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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

あなたは足を洗う水をくれなかったが・・・(その2)

2013-07-22 11:04:22 | 聖書から
前回の続きです
さらにイエス様は言われます「この女の多くの罪は赦されています、というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」
シモンがどんな人だったか。どんな気持ちでイエス様を招いたのかと考えてみました。

パリサイ人の中には、イエス様をわなにかけようとした人やイエス様が逮捕されるように仕向けた人もいました。でも、この人は、悪気はなかったようです。でも、招いておきながら、客人の足を洗うという当時、当たり前の習慣としてあったことすらしませんでした。
そのころ、イエス様の行かれるところにはいつも大勢の人が集まり、イエス様はすごい人気でした。シモンは有名人を招いてやろうという気持ちだったのだと思います。

イエス様の語りかけを聞いたシモンはどんな気持ちになったのでしょう。一言も発しなくなったのは、心刺されていたからではないでしょうか。

シモンがその後どうなったか書かれていませんが、イエス様の言葉を聞いたシモンは、自分が赦されなければならない罪人であることを自覚したのだと思います。 

聖書の中の人物で名前が記されている人は、何らかの意味がある人なのだそうです。シモンと名が書かれたということは、その後、シモンが教会のリーダー的存在になった可能性があると牧師先生が言われました。
イエス様の言葉は、シモンに対する愛だったのですね。

この箇所は、女の人とシモン、どちらかの立場に自分を置いて読むかによって受けるものが違ってくるそうです。
いままでわたしは女の人の行為に目を奪われていて、パリサイ人シモンのことをあまり考えませんでした。でも、今回シモンの立場に立ってイエス様の言葉に耳を傾けたら、イエス様の愛が大波のように伝わってきました。


写真は金曜日に行ったレストランの中です。囲炉裏を囲んでの席でした。

今日これからヒックンが来ます。
この夏休みの間、何回か来て泊まりますが、その第一回目です。



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あなたは足を洗う水をくれなかったが・・・(その1)

2013-07-20 20:51:26 | 聖書から
昨日は家庭集会でした。いつもと趣を変えて聖書の学びは教会で行い、その後、車に分乗してレストランへ行って食事をしながら楽しく語らいました。


聖書ルカ7:36-50の箇所から学びました。
罪深い女がパリサイ人シモンの家に入ってきてイエス様の足を涙で濡らして髪の毛でぬぐい、足に口づけして香油を塗ったことが書かれています。

この女の人の行為にはびっくりします。勝手に人の家に入ってきています。しかも食事の場にやってくるのです。
当時のイスラエルの家屋は開放的で、中庭から招いてもいない人が勝手に入ることが可能だったようです。


女の人はこのとき、イエス様と初対面だったそうです。以前出会っていて罪を赦してもらったのでその感謝の気持ちとしてそのような行為をしたのかと思っていましたが、そうではないようです。
彼女はイエス様のなさったことを聞き、この方こそ救い主だと信じたのでしょう。高価な香油をささげる彼女の信仰に心打たれます。


シモンは、その女の人が罪深い人なので、イエス様が預言者なら、その人がどういう人か知っているだろうと心ひそかに思ったと書かれています。

一段高いところから女の人をさめた目でみているシモンに対してイエス様は金貸しのたとえを話します。
金貸しから50デナリ借りていた人と500デナリ借りていた人がいて、ふたりとも返せなくなりました。金貸しはふたりとも赦してやりました。

*デナリとはお金の単位。当時1デナリは労働者の一日の賃金でした。

「ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか」
というイエス様の質問に、シモンは「よけいに赦してもらった方だと思います」答えます。

そのあと、イエス様は「あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。あなたは、口づけしてくれなかったが、この女はわたしがはいって来たときから口づけしてやめませんでした……」とたたみかけるようにシモンに言われます。
シモンは一言も答えません。言い訳すらしません。なぜ黙ったままなのでしょう……。
                              つづく


上の茅葺屋根の写真は、昨日訪れた和風レストランです。
この建物は、土浦藩が江戸末期に造成して江戸詰藩士を住まわせた武家屋敷で、登録文化財になっています。明治11年(1878年) に茨城県内の最初の近代的銀行「第五十国立銀行」を創設した一色範疇が居住したので一色範疇記念館とも呼ばれています。




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理屈を超えて

2013-06-22 12:26:37 | 聖書から
昨日はOさん宅での家庭集会でした。
男性と女性の視点の違いについて興味深いお話を聞きました。

男性は「構造」から考える人が多く、そういう人は、概念、理念、原理、原則、普遍性、公性優先、左脳派で、現場に埋没しないで大所高所から発想できる。

一方女性は、「ぬくもり」から考える人が多く、生活実感、具体性、特殊性、私性、親しみ優先、右脳派の人が多く、関係性を豊かにできる。

「構造」から考える人は、場所を尋ねられたとき、頭の中に地図が描けるので相手に正確に伝えることができるそうです。わたしの最も苦手なことです。

また、「構造」から考える人は神様が自分の頭に納められないので、神様を信じることが難しいと聞いて、まさにわたしの夫もそうなのだと思いました。

でも、そのような男性が大勢クリスチャンになっています。信じ難い人でも、あるとき、ひっかかっていたことすべてが解決して信じることができるようになります。それは人の力ではなく、神様の力ですね。

