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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

無駄にならない苦しみ、涙、痛み

2014-07-22 12:44:56 | 聖書から
これは16日に書こうと思っていたブログ記事です。
15日はレストランで家庭集会を行いました。オーナーがクリスチャンなので、周囲を気にすることなく(といっても貸切状態でしたが)賛美し、祈ることができました。
学びの後は、おいしいランチをいただいて、話に花が咲きました。


新約聖書マルコ6:35-44「5つのパンと2匹の魚の奇跡」から学びました。

イエス様の話を聞きにきた群衆は、男だけで5千人もいました。群衆を解散させてくださいという弟子たちに対してイエス様は、「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい」と言われました。女、子どもも入れて1万人以上の人たちに食べさせるには200デナリ(労働者200日分の金額)も必要です。

弟子たちが困っていると、イエス様は「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。」と言われました。
そこにあったのは5つのパンと2匹の魚、たったこれだけでした。ヨハネ6:9には少年が持っていたものだと書かれています。

弟子たちは、こんな少しの食べ物が何の役に立つのだろうと思ったことでしょう。
弟子たちはこれまでイエス様が行ったたくさんの奇跡を見ていました。それなのにイエス様がどんなことでもできる方だということを忘れているのです。

イエス様が祈り、祝福してパンと魚を分けると、そこにいた群衆が皆満腹して、さらにパン切れを集めると12の籠いっぱいになったのです。

イエス様は、何もないところからパンと魚を出すこともできたのになぜ少年の持っていた5つのパンと2匹の魚を用いられたのでしょう……。

イエス様は人の目には無駄だと思えるものを用いてくださいます。

イエス様は、無駄なものを他の人をも生かす祝福と変えてくださいます。」とA先生が言われました。

「苦しみ、涙、痛みは無駄にならない」と聞いて慰められました。イエス様の目から見たら、無駄なものなどひとつもないのですね。
少年が自分の持っていたお弁当を差し出したように、イエス様はわたしたちの持っている物を差し出すことを求めておられます。

わたしの持っているものは少しです。何を差し出したらいいのでしょう。
与えられている時間を人のために使うこと、友のために祈ることも、イエス様に差し出すことになるのなら、喜んで捧げたいです。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)」


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天を見上げて

2014-07-16 20:37:13 | 聖書から
13日に教会学校でステパノの殉教のお話をしました。お話の準備をしていて考えさせられたことを書かせていただきますね。

最初の殉教者と言われるステパノは、知恵と御霊(みたま)によって人々に福音(イエス様のしてくださったこと)を伝えていました。

ユダヤ人たちの中でステパノを憎む者たちがいました。ステパノをなんとか言い負かしてやろうと議論するのですが、ステパノは知恵と御霊によって語ったので、対抗できませんでした。それで嘘の証言によりステパノをつかまえ、裁判にかけました。

憎しみに満ちた人たちの前に立たされたとき、ステパノの顔は御使(みつか)いのように見えたそうです。何の悪いこともしていないのに人々から貶められ、憎まれ、殺されそうになっているときになぜ穏やかでいられたのでしょう。

ステパノは大祭司の前で旧約聖書に書かれているアブラハムから始まるイスラエルの歴史を淡々と語ります。それは聖書(使徒の働き7章)3ページに渡って書かれています。

ステパノが人々の罪を指摘すると、人々は激しく憎悪しました。
聖書には「人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした(使徒の働き7:54)」と書かれています。

一方ステパノは聖霊に満たされて「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。(使徒7:56)」と言いました。人の子とは、イエス様のことです。

人々はいっせいにステパノに殺到し、ステパノを町の外に連れて行って、石打ちの刑にしてしまいます。

石打ちの刑とは重罪を犯した人に石を投げて殺す刑罰で、姦淫の女が石打ちの刑にされそうになっているとき、イエス様が助けたことが福音書に書かれています。

ステパノは石を投げられているとき、天を見上げて「主イエスよ。わたしの霊をお受けください」と言い、「主よこの罪を彼らに負わせないでください」と言って、息を引き取りました。
イエス様が十字架上で言った言葉を思わせますね。

