goo blog サービス終了のお知らせ 

生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

罪のためとはどういうこと?(その5)

2012-11-28 21:01:11 | 聖書から
なぜイエス様が十字架につけられて死んだのかわかったけれど……、それは2千年も前の話。しかもイスラエルという国での出来事。自分とどういう関わりがあるの? と思われた方もあるでしょう。

わたしも最初、十字架の話を聞いたとき、遠い昔の遠い国の出来事で自分と関わりがあるなんてとても思えませんでした。

だいいち、わたしは自分が罪びとと呼ばれるような悪い事をした覚えはないと思っていました。自分は人一倍繊細で傷つきやすい性格だから、色々な人から傷つけられてきた。意地悪もされた。……と被害者意識を抱き、わたし自身が人を傷つけることがあるとは思いもしませんでした。

また、自分の考えはいつも正しいと思っていました。友人や両親と議論して、口では言い負かされても、『でも、わたしは正しい』と心の中では思っていました。

そんなわたしが、『自分は間違っているかもしれない』と思ったのは、三浦綾子の小説「積木の箱」を読んだ時でした。HP「生かされて…土筆文香」のエッセイの部屋「心のすき間が埋められて1」に書いていますので、ここでは詳しく書きませんが、小説を読んだとき、このままではいけない、わたしは教会に行かないとダメになると思って教会の門をくぐりました。
三浦綾子さんが祈りをこめて書いた小説のうえに神様が働いて、読者のわたしの目を開かせ、罪の自覚をするようにしてくださったのです。

罪に気づきはじめると、思い当たることはいくらでも出てきます。
アダムとエバが罪を犯して以来、人間は罪を犯すようになったことを最初に書きましたが、たとえアダムとエバが罪を犯さなくても、エデンの園にわたしがいたら、やはり実を食べてしまったような気がします。禁止されるとやってみたくなるという、どうしようもない思いを持っていることに気づかされます。

友人が悲しんでいるときは同情するけれど、何もかもうまくいって喜んでいるときは一緒に喜ぶことができなくて、羨ましいと嫉妬してしまう……。

自分のことを棚に上げて、人の悪口を言ってしまう……。人の成功を喜ばずに失敗を喜んでしまう。
そんな自分を顧みると、生まれてから今までの間、どれだけ多くの罪を犯してきたことかと思います。気づかずに犯した罪もあるのですから、それらを目の前に並べられたら恐ろしくなります。

罪のために苦しんでいたわたしは、洗礼を受ければこれまでの罪が赦されると知って、教会へ通って半年ほどしたクリスマスに洗礼を受けました。
信仰の学びもせず、聖書もろくに読まず、クリスマス礼拝の当日の朝、受けると決めて受洗したのでした。

わたしは洗礼を受けたらもう罪を犯さない者になると誤解していたので、洗礼を受けてからも罪を犯し続けることに苦しみました。
十字架の赦しとは、洗礼を受ける前の罪も後の罪も、これから犯す未来の罪に対しても有効なのですが、そのことが理解できていなかったわたしは、教会を離れてしまいます。

でも、神様は、また戻ってくるようにしてくださいました。そして、新しく通い始めた教会で真理を教えていただいたのです。人は洗礼を受けてからでも罪を犯すのです。罪の自覚ができているので、洗礼を受けた後のほうがかえってたくさん罪を犯しているように感じるようになります。でも、そのつど心から悔い改めて祈れば、その罪をイエス様は赦して下さいます。自分の罪がわかればわかるほど、赦されたことの喜びも大きくなります。

罪が増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。(ローマ5:20)

本当はわたしが罪のために死ななければならなかったのです。でも、イエス様が代わってくださったのだと心から思いました。
なぜそこまでしてくださったのでしょう?

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

この聖書の言葉の「世」という字の代わりに自分の名前を入れて読むと神様の愛がわかります。
神様の熱心、神様の圧倒的な愛を感じます。

ご自分のひとり子を差し出すまでしてわたしのことを愛して下さった神様。わたしはこの神様の愛に感動し続けているので、心は喜びでいっぱいです。だから、辛いことや悲しいことがあっても、この喜びに呑み込まれてしまうのです。

新しい歌を主に歌え。主は、奇しいわざをなさった。(詩編98:1)

最後まで読んでくださってありがとうございました。まだ書き足りない気がしますが、いちおう終わります。     


                        おわり

罪のためとはどういうこと?(その4)

2012-11-26 12:30:54 | 聖書から

前回の続きです。

イエス様は、イエスを陥れて死刑にしようとたくらんでいる人たちによって捕えられ、神への冒涜罪として十字架刑が言い渡されました。
十字架刑とは、最も残酷な死刑のやりかたで、極悪な犯罪人がつけられるものでした。

イエス様は何の悪いこともしていないのに……。こんな理不尽なことがあるでしょうか。
イエス様は全能の神様ですから、十字架につけようとしている人たちをいっぺんに滅ぼしてしまうこともできました。十字架から降りて助かることもできました。でも、そうなさらなかったのです。

黙って十字架の苦しみに耐えました。それは、わたしたちひとりひとりをものすごく愛しておられるからです。

わたしたちを造られた神様は、わたしたちの魂が罪のために滅びてしまうことが辛くてたまらないのです。それなら罰を与えるのをやめて、罪を犯しても「いいよ。いいよ」と赦したらいいのに……と思う方がおられるかもしれませんね。

