昨日はOさん宅での家庭集会でした。I先生から聖書の学びをしました。聖書箇所はマルコ1:40-45です。
以下は新改訳聖書第三版から書き写しました。
さて、ツァラアトに冒された人がイエスのみもとにお願いにきて、ひざまずいて言った。「お心一つで、私をきよくしていただけます。」
イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」
すると、すぐに、そのツァラアトが消えて、その人はきよくなった。
そこでイエスは、彼をきびしく戒めて、すぐに彼を立ち去らせた。
そのとき彼にこう言われた「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々へのあかしのために、モーセが命じたものをもって、あなたのきよめの供え物をしなさい。」
ところが、彼は出て行って、この出来事をふれ回り、言い広め始めた。そのためイエスは表立って町の中に入ることができず、町はずれの寂しいところにおられた。しかし、人々は、あらゆる所からイエスのもとにやって来た。
新改訳聖書第二版以前はツァラアトがらい病となっています。ツァラアトとはへブル語ですが、聖書で言うツァラアトは、らい病(ハンセン氏病)とは全く異なる病気です。ツァラアトをLeprosy(らい病、ハンセン氏病)と英訳したのは誤訳で、日本語聖書も英訳聖書の過ちに従ってしまったため、らい病と書かれてしまったそうです。
この聖書箇所を読んで、ひとりひとりが心に残った箇所を述べたり、疑問点や感想など語り合いました。
わたしはこの箇所を読んでイエスさまが手を伸ばして彼にさわって癒されたところに感動しました。ツァラアトは伝染性の強い重い皮膚病です。イエス様はことばだけで病気を癒すこともできます。それなのに、さわって癒されたのです。
当時はツァラアトにかかると、社会から隔離され、「汚れている」と叫びながら歩かなければなりませんでした。かつて日本でもらい病のかたが差別を受けたように、しいたげられ、精神的にも非常につらい状況にあったと考えられます。
愛と憐れみに満ちたイエス様は、その人に手を触れて癒して下さったのです。
病人が「お心一つで私をきよくしていただけます」
と言ったのは、信仰深い人のように思いますが、口語訳聖書では「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが。」となっています。
はたして彼の信仰はどうだったのでしょう?イエス様がだれにも言わないようにと戒められているのにそれをやぶってふれ回ったことを考えると、信仰深い人だったと言い切れない気がします。でも、わたしがその病人だったら、癒されたことが嬉しくて、ふれ回ってしまうでしょう。
なぜイエス様は誰にも言わないでとくぎをさすように言われたのでしょう。そう言っておきながら、なぜ「ただ行って、自分を祭司に見せなさい。」と言われたのは矛盾しているのでは?という質問がありました。
癒されたことの証明として祭司に見せ、祭司がきよいと宣言しなければその人はいつまでもツァラアトに罹った人として社会から隔離されてしまうのです。祭司に見せ、きよめの供え物をするというのは、旧約時代に定められた規定(レビ記13:45-46)によります。
だれにも言わないようにというのは、祭司は別として、町の人たちにイエス様に癒してもらったということを言わないようにという意味です。話すとイエス様の癒しが強調されてしまうからです。
ところがツァラアトにかかって癒された人は、ふれ回ってしまいます。
そのため大勢の病人が押しかけるようになり、イエス様は町はずれのさみしいところに行くことになります。
「イエス様が地上に来られた目的は、病の癒しではなく、福音を伝えることです。その手段として癒しを行うこともありますが、あくまでも身体の癒しが目的ではありません。」とI先生が言われました。
あらためてイエス様が地上に来られた目的を教えていただき、神の国のことを思わないで、現実に起きている問題の解決を求めてばかりいることを反省しました。
コメント受付再開しました。よろしくお願いします。
深刻な病気にかかることは理不尽と感じますが、それらのことの背後に神様がおられるのですね。
>「我が心なり、清くなれ!」
文語訳ではそう書かれているのですか。心に響いてきますね。
「汚れている」と叫ばなければならなかった病人の心中を思うと心が痛みます。
病人が自分の罹っている病気を自覚するより、わたしたちが自分の罪を自覚することの方が難しいと思います。聖書は”気づき”与えてくれますね。
癒されることが目的になってしまうと、信仰がちょっと違った方向へいってしまうので気をつけないと・・・と思っています。
比喩的に表現されてるものだと思ってました。
両方ですかね~
真っ白なのが清いんですよね?白い斑点だと汚れた部分と清い部分が入り交じってるから清くないんですよね?
髭に出来たツァラアトとか額に出来たツァラアトとか、理解が難しいですね。
宿営の中に入るには「私は汚れている」と叫ばなければいけないんですよね。
自分の罪を認めて汚れている、と叫ぶには、イエス様を十字架に付けるに値する罪が自分にあることを自覚しなきゃならないんでしょうね。
罪があることは認めますが、まだまだ自覚が足りないです。
聖書読んでいくうちに気付かなかった罪に気付かされることはありますよね。
いつも神様の前を歩き、全き者でありたいですね。
「福音の手段として癒しが行われることもある・・」私の教会でも牧師先生から伺いました。
「何のために癒されるか」が大切なのですね。