昨日、日本クリスチャン・ペンクラブの有志で正岡子規が晩年過ごした家、子規庵に行ってきました。
上野の隣の駅、鶯谷から歩いて5分の場所に子規庵がありました。

子規は明治27年にこの地に移り、故郷松山より母と妹を呼び寄せ、子規庵を病室兼書斎と句会歌会の場として、多くの友人、門弟に支えられながら俳句や短歌の革新に邁進しました。
子規が亡くなった後も、子規庵には母と妹が住み、句会、歌会の世話をつづけたそうです。老朽化と大正12年の関東大震災の影響により昭和元年に解体され、旧材による重修工事が行われました。現在の子規庵は昭和25年高弟、寒川鼠骨等の努力で再建されたそうです。
間取りは当時のままで、八畳間に座っていると、文豪たちが訪れ子規を囲んで文学談義をしている様子が見えるようでした。

子規は結核を患い7年の闘病生活の後、脊椎カリエスで34歳の若さで亡くなっています。
『脊椎カリエス』という難病は、病原菌により脊椎が破壊されて湾曲し痛み、半身不随や寝たきりになることもあるそうです。
また、破壊された骨が膿になり、その溜まった膿が出口を求めて皮膚に穴をあけ、体外に流れ出るという、想像を絶する悲惨さ、そして激痛を伴う病気です。
病と闘う日々を、子規はその独特な客観性で、文字にしていきます。
病の中にあって、子規の書いた原稿はずいぶんな量だったそうです。布団の脇に山積になっていたようで、親友の夏目漱石に「考えてから書きなさい」と言われたそうな……。

中は撮影禁止でしたが、庭から写真を撮ってもよいと言われました。これは、庭から写した写真です。
子規が病症の身を横たえた6畳間です。子規の使った机がは中程に切り込みが作られています。これは足を伸ばすことができず、ひざを立てたまま仕事をする為のものでしたが、病気が重くなって、間もなくこの机も使えなくなったそうです。



庭は日当たりがよく、植物が勢いよく育っていましたが、当時の植物とはちょっと違ってしまっていると説明がありました。
庭からは上野の山を望むことができたそうです。
子規の歌
四年寝て一たびたてば木も草も皆眼の下に花咲きにけり
瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり

「 糸瓜の咲て痰のつまりし仏かな 」「 をとゝひのへちまも水も取らざりき 」「 痰一斗糸瓜の水も間にあはず 」という三篇の辞世の句を遺して34歳の若さで亡くなりました。
病のなかにあっても文学の意欲を失わず、書くことに命を懸けた子規の情熱が伝わってきました。


お昼は笹乃雪で豆腐料理をいただきました。
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子規は明治27年にこの地に移り、故郷松山より母と妹を呼び寄せ、子規庵を病室兼書斎と句会歌会の場として、多くの友人、門弟に支えられながら俳句や短歌の革新に邁進しました。
子規が亡くなった後も、子規庵には母と妹が住み、句会、歌会の世話をつづけたそうです。老朽化と大正12年の関東大震災の影響により昭和元年に解体され、旧材による重修工事が行われました。現在の子規庵は昭和25年高弟、寒川鼠骨等の努力で再建されたそうです。
間取りは当時のままで、八畳間に座っていると、文豪たちが訪れ子規を囲んで文学談義をしている様子が見えるようでした。

子規は結核を患い7年の闘病生活の後、脊椎カリエスで34歳の若さで亡くなっています。
『脊椎カリエス』という難病は、病原菌により脊椎が破壊されて湾曲し痛み、半身不随や寝たきりになることもあるそうです。
また、破壊された骨が膿になり、その溜まった膿が出口を求めて皮膚に穴をあけ、体外に流れ出るという、想像を絶する悲惨さ、そして激痛を伴う病気です。
病と闘う日々を、子規はその独特な客観性で、文字にしていきます。
病の中にあって、子規の書いた原稿はずいぶんな量だったそうです。布団の脇に山積になっていたようで、親友の夏目漱石に「考えてから書きなさい」と言われたそうな……。

中は撮影禁止でしたが、庭から写真を撮ってもよいと言われました。これは、庭から写した写真です。
子規が病症の身を横たえた6畳間です。子規の使った机がは中程に切り込みが作られています。これは足を伸ばすことができず、ひざを立てたまま仕事をする為のものでしたが、病気が重くなって、間もなくこの机も使えなくなったそうです。



庭は日当たりがよく、植物が勢いよく育っていましたが、当時の植物とはちょっと違ってしまっていると説明がありました。
庭からは上野の山を望むことができたそうです。
子規の歌
四年寝て一たびたてば木も草も皆眼の下に花咲きにけり
瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり

「 糸瓜の咲て痰のつまりし仏かな 」「 をとゝひのへちまも水も取らざりき 」「 痰一斗糸瓜の水も間にあはず 」という三篇の辞世の句を遺して34歳の若さで亡くなりました。
病のなかにあっても文学の意欲を失わず、書くことに命を懸けた子規の情熱が伝わってきました。


お昼は笹乃雪で豆腐料理をいただきました。

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