理屈で考えると、神の存在がわからなくなります。科学的には証明できないからです。
まさに奇跡は原理、原則、普遍性から逸脱しているので受け入れられないでしょう。でも、神の存在が奇跡に始まり奇跡に終わっているのです。

旧約聖書のいちばんはじめには、「初めに、神が天と地を創造した(創世記1-1)」と書かれています。新渡戸稲造は、この聖書の言葉を漢文で読み、信仰に導かれたそうです。

神様が何もないところから天と地を造られたこと受け入れられれば、理屈にあってなくても信じられますね。神様は理屈を超えた存在だからです。



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ほめられた人

2013-05-21 16:34:18 | 聖書から

忙しい先週が駆け足で通り過ぎていきました。
土曜日の子ども家庭集会では、お話しし始めようとしたときに地震があって、震度3ぐらいだったらしいのですが、動揺しました。子どもたちは落ち着いて机の下にもぐったりしていました。

地震がお話の途中でなくてよかったです。もし途中だったら頭の中が真っ白になってしまっていたでしょう。20分間という長いお話でしたが、一年生の子どもも静かに聞いてくれました。終わったとき、みんな足がしびれたと言っていました。


先日の家庭集会の学びを紹介します
聖書にはイエス様にほめられた人が何人か出てきます。ルカの福音書7章1-10に出てくる百人隊長は、イエス様に絶賛されています。
この百人隊長は、当時イスラエルを支配していたローマ側の人です。百人隊長は、自分のしもべが病気で死にかけていたとき、イエス様に助けに来てほしいとユダヤ人の長老を通して伝えました。

百人隊長は人格者であり、ユダヤ人に尊敬されていたようです。ユダヤ人のために会堂(礼拝する場所)を建てました。長老たちは、イエス様に百人隊長の願いをきいてやってほしいと頼みました。

しもべとは百人隊長の配下にあった兵士の一人かそれとも百人隊長に仕えていた奴隷かわかりませんが、百人隊長はしもべを大切に思い、何とか助かってほしいと思っていたのです。

イエス様は百人隊長の家に向かいます。すると、百人隊長は友人を遣わして「主よ、わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません」と伝えます。

百人隊長はイエス様のことを「主よ」と言いました。ローマ皇帝に仕える身で、皇帝崇拝の行われていたローマで、皇帝以外の人を主と呼んでいることが知れたら大変なことになるのに、危険をも顧みずそう呼んだのです。

そして「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます」と言いました。

来てくださいと頼んでおきながら、わざわざおいでくださいませんようにと言うのは矛盾しているようですが、イエス様が百人隊長の願いを聞いて出向いてくださったことに感激して、それだけでじゅうぶんだと思い、また、イエス様を自分の家に入れる資格のない者だと思ってそう言ったのでしょう。

イエス様は「このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません」と言って百人隊長をほめました。

もちろん、しもべは癒されました。

百人隊長はイエス様がどんなお方なのか知っていたのですね。イエス様はことばだけで病を癒すことができると信じていたのですね。
わたしだったら、イエス様を無理にでも自分の家に連れてきて「癒してください」と頼み込んだかもしれません。
ことばだけでいやされると信じた百人隊長の信仰はすごい、わたしもそのような信仰を持ちたいと思いました。


イエス様が十字架で息を引き取られたとき、そこに居合わせていた百人隊長が「ほんとうに、この人は正しい方であった」と言っていますが、この百人隊長と同一人物だったのではないかという人がいるそうです。そんな気がしてきました。

同じ光景を見て、犯罪人が十字架刑で息を引き取ったとしか思わなかった人、悲しみにくれた人、罪のない正しい人が十字架につけられたと確信した人……人々はさまざまな思いを抱いてイエス様の十字架を目撃したのですね。

現在もイエス・キリストを歴史上の人物のひとりととらえている人、キリスト教の教祖としてとらえている人、自分には関係のない人だと思っている人……とさまざまです。

でも、イエスを「主よ」と呼ぶ人たちは幸いです。イエス様を主と見上げて従う人生は祝福あふれ、輝いています。



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行先がわからなくても

2013-03-16 17:05:27 | 聖書から

都内で開花宣言があったそうです。
例年は土浦は都内より1週間近く桜の開花が遅れるのですが、今日図書館へ行く道で桜が咲いているのをみつけました。
突然やってきた春にとまどいを感じながら、春を造られた神様をほめたたえています。



昨日はOさん宅での家庭集会で、アブラム(後にアブラハムと改名)の旅立ちの箇所を学びました。アブラムが神様から「わたしの示す地にいきなさい」と言われ、その通りに出発しました。