でも、神様はきよいお方です。罪の問題をそのままにすることはできないのです。それで、罪を犯した人間に罰を与える代わりにご自分のひとり子イエス様に罰を与えました。その罰というのが、十字架の苦しみを受けて死ぬということでした。

親が子どものために犠牲になる話はよく聞きますが、親が子どものいのちを差し出すなんてこと、あるのでしょうか……。あったのです。

神様は、わが子に対して痛みや悲しみを感じないのでしょうか? いいえ、感じすぎるほど感じておられたと思います。愛するわが子が十字架につけられているとき、神様はどれだけ悲しかったでしょう……胸が引き裂かれる思いだったでしょう。

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか(マルコ15:34)」とイエス様が言ったときも、助けの手を差し伸べず沈黙していなければならなかった神様の思いを想像してみてください。

神様に見捨てられることほどつらいことはありません。十字架上でイエス様は神様に見捨てられるという経験をしました。
そのおかげでわたしたちは決して神様から見捨てられることがなくなりました。

イエス様は死にましたが、死んで終わりではありませんでした。3日後に墓からよみがえられたのです。多くの人たちが復活のイエス様に出会っています。
そのあと、イエス様は天に昇って行かれました。

イエス様のしてくださったことによって、わたしたちはイエス様を信じるだけで、罪が赦され、永遠のいのちをいただけるようになりました。

                  つづく



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。


罪のためとはどういうこと?(その3)

2012-11-22 17:11:27 | 聖書から
待ちに待った救い主が誕生するのですから、全世界が光に包まれるとか、大音響が鳴り響くとか……世界中の人がびっくりするほどのことが起きてもいいと思います。

でも、誕生の知らせを告げる天使の歌声を聞いたのは、ベツレヘムの野原で羊の番をしていた羊飼いたちだけでした。

羊飼いの仕事は、卑しい仕事であるとみなされ、社会から疎外されていました。神様はそのような人たちにまず救い主誕生を知らせたのです。

マリヤが臨月を迎えたとき、マリヤとヨセフは住民登録のため、ナザレの町からベツレヘムへ旅をしなければならなくなりました。ベツレヘムで宿に泊まろうとしたのですが、宿はどこもいっぱいで泊まるところがありませんでした。それで家畜小屋に泊まったのです。その夜、救い主が誕生しました。

もし、彼らが救い主の両親になる人たちとわかっていたら、宿屋の主人はほかの客を追い出しても部屋を開けたでしょうね。

イエス様が家畜小屋という最低なところで生まれたのはなぜでしょう……。それは、イエス様がいちばんに貧しい人たち、しいたげられた人たちに救いの手をさしのべることを意味するのだそうです。

さて、イエス様は大工の息子として育ちますが、30歳を少し過ぎたころ、人々に神様のことを伝え始めます。神の国のことを話し、多くの人を癒し、奇跡を起こされます。
奇跡は、イエス様が全知全能であり、まことの神様だということを示すために起こされたのです。

人々は、押し迫るようにしてイエス様のところへやってきました。イエス様がエルサレムに入城されるときは、人々はシュロの葉を振って「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。(ヨハネ12:13)」と叫びました。

ところが、そのとき叫んだ群衆が、後にイエス様を「十字架につけろ」と叫ぶようになるのです。人々はなぜ心変わりしたのでしょうか。

当時、ユダヤの国はローマ帝国の支配下にありました。王の王と預言されていたイエス様がイスラエルの王様となって、ローマの圧政から救い出してくれることを多くのユダヤ人たちは望んでいました。

でも、イエス様は、貧しくてしいたげられている人や、病に苦しむ人などに目を留めて語りかけ、癒しの奇跡を行っていました。

ローマ帝国を滅ぼしたり、人々の暮らしを良くしたり……そのようなことはなさいませんでした。人々は、いつまでたっても王となろうとしないイエス様にがっかりしました。

イエス様が地上に来られた目的は、地上で王になることではありませんでした。人々の罪を赦し、人々に永遠のいのちを与えるために十字架にかかって死ぬことでした。

イエス様はご自分がもうすぐ十字架で死を遂げることを弟子たちに話しますが、弟子達でさえ理解することができませんでした。
                    つづく


まだ続きますが、明日から実家に行きますのでしばらく更新ができません。この続きは来週になります。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。


罪のためとはどういうこと?(その2)

2012-11-21 20:51:49 | 聖書から

昨日の続きです。

救済とは何のことでしょう?
それは、魂の救いです。人間の肉体が死を迎えたとき、神様は新しいからだを用意し、天国で永遠に生きられようにしてくださいます。このことが「救い」です。つまり、神様は、罪のために滅びようとしている人間に永遠のいのちを与えて下さろうとしているのです。

どういう方法で与えられるのでしょう。
旧約聖書の時代は、礼拝をするとき、神様にいけにえをささげていました。祭司が動物を殺して祭壇のうえで動物を焼くのです。

ローマ6章23節に「罪から来る報酬は死です。」と書かれています。
罪を犯したら、死ななければならないので、動物を身代わりにして殺していました。そうすれば、罪を犯しても死ななくて済むということです。でも、それは不完全でした。

