誠実に生きている人が苦難に会い、悪いことをしたり、いい加減に生きている人が恵まれた生活をしているのを見ると、疑問を感じる人がいるのではないでしょうか。
わたしは中学生のころ、誠実に生きていれば幸せになり、悪いことをしたり、不誠実に生きている人はみじめな死に方をするんだよと教えられました。
もしそれが本当なら、つらいことがあっても、まじめに生きていけます。
でも実際は、そうでないことが多く、矛盾を感じていました。
悪いことをしたり、不誠実な人が幸せになっているのを見ると、神さまは不公平ではないかと思ってしまいます。
昨日は、そのことについてどう考えたらよいか教えていただきました。
昨日はコイノニア礼拝でした。
コイノニアとは韓国の大方(デバン)教会と土浦めぐみ教会との交流のことで、各年齢層の方が訪れたり、迎えたりします。今年はコイノニア20周年の記念の年で、大方教会から31名の方々が来てくださいました。
礼拝では、大方教会の牧師先生がメッセージをしてくださいました。
旧約聖書の詩編17:14-15には次のように書かれています。
14主よ。人々から、あなたの御手で。
相続分がこの世のいのちであるこの世の人々から。
彼らの腹は、あなたの宝で満たされ、
彼らは子どもらに、満ち足り、
その豊かさを、その幼子らに残します。
15しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、
目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。
これは、ダビデの書いた詩です。ダビデは自分の周りに敵がたくさんいて、彼らが栄えているのを見て苦しみました。
神さまの言葉通りに生きようとすると、状況が苦しくなることの多い現実です。
「相続分がこの世のいのちであるこの世の人々」とは、
この世で繁栄している人々は、相続分(分け前、むくい)をすでに受け取っている人々という意味です。
この世で繁栄している人々は、すでに分け前が与えられてしまったので、将来は何もなく、何の望みもないのです。
だから、このような人たちのようにならないようにしてくださいとダビデは祈っています。
神を信じない人たちは、お金が与えられると自分がもうけたと思い、私腹を肥やしています。子どもの出世を望み、子孫の繁栄を喜びます。人生は有限なので、お金を子孫に残して安心します。
この人たちには神様が抜けています。自分のため、自分の子どものため、自分の子孫のためと考えて、他者のためにという考えが欠落しています。
15節で「しかし、私は……」と書かれているのは、『私は、この人たちとは違います。神を信じます』という告白です。
「目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」というのは、自分が神様から祝福をたくさん受けていることを喜ぶという意味です。
目ざめるとき、神様と対面できるとは、なんと幸いでしょう。
神と対面したダビデは、喜びに満たされて感謝にあふれ、『世の人たちの繁栄をうらやむことはしません』と告白しています。
「最も良いものはまだ来ていない。(清教徒)」という言葉があります。
人生はこの世で終わるのではないのです。最も良いものがいつの日か必ず与えられるのです。だから、人の繁栄をうらやむことはないのです。
ダビデのように神を見上げて生きていきたいです。
書いていて昨日のメッセージは、前回のブログに書いた金持ちとラザロのたとえ話とつながっていると思いました。
先週は水曜日の朝に腰を痛め、水曜礼拝と輪読会に行けませんでした。
落ち込んでいたのですが、日ごとによくなってきて、昨日はコルセットをつけて教会礼拝に2回(第1と第3)も出席し、TEENSの奉仕もできました。
感謝!!
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わたしは中学生のころ、誠実に生きていれば幸せになり、悪いことをしたり、不誠実に生きている人はみじめな死に方をするんだよと教えられました。
もしそれが本当なら、つらいことがあっても、まじめに生きていけます。
でも実際は、そうでないことが多く、矛盾を感じていました。
悪いことをしたり、不誠実な人が幸せになっているのを見ると、神さまは不公平ではないかと思ってしまいます。
昨日は、そのことについてどう考えたらよいか教えていただきました。
昨日はコイノニア礼拝でした。
コイノニアとは韓国の大方(デバン)教会と土浦めぐみ教会との交流のことで、各年齢層の方が訪れたり、迎えたりします。今年はコイノニア20周年の記念の年で、大方教会から31名の方々が来てくださいました。
礼拝では、大方教会の牧師先生がメッセージをしてくださいました。
旧約聖書の詩編17:14-15には次のように書かれています。
14主よ。人々から、あなたの御手で。
相続分がこの世のいのちであるこの世の人々から。
彼らの腹は、あなたの宝で満たされ、
彼らは子どもらに、満ち足り、
その豊かさを、その幼子らに残します。
15しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、
目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。
これは、ダビデの書いた詩です。ダビデは自分の周りに敵がたくさんいて、彼らが栄えているのを見て苦しみました。
神さまの言葉通りに生きようとすると、状況が苦しくなることの多い現実です。
「相続分がこの世のいのちであるこの世の人々」とは、
この世で繁栄している人々は、相続分(分け前、むくい)をすでに受け取っている人々という意味です。
この世で繁栄している人々は、すでに分け前が与えられてしまったので、将来は何もなく、何の望みもないのです。
だから、このような人たちのようにならないようにしてくださいとダビデは祈っています。
神を信じない人たちは、お金が与えられると自分がもうけたと思い、私腹を肥やしています。子どもの出世を望み、子孫の繁栄を喜びます。人生は有限なので、お金を子孫に残して安心します。
この人たちには神様が抜けています。自分のため、自分の子どものため、自分の子孫のためと考えて、他者のためにという考えが欠落しています。
15節で「しかし、私は……」と書かれているのは、『私は、この人たちとは違います。神を信じます』という告白です。
「目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」というのは、自分が神様から祝福をたくさん受けていることを喜ぶという意味です。
目ざめるとき、神様と対面できるとは、なんと幸いでしょう。
神と対面したダビデは、喜びに満たされて感謝にあふれ、『世の人たちの繁栄をうらやむことはしません』と告白しています。
「最も良いものはまだ来ていない。(清教徒)」という言葉があります。
人生はこの世で終わるのではないのです。最も良いものがいつの日か必ず与えられるのです。だから、人の繁栄をうらやむことはないのです。
ダビデのように神を見上げて生きていきたいです。
書いていて昨日のメッセージは、前回のブログに書いた金持ちとラザロのたとえ話とつながっていると思いました。
先週は水曜日の朝に腰を痛め、水曜礼拝と輪読会に行けませんでした。
落ち込んでいたのですが、日ごとによくなってきて、昨日はコルセットをつけて教会礼拝に2回(第1と第3)も出席し、TEENSの奉仕もできました。
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