アブラムひとりではなく、妻のサライ(のちにサラと改名)と父のテラ、甥のロト、しもべたち、家畜などと一緒です。
住み慣れた町を離れるのは大変だったでしょうし、家族の反対もあったかもしれません。サライは反対しなかったのでしょうか? サライの性格を考えると、黙って従ったとは思えないのですが……。

また、そのときのアブラムの年齢は75歳だったそうです。でも、アブラムは175歳で死を迎えるので、現在の男性の平均寿命(80歳)に換算すると、34-35歳ということになると聞いて、案外若いんだと思いました。

アブラムが町を出ていくことを告げたときの、周囲の長老たちとアブラムの会話を想像してイギリスのF・Bマイヤーが書いた文章を紹介します。

「アブラム、ここには何でもあるのに、これ以上いったい何を望むというのかね」
「私は神様のみこころを行う以外、何も望みません」
「大人げないことを言うんじゃないよ。様々な危険に目を留めてごらん。あんたはまず砂漠を横切るんだよ(中略)それに強盗の群れに襲われたら、どううるつもりかね」
「しかし、私に行けとお命じになるお方は、いっさいの責任をおとりになるに違いありません。この方は必ず私たちの面倒を見てくださいます」


その後長老に行先だけでも知らせるように言われますが。行先はわからないけれども、一日に一日分の旅行をすればその分だけ行先がはっきりしてくる。と言って、アブラムは旅立ちます。


アブラムの神様に対する信頼はすごいですね。行先さえはっきりしていないのに旅立つように言われて、道中の危険、年老いた父のことなどたくさんの心配事があっても、神さまが一切の責任を取ってくださる、必ず面倒を見てくださると信じて疑わずに出発したのですから。

アブラムは行く先々で祭壇を築いて礼拝しました。アブラムは素朴に神様に感謝し、主のために礼拝をささげたのです。

そのアブラムの姿から「礼拝は人の生活とともにある」ことを示されました。この世の旅路と共にいつもささげていくのが礼拝なのだと教えられました。

人生を旅するときも、どこへ向かっているのか行先がわからないことがあります。予期せぬ出来事が起こって、これからどうなっていくんだろう……と不安な気持ちでいっぱいになることがあります。でも、日々ここまで守られたことを主に感謝し、一日に一日分の歩みをしていけばいいのだな。行先も心配事もすべて神様にお任せして歩いていけばいいのだなと思いました。


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決して見捨てられない訳

2013-03-05 16:44:37 | 聖書から
前回の記事にたくさんの方々からお祝いのコメントをいただいて、心から感謝いたします。
コメントを読ませていただいて、改めて卒業の喜びを味わっています。


2月28日に書いた「暗やみで叫ぶ」の記事を読まれた方が「イエス様が見捨てられたおかげで私達が見捨てられなくなった……」とは、どういう意味ですか? と質問をくださいました。

神様がイエス様を見捨てられたとはどういうことでしょうか。

以前、聖書学の学びの場で、「愛のお方と言われている神様が、自分の子どもを見捨てるはずがない。」と言われたクリスチャンの方がいました。

そう思える気持ちはわかります。けれども、神様は確かにひとり子のイエスをお見捨てになったのです。

それではなぜ、見捨てられたのでしょう……。
十字架の肉体的苦痛は想像を絶するものですが、イエス様にとっていちばん辛いことは、父なる神様との断絶でしょう。

どんなに苦しくても神様が共にいてくださるなら安心していられますよね。うめいたり叫んだりしたとき、すぐに答えがなくてもその声を聞いて下さっている方がおられると思うと慰められますね。

でも、人間は、アダムとエバが罪を犯して以来、神様とは断絶状態になっていたのです。神様は正しいお方なので、罪に対して何の罰も与えずに「まあいいよ」と言って受け入れることができません。

「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、(ローマ3:23)」と聖書に書かれている通り、罪のない人はいないので、神様との間に隔たりができてしまったのです。
罪の結果、人々はその魂が滅んでしまうことになりました。

でも、神様はご自分が作られた人間をとても愛しておられるので、人の魂が滅びることに対して非常に心を痛められました。それで人に罰を与えるのではなく、人の代わりにご自分のひとり子に罰を与えることにしました。

身代わりになる者は、罪のない者でなくてはなりません。イエス様は神様の子どもなので、罪がありませんでした。
神様は愛する我が子を十字架につけ、見捨てるために地上におくってくださったのです。
イエス様は、十字架の苦しみ、見捨てられた苦しみ、すべての苦しみを背負って死んでくださいました。わたしたちのために……。

愛する我が子を見捨てなければならなかった神様のお気持ちはどうだったのでしょう。心が引き裂かれる思いだったのでは……と思うと涙がこぼれます。映画パッションでは、最後に天から水滴が落ちてくる場面がありました。神様の涙を表しているようで、印象的でした。

イエス様が見捨てられてくださったので、人類の代わりにイエス様に罰を与えるという神様のわざが完了したのです。

イエス様が見捨てられたおかげで見捨てられないですむというのは、イエス様を信じる者が、たとえどんな状態になっても神様に見捨てられることは決してないということです。

イエス様がしてくださったことによって、わたしたちは罪を犯しても神様から罰を受けなくてすむようになったのです。神様と断絶してしまうことがなくなったのです。イエス様の十字架は、過去、現在、未来の人々、全人類に有効なのです。