旧約聖書のレビ記には、このいけにえをささげるやり方が、こと細かく書かれています。なぜこんなに同じようなことが詳しく繰り返し書かれているんだろう……と、読んでいてうんざりする人もいるでしょう。でも、それは大切なことでした。
後にイエス・キリストが人類の罪のために十字架に架けられて身代わりの死を遂げる意味の大きさ、深さをあらわしているのだと思います。
「罪から来る報酬は死です。」の次に「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト。イエスにある永遠のいのちです。」と書かれています。

さて、救い主、イエス様が生まれるのは、アダムとエバの時代から何千年もたってからでした。その間に神様は何度も救い主がイスラエル人の中から生まれることを知らせています。預言者といって神様の言葉を伝える人が時代時代で与えられ、聖書にしるしてています。
たとえば、旧約聖書イザヤ書9:6には「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。」と書かれていますが、これはイエス様誕生の約700年前に書かれたものです。

そして、ついに救い主が誕生するのです。
クリスマスの物語は誰でも知っていると思っていたら、友人に「クリスマスって、イエスキリストが死んだ日? それとも生まれた日?」
と聞かれてびっくりしました。もちろん生まれた日です。12月25日となっていますが、実際の日にちは明らかではありません。

でも、寒い夜だったような気がします。ユダヤの人たちは、旧約聖書(当時は巻物)をよく読んでいました。父親が家族に読み聞かせたり、子どもたちに暗唱させたりしていたようです。

なので、ユダヤ人の多くは救い主が生まれるのを待ち望んでいました。でも、いつ生まれるかは誰も知りませんでした。
救い主がいつか誕生することを知っていても、神さまのひとり子がひとりの貧しい娘のお腹に与えられ、しかも家畜小屋で生まれるなんて、誰が想像したでしょうか。神様の子どもだから王宮で生まれ、ふかふかのベッドに寝かされるのだろうと思った人が多かったでしょう。

       つづく



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

罪のためとはどういうこと?(その1)

2012-11-20 21:24:59 | 聖書から

「イエス様は何の罪のために死なれたのでしょう。」という質問がありましたので、今日は人類最初の罪について書きますね。


旧約聖書創世記1:1に「初めに、神が天と地を創造した」と書かれているように、神様は天と地とその中にあるすべてのものを造られました。

闇がおおっているだけの世界だったのに神様が「光よ。あれ。」と言ったら光ができたのです。何の材料もないのに言葉だけで造り出すことのできる神様って、すごいですね。

神様は天と地、植物、月、星、太陽を造り、海と空の生き物、動物を造って、最後に人間(アダムとエバ)を造られ、よしとされました。
 
神様は、エデンの園で人間が神様と一緒に永遠に生きられるようにしてくださったのです。神様は、アダムとエバに園のどの木の実でも食べてもいいけれど、善悪の知識の木の実だけは食べてはいけないと禁止されました。

ところがアダムとエバは禁止されている実を食べてしまいます。しかも、それがみつかるとアダムはエバのせいにし、エバは蛇のせいにしてしまいます。

このとき、ふたりが心からあやまれば、神様はきっと赦してくれたでしょう。でも、あやまらなかったのですね。

そのときから人類は罪を犯すようになったと言われています。(生まれながらの罪を原罪といいます。)

神様はなぜ禁止事項を作ったの? 禁止事項がなければ罪を犯すこともなかったのに……。と思う人や、神様は人間が悪いことをしないように造ったらよかったのに……。と思う方がいるでしょう。

神様はロボットのように人間の心を操作し、従うようにさせたいとは思われなかったのでしょう。人間に自由意思を与え、神様ご自身と人格的な交わりをしたいと思われたのでは……とわたしは考えています。してはいけないことをあえて作って、いいつけを守るか守らないかは人間の自由意思で選択するようにさせたのだと思います。

悪いのはアダムとエバだ! 自分と何の関係があるの? と思われた方もいると思います。
まず、それは置いておいて、続きを読んで下さい。

アダムとエバは罪を犯したため、エデンの園から追い出されてしまいます。そして人は誰でも死ぬことになってしまいました。
神様はエデンの園を出て行くふたりに皮の衣を作って着せて下さいます。この皮の衣は、イエス・キリストをあらわすのだそうです。

アダムとエバがエデンの園を出ていくとき、すでに神様は人類を救済する計画をたてておられたということになります。  

                            つづく



日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。ニュースレターとクリスマス童話をアップしました。また、わたしのエッセイは作品(毎月更新)をクリックし、エッセイ(花鳥風月)をクリックすると出てきます。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

運命と宿命

2012-11-10 18:23:22 | 聖書から
10月はほとんど自分の時間がとれなかったので、しなければならないことが山積になり、ブログ更新が滞りがちです。

今日は、子ども家庭集会でOさん宅に行ってきました。5人の子どもが集まりました。
I先生とお話しとゲームを交代で担当しています。今日はI先生が放蕩息子のお話を現代版にして話してくださいました。
今日は特別にO長老が落語もしてくださいました。身振り手振りを交えて表情豊かに話されるので、ストーリーを理解することのできない小さい子どもたちにも大うけで、笑い転げていました。
来月はクリスマス会です。パネルシアターの準備をしなければ……。


