先日の礼拝で使徒の働き20:22-38の箇所からのメッセージを聞きました。
パウロは「いま、私は心縛られて、エルサレムに上る途中です」と言いました。
わたしたちは義理人情に、家族に、欲望に、怒りに、妬みに、面子に縛られて行動することがあります。
でも、パウロの場合は違っていました。パウロは神様の期待に縛られていたのです。
エルサレムで飢饉があったので、義援金や救援物資を集めました。パウロはバルナバと共にそれをエルサレムに持っていくことを示されました。それは困難な道のりでした。迫害を受ける危険がありました。でも、エルサレムに行くことを神が期待されているから行きたいと思ったのです。
人が行動するときは、次の3つの動機があるそうです。
①願望(したいからする)
②義務(人としてなすべきことだからする)
③強制(無理やりさせられる)
「すべきことと、したいことが違っているときは辛いけれど、すべきこととしたいことが一致している人は幸いな人生だ」と牧師先生が言われました。
わたしの場合はどうでしょうか? 10年ぐらい前にもこの言葉を聞いた気がします。そのときは、すべきことがはっきりわからなかったので、何とも言えないと思っていました。
でも、今はすべきことがはっきりしています。あかし文章を書くことです。あかし文章とは、キリストをあかしするエッセイ、小説そして童話です。わたしは書きたいと思っているのですから、なんと幸いな人生を歩んでいることでしょう。
パウロは「走るべき行程を走り尽くし」と書いています。
たいていの人は人生の終わりに過去の過ちを悔やんだりしますが、パウロは自分の人生でいっさい悔いがないように書いています。
果たして人生の終わりにこのように胸を張って言うことができるでしょうか……。
パウロがこのように言うことができたのは、動機に関して良心にやましいことがないからだと聞いて目が開かれたような思いがしました。
人は完全ではないので失敗したり、結果的に人の心を傷つけてしまったり、誤解されたりします。でも、結果は気にしないで、動機を吟味することが大切なのですね。
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パウロは「いま、私は心縛られて、エルサレムに上る途中です」と言いました。
わたしたちは義理人情に、家族に、欲望に、怒りに、妬みに、面子に縛られて行動することがあります。
でも、パウロの場合は違っていました。パウロは神様の期待に縛られていたのです。
エルサレムで飢饉があったので、義援金や救援物資を集めました。パウロはバルナバと共にそれをエルサレムに持っていくことを示されました。それは困難な道のりでした。迫害を受ける危険がありました。でも、エルサレムに行くことを神が期待されているから行きたいと思ったのです。
人が行動するときは、次の3つの動機があるそうです。
①願望(したいからする)
②義務(人としてなすべきことだからする)
③強制(無理やりさせられる)
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わたしの場合はどうでしょうか? 10年ぐらい前にもこの言葉を聞いた気がします。そのときは、すべきことがはっきりわからなかったので、何とも言えないと思っていました。
でも、今はすべきことがはっきりしています。あかし文章を書くことです。あかし文章とは、キリストをあかしするエッセイ、小説そして童話です。わたしは書きたいと思っているのですから、なんと幸いな人生を歩んでいることでしょう。
パウロは「走るべき行程を走り尽くし」と書いています。
たいていの人は人生の終わりに過去の過ちを悔やんだりしますが、パウロは自分の人生でいっさい悔いがないように書いています。
果たして人生の終わりにこのように胸を張って言うことができるでしょうか……。
パウロがこのように言うことができたのは、動機に関して良心にやましいことがないからだと聞いて目が開かれたような思いがしました。
人は完全ではないので失敗したり、結果的に人の心を傷つけてしまったり、誤解されたりします。でも、結果は気にしないで、動機を吟味することが大切なのですね。

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