乳がんになってから常に頭のどこかにあるものは、いつか再発転移して末期癌状態になるのではないかという恐れです。でも、体がどんな状態になっても神様から見捨てられることはないのだから大丈夫。常にわたしに目を注いで下さる神様がおられるから大丈夫と思えるのです。
「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。(ヘブル13:5)」
と、神様は約束して下さっています。



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暗やみで叫ぶ

2013-02-28 16:58:55 | 聖書から
今日も寒いと思い、分厚いジャケットを着てマフラー、耳当て、手袋をはめて出かけました。しばらくして日が照ってくると、汗ばんできました。ようやく春になったんだ!と嬉しくなりました。明日から3月ですね。

水曜礼拝ではイエス様が十字架上で語られた7つの言葉についてメッセージを聞いています。昨日のメッセージはイエス様の口から出た4つ目の言葉「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」でした。この言葉はアラム語で、聖書には「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という訳が書かれています。

これは詩編22編に書かれている言葉で、嘆きと賛美が含まれる22編全体を示しているのだそうです。

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という言葉だけを読むと、神様に見捨てられたことに対して、いじけている。あるいは抗議しているように受け取れます。でも、決してそういう意味ではなくて「わたしは神に見捨てられている」という宣言なのだと教えていただきました。


イエス様が十字架につけられて後、12時から3時まで全地が暗くなったと書かれています。ですから「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は暗やみの中で語られました。

暗やみには2つの意味があって、ひとつは神の裁きのあらわれで、神から隔たっていることを意味します。
イエス様は神様から見捨てられました。歴史の中で神から見捨てられたのはイエス様だけです。わたしたちは、どんなに絶望しても、神様に向かって叫ぶとき、神様は聞いてくださいます。でも、この時のイエス様は、叫んでも神様は顔をそむけておられます。完全な絶望です。


イエス様は十字架刑にされて肉体的な苦しみも大きかったことでしょうが、いちばん辛かったことは、神様に見捨てられたことではないでしょうか。

イエス様が神様に見捨てられてくださったおかげで、わたしたちは決して見捨てられない者になったのですね。

また、暗やみのもうひとつの意味を聞いて慰められました。
最初の意味と全く異なり、暗闇は神の臨在を証明するところとして用いられます。出エジプト記20:21には「モーセは、神のおられる暗やみに近づいて行った。」と書かれています。
「わが神、わが神……」と、見捨てられても神の臨在を求めるイエス様の姿。「わたしたちも暗やみの中で『わが神』と叫ぶ経験ができます。」
と牧師先生が言われました。

「わが神」と呼べるのなら、暗やみは、もはやわたしにとって暗やみではなくなります。

「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ。」とあなたを贖う主は仰せられる。(イザヤ54:7-8)」


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余すところなく

2013-02-15 20:57:15 | 聖書から
今日は我が家での家庭集会で9名が参加してくれました。主人が完全に退職したので、我が家で家庭集会を開くのはもう無理かなあ……と思っていました。昨年6月までは週に3日は仕事に出かけていたので、主人が仕事の日に家庭集会を開いていたのです。前回(10月)は主人が実家に行く日に開きました。

主人に話したら、「講座がある日ならいいよ。出かけるから」と言ってくれました。講座とは、県の生涯学習センターで行っている講座のことで、週に2~3日出ています。でも、講座は午前か午後の2時間ほどです。今日は午後からだったのですが、朝から出かけてくれました。
本当は主人が家庭集会に参加してくれることを願っているのですが(男性の参加者もおられるので)、まずそう言ってもらえたことを感謝しました。


学びは十字架の箇所(マタイ27:33-44)でした。
十字架につけられたイエス様に兵士は苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしました。

そのぶどう酒とは、はりつけの苦痛を和らげるために少量の没薬をぶどう酒にまぜて作った睡眠薬(麻酔薬)のようなもので、これらはエルサレムの金持の婦人たちが提供していたと言われているそうです。

当時は、はりつけにされた犯罪人への温情として十字架につけられたどの人にもに飲ませていたようです。
けれども、イエス様はそれをなめただけで飲もうとはされませんでした。

「イエス様が、兵士が飲ませようとしたぶどう酒をちょっと口をつけただけで飲まなかったのはなぜでしょう?」という質問がありました。

没薬入りのぶどう酒によって苦痛を和らげてもらおうとせずに、わたしたちの罪を赦すために苦痛のすべてを余すところなく味わってくださったイエス様に心打たれました。

「なぜ宗教学者である律法学者や祭司たちがイエス様を十字架につけたのでしょうか?」という質問も出ました。

人を救うはずの人が人を罰し、十字架につけた後もあざけり、ののしっています。十字架の下で兵士たちはイエスの着物をもらうためにくじ引きに興じています。

そんな人々に対してイエスは「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23-34)」と祈ります。
わたしなら、怒って呪いの言葉を吐くでしょう。