このような立派なステパノの姿をみると、自分とあまりにもかけ離れているので、引け目を感じてしまいます。
わたしだったら、憎しみの込められた目で見られたら、こちらもそういう目で見返してやりたくなるし、石を投げている人たちに恨みを抱くだろうなと思ってしまいます。

なぜステパノはこのような死に方ができたのかと考えながら何度も聖書を読んでいるうちに、気づいたことがありました。

ステパノに対して聖書は『恵みと力とに満ち』『知恵と御霊に満ちていた』『聖霊に満たされていた』と書いています。

恵みも力も知恵も聖霊(御霊)もステパノが努力して勝ち取ったものではなく、神様が与えてくださったものです。これらはキリストを信じる者のうえに降り注がれているのですが、両手を広げて受ける人と、下を向いていて受けようとしない人がいるのではないかと思います。

ステパノは、人々の憎しみにさらされていましたが、人々を見ずに天を見上げていました。その証拠に「天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」と言っています。
いつも神様を見上げることによって、神様から恵み、力、知恵、聖霊(御霊)をふんだんに受けていたのでしょう。だから、石打ちの刑を受けても恐怖を感じず、自分を殺そうとしている人々を愛することができたのではないでしょうか。


「こんなふうにしてステパノが天に召されていきました」と子どもたちに話すと、悲しそうな顔をして「ステパノは死んじゃったの?」と尋ねた子がいました。
胸が締め付けられるような気持になりました。でも、ステパノは天国に迎え入れられたのです。

そのあと、日本でキリスト教迫害が起こって多くの人が殉教していったことを話し、「いのちよりも大切なものがあります。それを守って死んでいった人たちは天を見上げ、平安な心で召されていったことでしょう」と話しました。
わたしも天を見上げて歩んでいきたいと思いました。


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「時」を待つ

2014-06-28 16:24:39 | 聖書から
昨日はOさん宅での家庭集会でした。マルコの福音書6:1~6aからの学びをしました。

イエス様が公生涯に入られてから2回目に郷里ナザレを訪ねたときの出来事です。
1回目に訪れたときのことはルカ4:14~30に書かれていますが、ナザレの人々はイエス様に強い拒否反応を示しました。

それなのにイエス様が再びナザレを訪れたのはなぜでしょう。ナザレの人にも福音を伝えたいと思われたからでしょう。
イエス様はナザレの会堂で聖書について教えました。当時、会堂ではユダヤ人の男子なら誰でも聖書を読んだり、語ったりすることができたので、イエス様のなさったことは、非常識なことではなかったそうです。

イエス様の言葉を聞いた人たちは驚きました。聖書には次のように書かれています。

「それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人はこういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行われるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。この人は大工ではありませんか……」
                                              (マルコ6:2~3)


イエス様の知恵や力あるわざに驚嘆しながらも、イエス様のことを以前から知っている人たちは馬鹿にしています。

当時「大工」という言葉は、石工や金工にも用いられる言葉で、一般的にはどんな仕事でも請け負う便利屋、細工師、技術屋をさしたそうです。

ナザレ以外の土地では、イエス様を預言者あるいは神であると思った人たちもいました。でも、イエス様の家柄や昔のことを知っているナザレの人たちは、イエス様を人間としてしか見ることができませんでした。

イエス様は家族からも理解されなかったのです。

「それで、そこでは何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。(マルコ6:5)」

と書かれているようにイエス様は奇跡を行うことをせず、立ち去りました。

ナザレで奇跡を行えば人々はイエスを神の子と認めるのに、なぜ奇跡を行わなかったのでしょう。行えなかったのでしょうか……。いいえ。行えなかったのではなく、あえて行わなかったのです。

不思議な出来事を見ただけで信じた者は、イエス様の教えを知ろうとせず、もっと奇跡を求めるようになります。不思議な出来事だけに目を向けるようになるので、奇跡を起こさなかったのです。