先日「キリスト教では、運命とか宿命についてどう捉えているのですか?」 と尋ねられました。

『運命とか宿命は、定まっているので変えることはできませんよね。(献金をしておはらいを受ければ変わるという宗教もありますが……)
キリスト教には、運命、宿命という考え方はありません。将来起こることは、神様の御手の中にあるのですが、最初から決まっているわけではありません。
祈りによって神様とコミュニケーションをとっていく中で、神様がその人に最もよいことをしてくださると、私は信じています。』
と答えましたが、もう少し詳しく書いてみますね。

もし、人の運命が生まれた時から決まっていたらどうでしょう。たとえば、頭が良くて一流大学に入り、一流企業に就職するけれど、交通事故にあって若くして死んでしまうという運命だったらどうでしょう……。もしそれが子どもの時にわかってしまったら、意欲が失われてしまいますよね。

乳がんで入院していたとき、癌病棟の人たちは物静かでした。きつい副作用のある抗がん剤治療を受けていても、じっと耐えていました。
「わたしは癌になる運命だったんでしょう。仕方ないってあきらめているの」と言っていました。

人の運命が決まっていて、それが過酷なものだったら、あきらめるしかないのでしょうか……。
まだイエス・キリストを知らないとき、「わたしは不幸な星のもとに生まれたんだ」と思っていました。

ところが、教会に通いはじめたころ、
「人の運命は決まっていません。悪いことが起きたとしても、それが実は悪いことではなかったと後から思えることがあります。また、将来予定されていることを神様が変えてくださることもあります」と聞いて驚きました。

昔、ユダヤにヒゼキヤという王様がいました。ヒゼキヤは病の床にあって、神様からもう助からないといわれました。もう少し生きられるようにしてくださいと祈ると、「あと15年寿命を延ばそう」と言ってくれ、病を癒してくれました。(旧約聖書Ⅱ列王記20章に書かれています)

死の時期は、神様が定めてくださいますが、神様はいったん決めた時期をも変更してくださることがあるのです。
もちろん、誰もが死の床でそのように祈ったら15年寿命が延びるわけではありません。
人によって神様のお取り扱いが違うからです。

わたしは、乳がんになったとき、10年生存確率があまりにも低いことを知って、死を覚悟しました。わたしと同じ時期に乳がんになり、同じような症状だった人が転移して最近亡くなったことを知り、ショックを受けました。もしかしたら、わたしはもっと早く死ぬ予定だったのかもしれません。でも、神様の計画の中で生かされています。



今日は日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)のホームページを更新しました。わたしの作品も掲載されています。ぜひご覧ください。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。







性善説と性悪説

2012-10-10 16:31:12 | 聖書から
わたしの足である自転車の調子が悪くてメンテナンスしてもらいました。すると、すこぶる調子がよくなって、郵便局から教会まで(約2キロメートル)を7分で走りました。

秋晴れのいい季節、桜川の土手を走るのは爽快です。着いたら汗びっしょりでしたが……。
日曜に家に戻ってきたときは、とても疲れていたのですが、2日間で疲れが癒されるとは……。わたしにとっては驚異的なことです。主に感謝しました。

水曜礼拝で、宗教は性善説か性悪説、どちらかで人間を見ようとします。聖書は何と言っているでしょうか? と質問がありました。

聖書には、「すべての人は罪を犯したので……」と書かれているから性悪説かな?……。いや、創世記には神様は人をお造りになり、「それは非常に良かった」とおっしゃったから、性善説かな?
と首をかしげていると、「聖書はその両方を同時に教えています」と聞いて納得しました。

神様は人を良きものとして造られました。でも、ロボットのように良いことしかできないようにされたのではありません。神様は人に自由意思を与えてくださったのです。

最初の人間、アダムとエバはエデンの園で何不自由なく暮らしていましたが、神様が唯一食べることを禁じていた木の実を食べてしまいました。アダムとエバが罪を犯したことにより、人間は生まれつき罪の性質をもつようになったのです。

人間は神によって造られたので、神に仕え、礼拝し、奉仕します。人間は神様に従って生きる存在です。

また、人間は神のかたちに造られたと聖書に書かれていますが、『かたち』というのは見た目ではなくて、性質のことです。知・情・意をいただき、判断力、創造力をいただきました。
つまり、人は自分で考え、選択して生きることができるように造られたのです。

ですから、人間は100%神に従うと同時に100%自由なのです。
自由を乱用するのではなく、正しく用いることが大切です。自分が与えられている賜物を知っている人は、もっともふさわしいかたちで用いることができます。


「兄弟たち、あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛を持って互いに仕えなさい。(ガラテヤ5:13)」


ウエストミンスターの教理問答に「人間の主な目的は何か」というのがあります。
答えは「人間の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶこと」です。

とレジュメに書かれていたのを見て、30年ほど前、信仰入門の学びでこの答えを聞いたとき目が開かれた気がしたことを思い出しました。

神様の栄光をあらわすこと、神を喜ぶこと、このことのために生かされているのだと改めて肝に銘じました。



日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)のHP更新しました。

また、日本クリスチャン・ペンクラブから新しく本が出版されました。(上の写真がその本です)本の題名は『喜怒哀楽』です。
『喜』・『怒』・『哀』・『楽』のテーマで、書かれている400字のエッセイ。それに加えて、「私と東日本大震災』『私とJCP』『私と聖書の言葉』の800字エッセイが収められています。私は7作品書いています。JCPのホームページから購入できます。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

本当の幸せとは

2012-10-02 20:02:20 | 聖書から
幸せとは、満たされた状態をいうのだそうです。
やりたいことをやりたいときにして、欲しいものを手に入れ、おいしいものをたらふく食べられる状況のとき、幸せというのでしょうか?

