、母が会社の人に病院まで乗せていってほしいと言うと、会社の人は快く承知してくれました。わたしは、発作が起きているところを人に見られるのがいやで、行かないと言って柱にしがみついていましたが、父親によって無理やり車に乗せられてしまいました。

病院では時間がかかるからと、会社の人には帰ってもらいました。注射を打ってもらうと、息が楽になったので母に抱えられて歩いて家に帰ることにしました。

ところが、坂道を登っていると、また発作が起き、道で倒れてしまいました。
母はわたしを背負うことができないので、「お父さん呼んでくるから待っていて」と言うと走って坂を上って行ってしまいました。家は
坂の上にありました。

坂道には街灯もなく、真っ暗でした。道の脇には堰(せき)があって、水が音をたてて流れていました。堰の向こうに茂みがあり、そこから猛獣が飛び出してくるように思えました。

恐ろしくて、坂道をはっていくのですが、なかなか進みません。涙が道にしみこんでいきました。

「こんな苦しい目にあって、なぜ生きていなくてはならないの?」とつぶやいたとき、ふと誰かに見られている気がして空を見上げました。星がキラキラ光っているだけで、誰もいませんでしたが、このとき、天におられる神様を感じたのです。
その日は、父に背負われて無事家にもどりました。

喘息で一週間欠席して久しぶりに学校へ行っても、誰も声をかけてくません。先生もです。自分は、いてもいなくてもいい存在なんだ。自分には価値がないんだと思いました。朝、学校へ行ってから誰とも一言も話さず帰ることの多かった日々。このような日が永遠に続くように思いました。

あるとき、自分のお墓に家族や従兄弟たちが来ていて笑っている絵を描きました。それを祖母にみつかってしまいました。「なしてそんな絵を描く?」(祖母は秋田弁)と聞かれ、「わたしがいなくなれば、みんなせいせいしたって喜ぶでしょ」と言うと、「そんなごと、あるわけねえべ!」と強く言って祖母は泣きました

わたしははっと胸を突かれました。祖母の涙を見て、少なくともおばあちゃんだけは悲しんでくれる。年老いたおばあちゃんを悲しませてはいけないと思い、自殺を思いとどまりました。不思議に両親が悲しむことは想定していませんでした。

自分の存在価値がわからず、何のために生まれてきたかわからず、自分はダメな人間だという大きな劣等感を抱きながら悶々としていた中二の一年間は、十年にも感じられる長い時間でした。

そのころ家で毎日中学生新聞をとっていました。中学生新聞のコラムを読んだとき、心打たれたので、その記事を書いたA先生に手紙を出してみました。別の中学の先生だったのでお返事はこないと思っていたのですが、一週間後にお返事が届きました。それは、温かく励ましてくださるような内容の手紙で、手紙を読んで声を上げて泣いてしまいました。

何を書いたか忘れましたが、会ったこともない人に手紙を書かなければならないほど、心に切羽詰まった思いがあったのです。その後も悩みや考えていることを手紙に書くと、丁寧にお返事をいただき、A先生とは高校三年の終わりまで文通が続きました。
今から思うと、A先生は、担任のクラスの生徒たちでとても忙しい日々を過ごされていたのに、自分の学校ではないひとりの中学生に手紙を書き続けてくださいました。このことは、すごいことです。

A先生とは直接お会いしたことはないのですが、文通のおかげで生きる意欲が与えられました。また、国語の先生だったので、中学生向きの本をたくさん紹介していただき、本をよく読むようになりました。A先生は、この本をぜひ読んでみてください。あなたの感想が聞きたいのですと手紙に書いてくださいました。

小説を書き始めたのはそのころです。作文は苦手だったのですが、空想したことを文章にすると、書いているうちに勝手に物語が動きだし、どんどん書けるのです。原稿用紙136枚の小説を書いたとき、少し自信がつきました。わたしは何をやってもだめな人間だけど、136枚もの小説を書けるのはこのクラスで自分だけだと思い、劣等感から解放され、代わりに優越感を抱くようになりました。

長い中二がやっと終わり、中学三年になったとき、クラスに(芋ちゃんと米ちゃんという)二人の友達ができました。こちらから声をかけたのか、声をかけられたのか覚えていませんが、学校生活が一変しました。
中三のクラスはみんなニックネームで呼び合っていて、わたしにも名前が付きました。グリムです。グリム童話の魔法使いのおばあさんに似ているということで、グリムばあさんとも呼ばれました。十五歳でおばあさんです。それでもニックネームがついたのがうれしくて、このクラスでは受け入れられているんだなあと思いました。

高校生になるころには喘息の発作を起こすことがほとんどなくなっていました。
子どもが好きだったので幼稚園教諭の資格が取れる学校を受験しました。ところが結果は補欠の十番。ぎりぎり繰り上げ合格になりました。

入学してからその学校がキリスト教の学校だと知りました。教科書と共に聖書を買うようにいわれました。そのときが聖書を手にした最初でした。
学校では毎日礼拝がありました。夏休みに教会へ行って週報をもらってくることという宿題が出て、しぶしぶ行きました。


                      つづく


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