郷里の人たちは、イエス様を信じるのが困難で、かえってつまずいています。

「イエスは彼らの不信仰に驚かれた。(マルコ6:6)」と書かれていますが、それはナザレの人たちをあきらめたわけではなく、その人たちが信じるには時間が必要で、信じることができる「時」があるので待つとおっしゃっているのです。

後に母マリヤときょうだいたちは、イエス様を救い主として信じるようになったのです。

夫や母や息子たち、周りの人たちが救われる日をわたしは待っています。




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選びとは

2014-06-10 16:43:07 | 聖書から
キリスト教では、「信仰を持つようになったのは、神様がわたしを選んでくださったからです」と言うのをよく耳にします。

たくさんある宗教をひとつひとつ詳しく調べて、どれがよいか自分で選んでキリスト教を信じることにしましたと言って洗礼を受けた人の話は聞いたことがありません。

選ばれるとはどういうことなのでしょう。選ばれなかった人はどうなるのでしょう。果たして自分は選ばれた人なのでしょうか……。と疑問を持つ人もおられるでしょう。

聖書を読んでいると、神様はご自分をあらわす(啓示する)神様だということがわかります。神様はご自分のことを「わたしはある」と自己紹介されました。

「わたしは、『わたしはある。』という者である。」(出エジプト3:14)

つまり、神様は存在する者であるということ。そして、アブラハムを選んで声をかけられたように、選びの神様であることがわかります。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。(ヨハネ15:16)」

けれども、自分が素晴らしいから神様が選んでくださったと思ったとしたら、それは大きな間違えです。

アブラハムもモーセも神様から選ばれた者ですが、彼らの能力や性格によって選ばれたわけではありません。
むしろ、選ばれるのに値する人間ではないのに選んでくださることがすごいことだと思います。
そして、選んだ人が失敗したり、間違った道を歩んでしまっても神様は決して見捨てないと約束してくださっているのです。

わたしは「こんな弱くて、何のとりえもないわたし、どうしようもないわたしを選んでくださってありがとうございます」と神様に言っています。

ブログを読んでくださっているあなたへ

神様はあなたのことも選んでおられます。神様はあなたのことを愛しておられるからです

日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。ぜひご覧ください。



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神様は不公平ですか?

2014-06-06 15:44:28 | 聖書から
音をたてて雨が降っています。暑い日が続いていたので、嬉しい梅雨入りとなりました。

「信仰を持つとはどういうこと?」と聞かれることがあります。
水曜礼拝で、「神の語りかけを聞いて応答することが信仰を持つということです」と教えていただきました。

神の語りかけとはどういうことでしょう。信じている人には神の声が聞こえるのでしょうか……。そうではありません。
それなら、どのようにして神様は語りかけてくださるのでしょうか。そして、応答するとはどういうことなのでしょう。

人が生まれつき備わっているものや、自分で選んだり変えたりすることができないまわりの環境が、神からの語りかけになっているそうです。
この時代に日本人として生まれたこと、女性であること、両親、容貌、生まれつきの性格など……。

かつてわたしはすべてがいやで文句ばかり言っていました。とくに体が弱いことが不満でした。聖書に書かれている神の存在は知らなくても、大いなるものの存在は感じていましたから、そのお方に不平を言っていました。
他の人と比較して、自分が持ってない健康、容貌、能力が羨ましいと思い、「神様は不公平だ」言っていました。

聖書に示され、わたしを造ってくださった神様がどんなお方かわかったとき、神様はわたしにふさわしい要素を生まれる前から備えてくださったのだと知りました。どんな要素にも目的と意味があるのです。
たとえば、生まれつき体が弱いことは、じっとして体を休める時間が長いことによって、物事をじっくり考える習慣がつく。神様のしてくださったことをゆっくり思いめぐらすことができる。

いろいろな病気で苦しむことによって、病で同じような苦しみの中にある人を慰めることができるなど……。
神様は、マイナスと思われる要素でさえ、よいことのために備えてくださっているのです。