祭司長、律法学者たちは、イエスが神の子だとは思っていませんでした。イエスが、自分が神の子だと言ったことに対し、神への冒涜罪だと激しく非難し、憎みました。

「イエス・キリストが誰であるかとみなすことによって、十字架の意味が違ってきます。」と牧師先生が言われました。

かつてわたしは、イエス様が十字架につけられたことは事実だと思うけれど、自分とは関係のないことと思っていました。

でも、19歳で劇団四季のジーザス・クライスト=スーパースターを観たとき、青年イエスの挫折のようなかたちで十字架が描かれていたのを見て、『これは違う』と思ったことを思い出します。なぜ復活まで演じないのかと憤りを覚えました。

まだ、洗礼を受けておらず、教会にも通っていない時期でした。ミッションスクールでキリスト教に少し触れただけだったのに、なぜそのように感じたのか……自分でもわかりません。
その3年後に洗礼を受けたのですから不思議な気がします。

イエス様が十字架にかかってくださらなければ、わたしの罪が赦されることがなかったのだと思うと、感謝の気持ちでいっぱいになりました。



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父の咎を子に報い?

2013-02-08 16:57:07 | 聖書から
2/24に教会学校の暗唱聖句大会が行われます。例年の行事になっていますが、わたしもこのときとばかり一生懸命覚えています。子どもたちの記憶力にはとてもかないませんが……。

小学2年生のクラスで、何のために聖書の言葉を覚えるのでしょうか?と問いかけると、「自分の心を見つめるため」と答えた子どもがいたのでびっくりしました。

その通りです。聖書を読んでいると鏡のように自分の心が映されます。自分がどんな人間なのか示されます。
聖書の言葉はすばらしいのですが、それを実行することができない自分を発見します。
それで絶望するのですが、自分の力ではできなくても、神様ができるようにしてくださることを思い出して、希望をいただいています。


聖句を覚えていると、いざというときに役立ちます。わたしは、乳癌で手術台に乗せられたとき、逃げ出してしまいたくなるような恐怖に襲われました。
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。(イザヤ41:10)」
の聖句で落ち着くことができました。
知人から責めたてられたとき、「平和をつくる者は幸いです。(マタイ5:9)」という聖書の言葉を思い出して、穏やかに対処できました。


今年の暗唱聖句大会の個人賞は十戒を覚えることです。十戒とは、神様がモーセを通してわたしたちにくださった戒めです。
覚えるために何度も読んでいるうちに発見がありました。

「わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、私の命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。(出エジプト20:5-6)という箇所があります。
「父の咎を子に報い三代四代まで及ぼし」に注目すると、キリスト教でも親の咎を子が負うという考え方をするの?という疑問がわいてきます。
でも、聖書は決してそういう考え方はしないのです。

エゼキエル18章20節には「罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負いめがなく、父も子の咎について負いめがない。」と書かれています。

それでは、なぜそのように書いてあるのでしょう? 
神様が父親の罪を子や子孫に負わせるというのではなく、罪の影響が三代四代にまで及ぶということではないかと思いました。
また、もうひとつ考えたことがあります。

「恵みを千代にまで施す」を強調したくて書かれているのではないでしょうか。たとえば恵みを十代にまで……と書くなら三代四代との対比になりますが、千代とはかけ離れすぎていて比較対象になりませんね。つまり、神様は「わたしを愛し、わたしの命令を守るなら、あなたにものすごくたくさんの恵みを施し、その恵みは後の世代にまで及ぶのだよ」と言っているのだと思ったのです。

神様はわたしたちに恵みを与えたいと思っておられるのです。恵みとは、神様からの一方的な祝福です。

聖書は一貫して神様はわたしを愛すると言ってくださっています。聖句を覚えながら、その愛を感じています。


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守られている

2013-01-31 16:48:42 | 聖書から
昨日の水曜礼拝は主の祈りの最終回でした。(1月24日のブログの続きです)

主の祈りの最後は「私たちを試みにあわせないで、悪からお救い下さい」です。
〔国と力と栄は、とこしえにあなたのものだからです。アーメン〕は、後に付け加えたものだそうです。

「試みにあわせないで」というのは、つらいこと、試練にあわせないでという意味なのだと思っていました。ところが、試み(原語はペイラスモス)というのは、試練という意味と、誘惑という意味があるそうで、主の祈りの「試み」は、悪に引き込んでいく誘惑という意味だと教えていただきました。