物質的には満たされても、精神的に貧しくなっていないでしょうか……。
欲求したものがすぐに与えられたら、次々求め、そのうち求めることもなくなって、むなしくならないでしょうか……。

先日の礼拝で「わたしたちは、全世界より大切なものをすでにいただいているのに何かあると、揺るがされています。」と聞いて、その通りだと思いました。

不都合なことがあると、どうして自分は不幸せなんだろう……なんとかこの状況から脱出して幸せになりたいなどと思ってしまいます。
でも、すでに大切なものを神様からいただいているのです。

全世界より大切なもの、最良なものとは何でしょう……。

イエス・キリストによる救いです。罪のために滅びるしかなかったわたしたちですが、イエスさまは、わたしたちの代わりに罰を受けて下さいました。それが十字架です。イエスさまが十字架にかかって死んでくださったおかげで、わたしたちは神さまから罰を受けなくてすむようになりました。無条件で罪赦され、永遠の命をいただいたのです。

本当の幸せとは、最良なものが既に与えられていることを感謝して、神様の近くにいることを喜ぶことです。欲求が満たされなくても、物質的に乏しくても、神様が共にいて下さるなら、心から幸せといえます。

聖書の詩編73:28には
「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。」と書かれています。

わたしは身体的な弱さを抱えています。それは治りませんが、あなたは幸せですか?と聞かれたら「はい」と大きな声で答えます。神の近くにいるからです。

一昨日は教会で5人の方が洗礼を受けました。受洗した人たちは本当の幸せを味わっていることでしょう。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

苦しみに終わりの時はあるのでしょうか・・・・・・

2012-09-22 11:53:55 | 聖書から
昨日はOさん宅での先生不在の家庭集会でした。
教会で葬儀が入って先生方の都合がつかず、中止にしようとも思ったのですが、この日のために仕事の休みをとり、参加を心待ちにしている人たちがいるので、通常通り行うことにしました。

家庭集会では、まずインターネット放送で福島第一聖書バプテスト教会の佐藤彰先生のメッセージ(1/15『新年のご計画』)を聞きました。

福島第一聖書バプテスト教会は、原発にいちばん近い教会です。HPをごらんください。


エレミヤ29:10-14からのメッセージは、希望のメッセージでした。

北イスラエルはバビロニア帝国に滅ぼされ、人々は捕えられて異国に連れて行かれます。そのとき、預言者(神様の言葉を伝える人)エレミヤは、70年たったら故郷に帰ることができると伝えます。
すぐにでも解放されて国に帰りたかった人たちは、エレミヤを責め、殺そうとさえします。
エレミヤは悲しみ、苦しみながらも神様の言葉を伝え続けます。


エレミヤの語るメッセージは、現代を生きるわたしたちにも語りかけられているのだなあと思いました。

聖書には次のように書かれています「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。-主の御告げ。ーそれは、わざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(エレミヤ29:11)」

「苦しみには必ず終わりの時があり、その時を神様が定めておられます。悲しいけれど希望と将来があります。神様はわたしたちに幸せの計画を持っておられます。いつくしみの計画をもっておられます。いつくしみ深い計画が待ち受けているのです。神様は約束を果たされる時を備えて下さっています。」と聞いて、胸が篤くなりました。

わたしは喘息が毎年悪化していったとき、生きているのが辛くなりました。いつまでこんな苦しみが続くのですか? 一生苦しむのなら、今すぐいのちを取り去ってくださいと祈ったほどでした。

そのときはわかりませんでしたが、そのあとすぐ予防薬によってもうひどい発作で苦しむことがなくなったのでした。

苦しみの渦中にいるときは、わかりません。終わりがないと思って絶望してしまうのです。

でも、神様はわたしたちを無駄に苦しめるために試練を与えるのではありません。神様はわたしたちのことをとても愛し、大切に思っておられるので、苦しみの中にも希望と将来を与え、苦しみが終わる時を定めて下さっているのです。このことを改めて思い、感謝しました。

インターネット放送を視聴したあと、F姉の信仰のあかしを聴き、ひとりひとりが感想をのべました。皆が神様をほめたたえることを話したので、主の栄光が満ちあふれた気がしました。先生はおられなかったけれど、イエス様が集会の真ん中におられ、喜んでくださったことと思います。
その後、おいしい食事をいただきながら楽しく語りあいました。

福島第一バプテスト教会の方々のために、新会堂建設のために祈りつつ。




にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

よくなりたいか

2012-06-29 16:44:06 | 聖書から
昨日は日本クリスチャン・ペンクラブ、童話エッセイの会で御茶ノ水まで行ってきました。その前の日は都内の実家に泊まりました。

明日は昼から夜8時までCS教師研修会、来週はOBIのサマー・スクーリングに出かけます。
わたしが夕飯を作れない日が多いので、主人と娘に分担してもらいました。(お弁当を買う日や主人と娘で外食という日もあります)


