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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

心は燃えていても・・・・・・

2015-01-17 15:12:36 | 聖書から
一昨日は家庭集会でした。教会で行ったので、正確には家庭集会といわないのでしょうけれど……。
家庭集会は、我が家とあと2軒の家で行っていましたが、一軒の家でできなくなり、我が家で行うのも難しくなりました。

母のことがあって、土浦と東京の二重生活をしているので、準備ができません。さらにマンションは工事中で、音がうるさいこと。主人が仕事をやめて毎日家にいるようになったこと。という3つの障害があります。
24年続いた家庭集会ですが、このへんで終わりにしてもいいかな……と思っていたら、ぜひ続けてほしいとの声がいくつも上がりました。

教会には喫茶店のような雰囲気のトレーラーハウスがあります。そこを借りて行うことにしました。そこは、険しい道のりを歩いてきた登山者が、一休みしてほっとできる山小屋のような空間です。

マタイ26:36~46からイエス様がゲッセマネで祈っている箇所を中心に学びました。
イエス様が十字架につけられる前のことです。イエス様は弟子のペテロとヤコブとヨハネを連れて祈るためにゲッセマネに行かれました。

イエス様は苦しみもだえ始め、「悲しみのあまり死ぬほどです」と言われました。
情けないことに、こんなにイエス様が苦しんでおられるのに弟子たちは眠ってしまいます。(まるで自分の姿を見ているよう……)

「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈るイエス様。杯にはすべての人類に対する神の裁きが入っています。

杯を受けるとは、十字架につけられて殺され、神様からも見捨てられることを意味します。イエス様でさえ、できればその苦しみを避けたいと思われるほど、過酷なことでした。

イエス様はさらに祈られます「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」

『最もつらいとき、このように祈ることができるでしょうか?』と問いかけられました。

つらいときは、そのつらさを取り除いてくださいと、そればかり祈ってしまいます。
でも、自分の願いより神様のみこころを優先させることの大切さを教えられました。

イエス様がみこころを優先させて十字架にかかってくださったからこそ、わたしたちは救われ、決して神様から見放されることがなくなったのです。

この聖書箇所を読んで、イエス様の苦しみもだえる姿を初めて見たかのようにはっとさせられました。この箇所は何度も読んでいるのに、イエス様の苦しむ姿をドラマの一場面を見るかのように距離を置いてみていました。そして心を痛めることなく弟子たちのように眠りこけていました。

『ごめんなさい。この杯の中にはわたしの汚い心が入っていて、それを受けるのにこんなに苦しんでくださっているのに、わたしは眠っていました。』これは、わたしの祈りです。

イエス様は、弟子たちに言われました。「あなたがたは、そんなに、一時間でもわたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」

「心は燃えていても、肉体は弱いのです。」なんという愛とやさしさに満ちた言葉でしょうか。
イエス様は、わたしたちの肉体の弱さに同情されないお方ではないのです。
すべてをご存じで、「目をさまして、祈っていなさい」と言われたのです。

目をさまして祈っていられるように。自分の願いでなく、神様のみこころを優先させることができるように。このふたつを今年の目標にします。


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