「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2:10)」

置かれた環境や毎日起きる色々な出来事、ほんのささいな日常の出来事の中にも神様からの語りかけがあります。
それを見逃さないようにしてしっかりと聞き、応答していきたいなあと思いました。

「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深いところで仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。(詩編139:13-16)」



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何のために生きているのか

2014-05-23 16:28:41 | 聖書から
昨日は我が家での家庭集会でした。先生と6名の方が来てくださいました。

「人生を導く五つの目的」(リック・ウォレン著 パーパス・ドリブン・ジャパン)の3日目を学びました。

この本は何度も読んでいたのに、久しぶりに読むと、すっかり忘れていて新鮮に感じました。

あなたの人生を動かしているものは何か?と問われました。

『多くの人は、罪責感に駆り立てられたり、怒りと憤りに駆り立てられたり、恐れに駆り立てられたり、受け入れられたいと言う必要に駆り立てられて生きている。』と書かれています。

確かにそうですね。
わたしは罪責感や恐れに駆り立てられて生きていました。恐れは振り払っても、振り払っても追いかけてきます。

『恐れとは、神が意図しておられる者となることを妨げる、自分で作り出した牢獄のようなものです』

冷静に考えれば恐れる必要はなく、恐れたからといって何のメリットもないことがわかっていても、自分の力では恐れを振り払うことができません。
わたしは、恐ろしくなったとき、いつも思い出す聖書の言葉があります。

「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。(Ⅱテモテ1:7)」

このみ言葉は「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた」(創世記2:7)とリンクしていると教えていただきました。

神様は人を造られたとき、いのちの息を吹き込まれました。いのちの息とは霊のことです。神様から霊を吹き込まれたのに、人は罪を犯して神から背を向けてしまったため、臆病の霊を持つようになりました。でも、神との関係が回復して臆病の霊が取り除かれ、力と愛と慎みの霊が宿ったのです。

『最大の悲劇は死ぬことではありません。何のために生きているのかわからない人生ほど辛いものはないのです』

と書かれています。

生きる目的を持たないと、何のために生きているのかわからなくなります。
『目的を知ることによって、人生の焦点が定まる』のです。

わたしは、洗礼を受けた後、誤解していたことがあって、教会を離れてしまいました。その後結婚して子どもが与えられましたが、空しさを感じていました。
幼子を抱いて、この子が大きくなったとき、わたしの生き方を知ったらどう思うだろうと不安になりました。クリスチャンなのに教会へも行っていない自分。神さまの存在を信じているのかどうかもわからない状態で、何かあると柳の木の枝のように心が揺れていました。これではいけないという思いが募ってふたたび教会へ通うようになったのでした。

教会の婦人会の学びで「あなたの人生の目的は何ですか」という質問をされ、答えられませんでした。目的がわからないので空しかったのです。
「人生を導く五つの目的」には『人生の目的は永遠への準備をするため』と書かれていました。

また、神様の御前に立たされたときされる二つの質問が書かれていました。
ひとつは、『イエス・キリストに対してあなたはどのような態度をとりましたか。』です。
信じる前はイエス・キリストに背を向けていました。信じて間もないころも顔をそむけていました。でも、今はイエス様なしでは生きられません。

もうひとつの質問は、『わたしがあなたに与えたものを、あなたはどう活用しましたか』です。

これは答えに窮します。賜物を生かしきれているかどうかわからないからです。しばらくは賜物が何かわかりませんでした。書いて伝えることだとわかっても、十分活用しているか問われると自信がなくなります。

でも、与えられている肉体のいのちには限りがあるのですから、できるだけのことをしたいと思いました。永遠への準備という目的を持って。

「神は人の心に永遠を与えられた。(伝道者の書9:11)」


写真は家庭集会のメンバーのひとりが丹精込めて作られた薔薇


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神様は厳しい?それとも優しい?