新約聖書ヨハネの福音書5章には次のようなことが書かれています。

エルサレムにあるベテスダの池には、多くの病人が集まっていました。(み使いによって水がかき回されたとき最初にとび込んだ人は病気が治るという伝説があったからです。)そこに38年間も病気の人がいました。この人には友達がいなかったようで、いくら池の水が動いたとわかっても、いちばんに池にとびこむことができませんでした。

その人のところにイエス様は来て下さいました。イエス様はその人に「よくなりたいか」と尋ねます。38年も患っている人に対してそのように尋ねるとは、酷ではないかと思いました。なぜそのような質問をイエス様がされたのか……。ずっと疑問でした。聖書学者たちがどのように解釈しているか調べていました。


・メリル・テニイ
「イエスが「よくなりたいか」と言われたのは、病気を癒してもらおうという意志を持っているかどうか尋ね、この人の内なる心をしらべるためだった。」『新約聖書注解 ヨハネによる福音書』(聖書刊行会)

・CL・アレン
「イエスがこの病人に「なおりたいのか」と尋ねたのは本当によくなりたいのかという意味で重要な質問である。キリストのこの質問は、いやしの可能性があることを意味している。』『イエスの奇跡物語講解」 (聖文舎)

・カルヴァン
「イエスが「よくなりたいか」と尋ねたとき、この病人は自分の考えに従って、神の限界づけをしていた。しかし、キリストは彼の不完全さを多目にみている。」『カルヴァン新約聖書注解 ヨハネ福音書上」(新教出版社)


24日の礼拝では、「よくなりたいか」というのは「文字通りの質問ではない」と牧師先生が言われました。イエス様は病人を見て、彼が長く病んでいるのを知っていました。よくなりたいと思っていることは確かです。

でも病人は的外れな答えをします。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。(ヨハネ5:7)」と、自分のみじめな境遇をしみじみ訴えたのです。
イエス様は病人の答えにかかわらず癒しています。

「イエス様が質問したわけは、病人の悩みを聞き、心の痛みに触れるためだった」と牧師先生が語られたとき、わたしは涙があふれました。聖書学者たちの書いたことより心にぴたっときたのです。

病を抱えている人は、病気自体の苦しみに加え、精神的な苦しみも、心の傷も抱えていて、健康な人には理解してもらえない悲しみ、言葉にならないうめきのようなものがあるのです。その悩みを聞いてほしい、理解してほしいと求めているのです。
イエス様は、病人が心の悩みを訴えることを求めて、あえてそのような質問をされたのですね。

イエス様は、悩みを見、叫びを聞き、痛みを知るために来て下さいました。(前回書いたティータイムのお話しとつながっています)



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

「悪魔の手紙」から

2012-05-11 21:16:28 | 聖書から
昨日は我が家での家庭集会でしたが、午後から雲行きがあやしくなってきたので皆さん早く帰りました。

そのあとしばらくしてひどい雷雨。「雨が降る前に家に着いたよ」とメンバーのひとりから電話がかかってきてほっとしました。

家庭集会の学びは、ナルニアの作者、CSルイスの「悪魔の手紙」からでした。以前読んだことがあったのですが、すっかり内容を忘れていました。

年老いた悪魔のスクルーテイプが、甥の新人悪魔ワームウッドへ送った手紙の形式をとっている小説です。第一信の内容は、人間をクリスチャンにさせないようにするための助言です。つまり、クリスチャンとは逆の立場からみているわけです。

最初は意味がわからなくて混乱しましたが、小説として読むとおもしろく、的を得ていることがたくさん書かれています。

小説の中では、悪魔の担当する人間を『患者』呼び、イエスキリストのことを『敵』と呼んでいます。

悪魔は「論証は困る」と書いています。論じることによって、理性が目を覚ますからで、理性が目を覚ますと、神を知ることになるからです。

ベンハーの作者ルー・ウォーレスは、神はいないと論証しようとしているうちにクリスチャンになったそうです。

また、「「真の」とはどういう意味か問わせないようにしなさい。」と書かれています。
真理がどうか問わせると、神に行きついてしまうからだそうです。

悪魔というと、見るからに恐ろしい姿をし、ものすごい力を持っていると考えがちです。わたしも、以前は悪魔が恐ろしくてなりませんでした。

でも、実際悪魔は、恐ろしい顔をして出てくるのではなく、親しみをこめて何でも共感してくれる親しい友のような顔をして現れます。そして、「祈ったってしょうがないよ」「あきらめることだね」「聖書読むよりほかのことしたほうが楽しいよ」などと心の中にささやいて誘惑をしかけてくるのです。