誘惑と聞くと、恐ろしくなります。
誘惑は外からやってきます。その人が悪いから誘惑がやってくるわけではありません。イエス様も荒野で悪魔の誘惑を受けました。

イエス様は悪魔に対してみことばをもって対抗され、悪魔は離れていきました。

でも、わたしには悪魔と戦って勝てる自信がありません。悪魔は心のすきをねらってきます。最初は悪魔だとわからずに心地よいものとしてやってきます。

でも、むやみに恐れるのはやめようと思いました。悪魔と戦うのはわたしではなく、共におられるイエス様だからです。

「わたしは大丈夫」と思っているときは、足をすくわれることがあります。わたしたちを悪霊より守ってくださる存在にいつも目を向けていたいと思いました。

晴佐久昌英さんの詩が紹介されました。守ってくださる存在が確かにあることを思わせる詩です。

「手」


病室の窓から見上げる空はむやみに明るい

治らないわたしはこんなに暗いのに


病室の窓から見下ろす街もやたらと元気だ

出られないわたしはもはや亡霊のよう


消灯後の一人部屋に時計の音がいつまでも続く

あといくつの夜を耐えればゆるされるのか

治してください生かしてください

もう一度だけもとに戻してください

歩かせてください食べさせてください

もうこれ以上いじめないでください

せめて今夜だけでも痛みをとりのぞいてください

もうだめですもう限界ですもうこれ以上



闇の中へ思わず手を伸ばした瞬間

何かにさわってはっとする

だれもいないはずの深夜の病室

数秒息を止めてようやく気づく


さわったのではない

さわられたのだ

むこうから伸ばしてきた手に



晴佐久昌英・著  だいじょうぶだよ より



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赦すこと、赦されること

2013-01-24 20:43:40 | 聖書から
昨日の水曜礼拝で「主の祈り」の意味を教えていただきました。1月16日のブログの続きです。

イエス様が弟子たちに教えてくださった祈りは、神様をほめたたえる言葉で始まり、「日ごとの糧を与えてください」と続きます。
この祈りはわかりやすく、具体的ですね。食べ物があることが当たり前のようになっているので、こんな祈りをする必要もないと思われる人がいるかもしれませんが、世界で飢えている人たちのことを思うと、食べ物があることは当たり前ではないですね。
食卓に上っても、自分で食べることができない人がいます。その人には、食べさせてあげる介護者が必要です。精神的な悩みを抱えていて食べられない人、病気で食べられない人もいます。


 わたしは、精神的ショックを受けたとき、食べ物を口に入れてもなかなか呑み込めませんでした。食事がのどに通らないとはこういうことか……と、経験して初めてわかったのでした。

父が末期がんでホスピスに入院していたときのこと。食事が運ばれてきて、父は食べようと箸をつけるのですが、どうしても食べられないのです。それをみて胸が痛みました。食べたくても、食べる気があっても、食べられないこともあるのです。
食事が与えられ、食べることができる幸いを改めて感謝しました。


日ごとの糧というのは、食べ物ともうひとつ、霊の糧という意味もあります。
霊の糧とは、神様の言葉…すなわち聖書のみ言葉です。


聖書が手元にあり、みことばを語ってくれる人がいることのありがたさを覚え、さらに聞く者の耳が開かれて信仰によって受け止めることができるように祈りました。

その次の祈りは、「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました」です。

「負い目」とは、直訳すると「借財」。文語訳では「罪」です。
以下は赦しの5つの条件です。

①赦しは、神がいのちをかけるほどの一大事です。赦さないことは、相手を殺すことです。

②赦しは、本人のためです。
もし、だれかを赦せなければ、その人には生涯喜びがありません。そこから解放してあげたいから赦すようにと神様が言われています。

③赦しは簡単ではありません。
詩編には敵を呪うような言葉がたくさん書かれていますが、ののしる言葉を相手にではなく神に吐き出すことを、神様は許容しています。

④赦しは宣言です。
これからの生き方が、過去に起こったことの意味を変えていきます。
過去に犯してしまった出来事を消すことはできないし、それが残っていく事実は変えられないけれど、その意味が変わることへの期待があります。

⑤赦しは、神がわたしを赦すときの痛みを味わう恵みの時です。
神がどれほど痛みをもって自分のことを赦してくださったかを考える恵みのときとなります。



赦すことは本当に簡単なことではありません。でも、赦さないでいると、赦されない人ではなく、赦さない人の人格が蝕まれていくような気がします。もし、赦すことができたなら、人知を超えた平安が与えられます。

もし、わたしが誰かを赦せないでいても、神様は「赦しました」と宣言してくださいます。赦されるために人を赦すという条件は必要ありません。わたしは、赦されなければ生きていけない者です。

今までたくさんの人の心を傷つけてしまいました。
過去の記憶をたどると、小学生の時のクラスメイト、Sちゃんにひどいことを言ったことを思い出します。今、どこにいるのかわからないので、あやまることすらできません。Sちゃんは、わたしがつけた傷の痛みでいまだに苦しんでいるのかもしれません。その傷つけたという事実は変えられません。でも、その意味が変わる期待とはどういうことでしょう……。
Sちゃんの中で、傷の痛みがやさしさになって誰かを慰めているかもしれないと期待するのです。

そして、神様はわたしを赦すために愛するひとり子のいのちを差し出してくださいました。この世界にこれ以上の痛みはないでしょう。これだけの痛み受けなければ、わたしの罪は赦されなかったのです。

人のことが赦せないと思うとき、この神様の痛みを思い起こしたいです。


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神様バンザーイ!