2014-03-06 20:30:52 | 聖書から
今日自転車で出かけようとしたら後ろのタイヤがパンクしていました。タイヤを見るとひび割れて、滑り止めはすり減ってツルツルになっています。自転車であちこち出かけることが多いので相当な走行距離になったのでしょう。

近くのホームセンターではパンク修理をしてもらえなくなったので、教会の近くにあるイオンまで自転車を押して歩きました。冷たい風が、これでもかとふいていました。

前回パンクしたときは夏の暑い時期でした。熱中症を恐れながら自転車を押して歩いてフラフラになったことを思い出しました。暑いより、寒い方がずっと楽です。
タイヤを交換してもらって帰りはすいすいでした。


昨日は水曜礼拝の後、我が家で聖書輪読会をしました。メンバーの3人が来てくれました。
旧約聖書の民数記を読んでいます。

旧約聖書を読むと、神様の厳しさを知らされます。

神様は、モーセとアロンに逆らったコラたちを罰しました。地が割れて、逆らった者たちは生きたまま地に呑み込まれてしまったのです。
安息日にたきぎを集めていた人を、神様は石打ちの刑にするように告げ、その人は打ち殺されてしまいました。安息日には仕事をしてはいけないという決まりがあるからです。

逆らっただけで地に呑み込まれる? たきぎを集めただけで石打ちの刑? 神様は愛のお方なのにどうして? 旧約聖書の神様は厳しくて、新約聖書の神様は優しい? と思われる方もいるでしょう。

旧約聖書も新約聖書も同じ神様です。神様は義なるお方なので、罪をそのまま見過ごすことができません。神様は人を愛するがゆえに律法を与えてくださいました。その律法を守ることで人はしあわせに生きられるのです。守らなかった時には罰が与えられます。 
ところが、人は罪の性質を持っているので律法を守りきれません。

自分のことを顧みると、恥ずかしくなります。神様を賛美した直後に人を妬んだり、文句を言ったり、つぶやいたり……。たった一日でも一度も罪を犯さずに過ごした日があったでしょうか。

もし、旧約聖書の時代に生きていたら、罰せられていたでしょう。
聖書には「すべての人は罪を犯したので神からの栄誉を受けることができず(ローマ3:23)」と書かれています。

罪を犯し、滅びの道をまっしぐらに進んでいる人たちを見て、神様はなんとか救いたいと思われました。
それで、人間に罰を下す代わりに、ご自分のひとり子のイエス様に罰を与えることにしました。
それは、神様にとって非常に辛いことでした。でも、ひとりひとりの人間を深く愛している神様は、人々をなんとか救いたいと切望されたのです。
罪ある人の代わりに罪のないイエス様を罰することによって、罪ある人たちが救われるのです。

イエス様は、身代わりになるために地上に生まれてきてくださいました。イエス様は、人々の侮辱に耐え、十字架の肉体の痛みに耐え、最後は神様に見捨てられるという辛さを味わってくださいました。
本当は、わたしが受けなければならない苦しみだったのに……。

イエス様が十字架にかかってくださったおかげで、わたしは神様から罰を受けなくてよくなりました。イエス様を信じるだけで永遠の命をいただきました。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(1ヨハネ4:9~10)


旧約聖書を読むと、イエス様のしてくださったことの大きさに胸が篤くなり、感謝と喜びに満たされます。




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ずっとこのままがいい

2014-03-03 17:06:28 | 聖書から
先日6歳のヒックンが来たとき、「ぼく、100歳まで生きる。でも、ずっとずっとこのままがいい」と、おなかの大きいママにしがみついて言いました。

人間は年をとっていつかは死ぬこと、ずっと今のままでいたいけど、変化していくこと。6歳の子どもが、その空しさをすでに感じとっているのです。
そういえば長男も一年生のころ「ずっとこのままでいたい」と言っていました。長男は「家族4人でずっと暮らしていたいから、結婚しないんだ」と言ったのです。それでいて早々と結婚して家を出たのですが……。