わたしは創作活動をしていると「こんな小説書いたって誰も読んでくれないよ。時間の無駄だ」という声がよく聞こえてきます。

でも、悪魔の力が強いといっても、神様の力には勝てません。悪魔は神様の許される範囲でしか行動できないからです。

悪魔の手紙の中で『祈りの言葉や神さまの応答については、悪魔は知ることができない。』と書かれていたのは興味深いことです。

神様に祈り、神様が応答して下さるとき、その中に悪魔は入って来ることができないのです。

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。(エペソ6:11)」

「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(エペソ6:18)」


18節の中で「祈り」という言葉3回も書かれているところに注目させられました。祈りこそ悪魔の入るすきを与えない強力な武器なのですね。


追記:日本クリスチャンペンクラブのHP更新しました。ぜひご覧ください。




にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

聖書の世界が3D映像で

2012-04-27 15:28:36 | 聖書から
水曜礼拝の前(10:00~10:30)に、聖書輪読会をしていました。小グループのメンバーが集まって、1回に1章を輪読し、感想や受けた恵みなどを話します。輪読会は10年以上続いていて、これまでに新約聖書2回通読し、旧約聖書は出エジプト記32章まで読み進みました。月に2回ほどしかできないこともあり、実にゆっくりとした進みです。

この10年の間にメンバーも変わり、今は3人だけです。わたしは発起人ではありませんが、第2回目からずっと参加しています。

3人のメンバーの1人が朝の時間参加できなくなり、もうひとりは奉仕が入って月に2回しか参加できなくなったので、思い切って月に1度ですが、午後にすることにしました。(回数は増える可能性あり)
水曜礼拝の後、楽しく語らいながらお弁当を食べ、そのあと輪読会です。

一昨日、初めて午後の輪読会を開きました。いつもは1章だけですが、時間があったので3章も読みました。

いつも不思議に思うことは、聖書をひとりで読んでいるときには気づかないことや、感じられないことが、ふたり以上で読むと何倍にも感じられることです。

神様がシナイ山に降りてこられたとき、「山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震えあがった。(出エジプト19:16)」と書かれ、そのとき全山が激しく震えたというのを読んで、山の轟と角笛の響きが聞こえ、煙の立ち上るシナイ山が見えたような気がしました。しかも3D映像で。すごい迫力でしたよ。

こんな体験をすると、どんな困難があっても輪読会を続けたいという気持ちになります。

今読んでいる箇所は、シナイ山でモーセが神様から石の板に書かれた十戒を受けるところです。
シナイ山で神様から十戒を受けたモーセが山を下りていくと、人々はアロンに金の子牛を作らせ、それを神として拝んでいました。
神様がいちばん忌み嫌われる偶像礼拝をしていたのです。

32章を読んだ感想を3人で語り合いました。

「どうしてイスラエルの民は待てなかったんだろうね」
「モーセは40日間も山へ登ったままだったのよ。」
「40日って長いよね。モーセが40日後にもどってくるとわかれば、待つことができたんじゃないかな」
「でも、わからなかった。神様は《いつ》ということを教えてくださらないことが多いね」
「このままモーセがいなくなってしまったらという思い、見えない神様の存在すら不安になったので、目に見えるものを拝みたいと思ったのでしょう」
「イスラエルの民を笑えないね」
「それにしても、それを見たモーセは怒って神様からせっかくいただいた大切な十戒の書かれた石の板を砕いてしまうとは……。」
「モーセは激情型だったの?」

 ここまでで時間が来てしまいました。

わたしは、モーセは決して激情型だったのではないと思います。
モーセは、民が金の子牛を拝んで罪を犯していることは、神様から聞いて知っていました。そして神様の怒りを知り、どうか滅ぼさないで下さいととりなしています。

だから、激情にかられてやった行為とは思えません。神様がどれだけ民の行為を嘆いているか知らせるためだったのかもしれません。
そして神様は、板を砕いたことを責めず、再び同じものを授けてくださいます。

次回は5月16日(水)輪読会参加者を募集中です。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

弱さがあっても

2012-04-21 15:41:06 | 聖書から
昨日はOさん宅での家庭集会でした。T.S.先生による聖書の学びで印象に残ったことを書かせていただきます。


小学生のころ、道徳の時間で習ったことは、深くしみこんでいます。いい人の例が挙げられて、このような人を見習いましょうと勧められ、悪い事をしてしまった人の例が挙げられ、このようなことをしてはいけませんと教えられました。

聖書を読むときも、無意識にこの人はいい人か悪い人かと振り分けてしまうことがあります。でも、聖書は決してそういうことを言っているのではないと教えていただきました。

信仰の父と呼ばれているアブラハムは、過ちを犯しています。エジプトに行ったとき、自分の奥さん(サラ)があまりにも美しいので、夫婦だと言うと殺されてしまうかもしれないと恐れ、妹だと偽っています。そんなことが2回もありました。

神様の介入によって事なきを得ますが、信仰の父と呼ばれた人が、恐れを抱いて嘘をついてしまったことが聖書に書かれているのは興味深いことです。

このように弱いところのある人、罪を犯してしまう人であっても、神様はその人を選び、その人の生涯を導いてくださることがわかり、感謝しました。

アブラハムは親族とともにウルという町に住んでいました。ウルという町は、月神礼拝の盛んなところで、父親のテラや兄弟も月神礼拝をしていたそうです。

そのような中でアブラハムは神様からウルの町を出て、約束の地へ旅立つように示されました。兄弟ナホルは同行しませんでした。月神礼拝で商売をしていたのでそれを捨てることができなかったのかもしれません。
アブラハムの家族内で、もめたかもしれません。もうひとりの兄弟ハランは、父親のテラより早く、ウルの地で召されています。