2013-01-16 17:06:22 | 聖書から
雨と雪以外の日は、毎日30分以上は外を歩くことにしています。道路の雪はもうほとんど消えていましたが、今日は歩いて教会にいってきました。

水曜礼拝では、主の祈りについて学んでいます。(1/10のブログの続きです)

イエス様が教えてくださった主の祈りの最初は「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。(マタイ6:9)」です。

まず神様に天の父よと呼びかけて、そのあと神様をほめたたえる言葉が続きます。心に思うままに祈ると、自分の事や願いばかりになってしまいますね。

「御名(みな)があがめられますように」とは、神の御名を尊いものとされますようにという意味で、「御国(みくに)が来ますように」とは、神の支配が完全に顕されるときがきますようにという意味だそうです。

「みこころが天で行われるように地でも行われますように。」は、天使の祈りといわれていて、神の業が天で行われているように地上でも行われますようにという意味です。

「つまり、神さまバンザーイ」と言っているのですと聞いて、嬉しくなりました。

神様に目を向けるということをヨン様とファンのたとえで語られました。おもしろかったので紹介しますね。


冬のソナタがブームになっていたころ、ヨン様が日本へやってきたとき、大勢のファンが空港で待ち構えていました。ほとんどが中年の主婦だったそうですが……。人々はヨン様がいつ訪れるかと待っています。

やってきたときは、みんなヨン様に目を向けて声援を送り、手を振ったりカメラを向けたりしていました。
ファンの人はそれぞれに家族がいて、いろいろな問題を抱えている人もいたでしょう。でもそのときは、それを忘れてヨン様を見つめていました。誰も隣の人のことを気にする人はいませんでした。

こんなふうに、神様に目を向けるとき、色々な問題があっても忘れ、ほかの人のことも気にならず、ただ神様のすばらしさをほめたたえます。神さまを見て人々は輝くのです。
天のすばらしさにまず浸ること。そうでないと、人と人との問題に巻き込まれてしまいます。


天地を造られ、わたしを造られ、わたしの罪のためにひとり子の命を差し出してくださった神様、バンザーイ!


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よしはよしよしのよし

2013-01-10 16:47:36 | 聖書から
5年半使った愛用のPCウインドウズビスタがいよいよおかしくなってきました。Cドライブ容量が足りないので、ファイルはすべて外付けハードディスクに入れ、可能な限りアンインストールし、ディスククリーンをかけても10%以下になっていました。1/1になぜか容量が増え、7.9まで回復したものの、自動的にインストールされる更新プログラムによって容量がどんどん減ってきています。動作も鈍くて、ひとつのHPを開くのに、ときには3分もかかります。Dドライブ容量は残っているのですから、まだ使えるはずなのに……。

主人用のPC(といっても、ほとんどわたしが使っているのですが)ウインドウズ7に切り替えようと移行させていますが、HPを更新するのに使うFTTPの設定がどうしてもできません。
去年の暮れに娘と息子にもみてもらいましたが、なぜ設定がうまくいかないのかわからないと言うのです。これではお手上げです。

日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)のHPの管理人をさせていただいているので、更新できないとなると、困ってしまいます。

JCPのHPは毎月10日に更新しています。新しいPCではFFFTPが使えないので今回初めてロリポップのFTPで更新を試みました。悪戦苦闘すること3時間。ようやくファイルのアップロードは成功したのですが、画像がどうしてもアップできず、結局古いPCのFFFTPで更新することになりました。古いPCがダウンする前になんとかしなくては……とあせっています。


昨日、水曜礼拝で主の祈りについて学びました。
主の祈りとは、イエス様が弟子たちに教えてくださった祈りの言葉です。

主の祈りは「天におられる私たちの父よ」で始まっています。神様のことを父と呼びなさいとイエス様は言われました。旧約聖書時代には神様のことを天の父と呼ぶ習慣はなかったそうです。

神様のことを「父よ」と呼ぶことができるなんて、何と素晴らしいのでしょう! そんなに親しげに呼べるなんて。

どんなに小さな声でも、心の声をも聴いて下さる神様。祈りに対してすぐに応答がなくても、神様にはしっかり届いているのです。

「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。(マタイ6:8)」とありますが、神様はすでにわたしたちの願いをわかっておられるけれど、求めを言葉に出して言うことが必要だと聞いて、祈りの本質を教えられました。

創世記に、神様が天と地を創造したことが書かれていますが、ひとつひとつに「よしとされた」と書かれています。神様がわたしたち人間を造った時もよしとされました。

その「よし」は、『完成しました。だから、あとはほおっておいても大丈夫』という意味ではなく、神様がこれからもずっとかかわっていくという意味です。そして、「よし」というのは、赤ちゃんを抱っこして「よしよし」と愛することを意味しますと牧師先生が言われるのを聞いて胸が篤くなりました。

祈りは、心を天に向けるとき、神を呼ぶときです。「わたしを呼べ」と言って下さる神様を一日に何度でも呼びたいです。


日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しましたのでごらんください。


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救われるってどういうこと?(その2)