「ずっとこのままがいい」と言えるのは、今が幸せだからだと思います。今、耐えられないような苦しみの中にいるなら、変化を求めるでしょう。

地上の歩みは長いようで短く、どんなに恵まれた人生を送っても、老、病、死からまのがれません。毎日目に見えないほどわずかかもしれませんが、人は変化していきます。

人だけでなく、動植物も地球も年をとり、建造物も朽ちていきます。この天地は滅びるのです。

聖書の伝道者の書3:11には、「神はまた、人の心に永遠を与えられた。」と書かれています。永遠への思いを与えられたのです。

それだけでなく、神様はわたしたちに永遠のいのちを与えてくださいました。それは、地上で永遠に生られるという意味ではありません。

人間の死には、肉体の死と魂の死があるのです。神様は、わたしたち人間をとても愛してくださっていますから、魂が永遠に生きられるようにしてくださいました。苦しみも悲しみも死もない天国で永遠に生きられるとは、なんと幸いなことでしょうか。


「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものがもはや過ぎ去ったからである。(ヨハネの黙示録21:4)」


天国とはこのようなところです。



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苦しみのどん底まで味わったとき

2014-02-27 16:16:57 | 聖書から
「見てよ、ママのおなか。こんなに大きくなっちゃって」
ヒックンが言いました。予定日は3月23日です。ヒックンの誕生日が3月31日なので、同じころになるかもしれません。2人目だから、もっとずっと早いかもしれません。

生まれたら、ママと赤ちゃんは、ママの実家(ヒックンの家の近く)にお世話になるので、ヒックンは我が家で預かることになっています。春休みも含めて1か月近くいることになるかもしれません。

備えて今から貯金をしています。貯金と言ってもお金ではありません。聖書を読む貯金です。一年間で聖書全部読めるように聖書通読をしていますが、1日20分ぐらい読まなければ通読ができません。ヒックンが来たら、朝のデボーションで10分ほど読むくらいしかできなくなるので、いまのうち多目に読んでおくのです。今日で8日分の貯金ができました。

料理も出かけた時のために作って冷凍しておきます。ブログ日記の貯金はできませんが、JCPのホームページを早めに作っておかなくては……。


先週、我が家での家庭集会に韓国の宣教師、Y先生が来てくださいました。初めてかと思ったら、そうではありませんでした。12年前、Y先生がめぐみ教会に来られて間もないころ文京家庭集会に来てくださっていたのです。
そのときは、片言の日本語でしたが、今は流暢に話されています。

聖書箇所はⅠサムエル1:1~18。リビングライフからの学びでした。
エルカナにはハンナとペニンナという二人の妻がいて、ペニンナには子どもがいましたがハンナには子どもがいませんでした。
エルカナはハンナを愛していたため特別扱いしたので、ペニンナは嫉妬してハンナをいじめました。ハンナは、不妊という問題とペニンナからのいじめによって2重に苦しみ、泣いて食事もとれませんでした。

なぜハンナはこれほど苦しまなければならなかったのでしょう。
聖書には「主がハンナの胎を閉じておられた。」と書かれています。神様から来る苦しみだったのです。それには意味がありました。

ハンナは主の宮へ行って心にある思いを打ち明け、子どもが与えられるように祈りました。
もし男の子が与えられたら、その子をささげると誓願を立てました。

『すべての問題解決の鍵が神にあるという信仰を持って、祈りの場に出て行かなくてはなりません。』とテキストに書かれています。

神様はハンナの祈りを聞き入れて、男の子(サムエル)を与えてくださいます。ハンナは誓願の通り、サムエルが乳離れしたときに神殿へ連れて行ってささげたのです。

ハンナに最初から子どもが与えられていたら、これほど苦しむことはなく、このような祈りはしなかったことでしょう。そして、長男をささげることもなかったでしょう。
長男サムエルは、のちに預言者としてイスラエルになくてはならない存在となります。ハンナの苦しみは、神様のご計画だったのですね。


『苦しみのどん底まで味わったとき、神が働かれる空間が生まれたのです、神にすべてをし注ぎ出し、主だけを見上げる人は、涙の谷を通って、ついには神が与えてくださる平安と栄光に至ります。』

『祈りは消えてなくなる山びこではありません。確実に神から応えが返ってきます。』
                             リビングライフより


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人は人を幸せにできるの?