テラはアブラハムと一緒に出発します。でも、約束の地よりずっと手前のハランの地に留まることを希望し、そこで召されてしまいます。

神様はなぜアブラハムを選んだのか……。その理由は分かりません。アブラハムがいい人だったからでも特別信仰深かったからではないことは確かです。でも、アブラハムは葛藤しながらも生涯神様と共に歩みました。

「信仰生活は神様とのつきあいです。神様から卒業してしまわないように」と牧師先生が言われました。


肉体的にもそうですが、精神的な弱さを抱えているわたしです。恐れや不安にとりつかれて自ら行動を起こし、何度も失敗しています。

信頼して待つことの苦手なわたしです。でも、神様は「恐れるな」と言ってくださっています。恐れを抱いたとき、立ち返る場所があるとうのは何と幸いなことでしょう。

「アブラハムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。(創世記15:1)」


2007年6月1日に「アブラハムに思いを寄せて」を書いています。こちらも読んでくださると嬉しいです。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

神が遠くに感じられるとき

2012-03-09 21:20:06 | 聖書から
昨日は我が家での家庭集会でした。娘も参加し、牧師先生と8名の方が来て下さいました。
「人生を導く5つの目的」(リック・ウォレン著、パーパス・ドリブン・ジャパン)の14から学びました。

この本は何度も読みましたが、その箇所の内容をすっかり忘れていました。
そのページには、神が遠くに感じられるときのことについて書かれていました。

祈っても何の応答もなかったり、あまりにもひどい苦しみが襲ってきて、祈ることさえできなくなってしまうことがあります。

わたしは何度もそのような経験をしました。そんなときは、わたしの信仰が弱いから、あるいは自分自身に問題があるから神様が遠く感じられるのだと思って自分を責めていました。
でも、それが間違えであること。誰もが皆直面しなければならないことだと知り、ほっとしました。
それは、信仰の訓練なのだそうです。

「どのような関係にも親密な時期と距離を感じる時期があります。神との関係においても、それがどれほど親密なものであっても、振り子はこちら側から向こう側へと振れていくものなのです。(フィリップ・ヤンシー)」
と書かれています。

ダビデは神様の臨在が感じられないことについて度々文句を言っています。
ヨブは神様がおられないと感じた時、このことに希望を見出しています。

わたしたちが神様の存在が信じられなくなった時でも、神様は存在しておられるという事実があります。神さまはご自分のことを「わたしは、『わたしはある』という者である(出エジプト3:14)」と言われました。「わたしはある」は、わたしはいると訳した方がいいと聞きましたが、その通りですね。いつでもどこでもどんなときでも神は存在するお方なのです。

「神に見捨てられたと感じることがあっても、その感情に左右されずに神を信じ続けるとき、あなたは最も深いレベルで礼拝しているのです。」と書かれていました。

わたしの罪を赦すために十字架にまでかかって下さった神さまが、わたしを見捨てるはずはないのです。キリストが十字架上でなして下さったことを思いながら礼拝を捧げたいです。



わたしが書いたものが掲載されている「百万人の福音」4月号が今日送られてきました。
入選したのは奨励賞の作品1点と佳作2点でした。わたしのは佳作ですが、4月号に掲載されました。題名は「試練の学校」。実名で出ています。いのちのことば社のHPをごらんください。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

見捨てられた者

2012-02-18 16:56:49 | 聖書から
昨日はOさん宅での家庭集会でした。家庭集会では十字架の箇所を学んでいます。

イエス様が十字架につけられたとき「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)という叫び声をあげています。これは詩篇22編1節の言葉です。イエス様はこれまでもよく聖書(旧約聖書)の言葉を引用して語られていました。

しかし、なぜこのようなことを言われたのかと問われると、わからなくなってしまいました。
イエス様はご自分が十字架にかかって命を捨てることをあらかじめ知っておられました。父なる神から見捨てられることもわかっておられました。なのに、なぜ「どうして」と言われたのか不思議です。

それにしても、神様から見捨てられるとは、どんなに恐ろしいことでしょう。
そのとき全地が暗くなったと書かれています。日食が起きたと考えられますが、12時~3時までの間ですから、日食にしては時間が長すぎます。地上から光がなくなるというのは、絶望的な状況だったことを意味するのでしょう。

イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けた時、天から「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ(マタイ3:17)」という神の声がしました。

それなのに、十字架上で「わが神、わが神」と叫ぶイエス様の声に対して、神さまの答えはありませんでした。
なぜイエス様が父なる神様から見捨てられなければならなかったのでしょう……。

Ⅱコリント5:21には次のように書かれています。
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました、それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」

神様は、正しいお方ですから、罪をそのままにしておくことはできません。罪ある者は罰しなければなりません。でも、罪あるわたしたちを罰することをせず、代わりに罪のない方(イエス・キリスト)を十字架上で罰したのです。
神様は愛するひとり子をお見捨てになりました。本当は、わたしが見捨てられるはずだったのに……。

「『わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。』という叫びは、本当はわたしたちが叫ぶはずの言葉だったのです」と聞いて、はっとしました。

イエス様が代わりに見捨てられてくださったから、わたしはどんな暗闇の中を通ることがあっても神様から見捨てられることはないんだ。ひとりぼっちになることはないんだと思って、感謝の気持ちでいっぱいになりました。

聖書は「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない(ヘブル13:5)」と約束して下さっています。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。



拍手ボタンです

web拍手