2012-12-11 21:57:43 | 聖書から

昨日に続いて、イエス様を信じたわたしの心に起こった変化について書いています。


⑥自分の力で人生を切り開いていくという思いから、神様に力をいただいて何かをしようと思うようになる。

自分の力で勝ち取っていくこと。一生懸命頑張ることがすばらしいとする考えが世間にはあります。確かに努力して勝ち取ることができることもあります。
けれども自分の力ではどうしようもなくなるときがあります。たとえば病気をしたり、思わぬ事故にあったり……また、老いて体力に限界がきたり……やる気があっても、努力しようと思っても、どうしようもないことがあり、そのようなとき、自分の力だけでやってきた人は挫折してしまうかもしれません。

でも、神様にたよる人は、どんな困難なことが起きても絶望しません。困難をマイナスではなくプラスにしてしまうのです。
そして何かを成し遂げて人々から称賛されても、神様の力によってできたことなので誇ることがありません。

⑦心配しすぎて自分を見失うことがない。
心配がなくなるわけではありません。心配はします。でも、神様が助けてくださると信じているのできっと大丈夫と思えるのです。

「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります(マタイ6:34)」

⑧神様が一緒にいてくださることを実感して平安が与えられる。
不安で胸がざわざわすることもあります。恐れに取りつかれて臆病になってしまうことがあります。そういうときは、神様が共におられることを忘れているときです。

聖書には恐れるなと何度も書かれています。
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから(イザヤ41:10)」
この聖書の言葉を読むと、神様が一緒にいてくださるのだから、すべておまかせしていたらいいのだというところに落ち着いて、心が安らかになります。

「何事も思い煩らわないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなた方の願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安があなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます(ピリピ4:6,7)」

人のすべての考えにまさる神の平安が与えられたとき、それは天国にいるような気持ちです。そのようなとき『天国の前味をあじわう』と言うのだそうです。

イエス様を信じてわたしのうえに起こった変化はまだまだありますが、書ききれないのでこのへんで終わります。

もともと臆病で神経質で、消極的で悲観主義だったわたしでした。それがすべて逆になってきたのですから、自分でも驚いています。

このことを『救い』とは言いませんが、別の意味で心が救われたと言ってもいいのではないでしょうか。もし、わたしが以前のままの心でいたら、乳がんになったとき、心配のあまり別な病気になっていたと思います。それ以前に、色々な心配事、思い煩いで押しつぶされて死んでしまっていたかもしれません。
わたしは、イエス様を信じて命を助けられたのです。

「彼に信頼する者は、決して失望させられることがない(Ⅰペテロ2:6)」というのは本当だと実感しています。

                        おわり


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救われるってどういうこと?(その1)

2012-12-10 16:42:57 | 聖書から
「イエス様を信じて救われるというのは、罪が赦されて、死んだら天国に行くという事だけなのでしょうか?」
という質問をいただきました。

死んでから天国で幸せに過ごせると言われてもピンときませんよね。それより、今の現実で救われたい、苦しみから解放されたいと思いますよね。

状況はともあれ、イエス様を信じると、信じた人の心が変化します。どのように変化するのでしょう……。
わたしの心に起こった変化を書きますね。わたしの場合、洗礼を受けてから急に変化したのではなく、徐々にですが……。

①まず、色々なことに囚われなくなります。
自分では気づかなくてもわたしたちは色々なことに囚われていますね。
たとえば大安とか仏滅。友引にお葬式をしてはいけないとか、仏滅には結婚式をしないとか……。方角が悪いとか、年回りが悪いとか……。
でもそれは根拠のないことですから、多くのクリスチャンは気にしません。かえってすいている仏滅に結婚式をしたりします。すべてのクリスチャンはと書かなかったのは、クリスチャンといっても色々な人がいて、囚われから解放されていない人もいるからです。

②人のうわさや世間体を気にしなくなります。
人のうわさや、人に自分がどう評価されているか気にならなくなります。
わたしはかつて人のうわさを気にしすぎて円形脱毛症や胃にポリープできたことがありました。

③心がイエス様がしてくださったこと(このことについてはこの前(11月26日)のブログで書いたのでここでは詳しく書きません)の喜びにあふれ、辛いことや悲しいことがあってもそれに押しつぶされてしまうことがなくなります。

④自分の価値がわかります。イザヤ書43:4には「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と書かれています。わたしとは神様のこと、あなたとは自分のことです。

自分は生きる価値のない者だと思っていたのですが、この聖書の言葉に出会って価値観が変わりました。高価で尊いと言ってくださる方がおられると知って、どれだけ救われたでしょうか。劣等感からも解放されたのです。

⑤憎しみから解放されます。嫌いな人、どうしても受け入れられない人、赦せない人がいました。どうしたら赦せるのかわかりませんでした。ところが、この人のためにもイエス様が十字架にかかって死んでくださったこと、神様はこの人のことをも愛しておられるのだと知ったとき、憎しみが少しずつ溶けてなくなっていきました。

人を憎むことはエネルギーがいります。そのエネルギーを憎しみに費やすのではなく、神様に喜ばれることのために使うことができたらいいですね。

                                  つづく


日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。


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