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OBIでマルコの福音書の章題をつけるという課題が出て、マルコを繰り返し読んでいます。
繰り返し読むと聖書の深みに一歩一歩入っていく感じがします。何度も読んでも読むたびに、新しい発見があり、心ふるわせています。
み言葉(聖書に書かれている言葉)の力は、本当にすごいと実感します。
新約聖書は、マタイの福音書から始まり、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書と続きます。福音書にはイエス様の生涯、教えが書かれています。マタイ、マルコ、ルカは共感福音書といいます。内容が重複している部分もありますが、それぞれ特徴があります。
マルコはせっかちなローマの人に向けて書かれたそうで、前置きは短く、いきなり本編に入っていきます。キリストの系図も誕生場面もなく、一章に漁師のシモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネが弟子として召されることが書かれています。
シモンペテロとアンデレに、「人間を取る漁師にしてあげよう」とイエス様が言われたとき、ヤコブとヨハネは何をしていたかというと、舟の中で網を繕っていました。(マルコ1:19)
繕うというのは、やぶれたり、穴が開いたのを修繕することです。
中学生のころ、母に編みものを教えてもらってマフラーを編みました。毛糸をからませてしまうと、祖母が「貸しなさい」といって、ていねいにほどいてくれました。
わたしがほどこうとすると、ますますからまってしまい、いらいらしてハサミで切ってしまうことがよくありました。
「おばあちゃんはどうして上手にほどけるの?」と感心して尋ねると「年寄りは、気が長いからできるんだよ」と言いました。(わたしは年をとっても無理かもしれませんが・・・)
からまった毛糸を解きほぐすことと繕うことは似ていますね。どちらも忍耐が必要で、丁寧に時間をかけてしなければできない仕事です。
この箇所に『繕う』という言葉が書かれているのは、イエス様がこの4人の新しい弟子たちに網を繕うように、人の心のやぶれ目や傷を繕って治す者になりなさいという意味が含まれていると知って目が開かれる思いがしました。
わたしはイエス様に繕われた者だと気づいたのです。わたしの心を網にたとえると、もつれてからまり、ねじれて穴があき、捨てられてもしかたないものでした。イエス様はそれをていねいに解きほぐし、つなぎ、繕ってくださいました。
「お前の心は繕われた。今度はお前が心の網がもつれて苦しんでいる人を繕ってあげなさい」と言われているような気がしました。
わたしの心は繕われても、すぐにもつれさせてしまいます。自分では繕うことができません。そのときはイエス様に助けを求めて何度も何度も繕ってもらいます。
繕われたことの喜びをあかしすることによって、聞く人に神様の癒しを体験していただけたらどんなによいでしょう。
あかし文章を書くことによっても、繕われていくのだと思いました。