2014-02-07 17:09:44 | 聖書から
インフルエンザが猛威を振るっています。ヒックンも月曜日からインフルエンザB型にかかり、39℃の熱が出たと言っていました。先週の土、日に遊びに来たときは元気だったのに……。

火曜日にヒックンママが「お父さんやお母さんにうつしたのではないでしょうか」と心配してメールをくれたときは、皆元気でした。

ところが、主人が夕べから発熱。37.2の微熱ですが、今日病院へ行って調べてもらうと、やはりB型インフルエンザでした。
いつもいちばんにかかるわたしは、いたって元気です。
今年は予防接種を受けていてもかかるということなので、注射をしたからというわけでもなさそうです。


一昨日は今年初めて聖書輪読会をしました。3人で旧約聖書民数記の10~14章を読みました。
モーセたち、イスラエルの民は神様がくださると約束してくださった地をめざして旅をしていました。モーセは舅に一緒に旅をしようとさそいました。そのとき、次のように言っています。

「私たちは、主があなたがたに与えると言われた場所へ出発するところです。私たちといっしょに行きましょう。私たちはあなたをしあわせにします。主がイスラエルにしあわせを約束しておられるからです。」(民数記10:29)

しあわせという言葉がひらかなで書かれていることに注目しました。『幸せ』とは、この世の幸せですが、『しあわせ』とは、神様が共にいてくださるという『しあわせ』なのだと教えていただきました。

男性が相手の両親に結婚のあいさつをするときよく「お嬢さんを幸せにしますから結婚させてください」と言いますが、人が人を幸せにできるのでしょうか……。

この世の幸せとは、無病息災、商売繁盛の言葉に集約されますね。
災害や事故、病気などを起こさないようにすることは不可能です。人がいくら気を付けても努力しても、長い一生の間、ずうっと幸せでいられるという保障はどこにもありません。
幸せを願うことは悪いことではありません。でも、幸せが人生の目的であったら、その幸せが失われたとき、絶望してしまいますね。

一方「しあわせ」だと、病気をしていても事故や災害に遭っても、どんな辛い目にあっても心に平安があります。それは、神様が一緒にいてくださるから、どんなことが起きてもだいじょうぶと思えるのです。

モーセは舅に「しあわせ」を約束しました。それには根拠があります。「主がイスラエルにしあわせを約束しておられるからです。」とあるように『神様がしあわせにしてくださると約束してくださったのだから、その約束は本当です』と確信を持って言っているのです。

物質的に恵まれても心に憂いがあるとしあわせではありませんね。本当のしあわせとは、人のすべての考えにまさる平安を持っていることです。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6〜7)



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情熱

2014-01-17 21:00:52 | 聖書から
昨日は今年初の我が家での家庭集会でした。
牧師先生と6人の方がきてくださいました。

マルコ14:32-42の学びでしたが、あまりにもたくさんのことを教えていただいたので、書ききれません。心に留まったことを書かせていただきます。


パッションという映画があります。イエス・キリストが処刑されるまでの12時間を2時間のドラマにして描かれています。数年前に観ましたが、十字架の場面があまりにも凄惨なので目を開けていられず、途中からずっと下を向いていました。

鞭で打たれ、傷ついているイエス様が十字架につけられるときは、「もうやめて!」と叫びたくなりました。

でも、もしイエス様が助けられて十字架刑をまのがれたら、どうなったでしょう……。
わたしたちがこのような苦しみを受けなくてはならなくなるのです。

どんな人間でも一度死に、死後にさばきを受けることが定められています。
「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように(へブル9:27)」
にもかかわらず、イエス様を信じれば、さばかれずにすみ、永遠のいのちをいただけるようになりました。

イエス様が代わりにさばきを受けてくださったからです。

「イエス様が人類の罪を背負って十字架にかかってくださった」ことがどういうことなのか考えると、こんなすごいことをしてくださったイエス様にどれだけ感謝してもしきれないぐらいの思いでいっぱいになります。

パッションとは「情熱」という意味です。神様が、わたしたち人間を愛するあまり、大切なひとり子イエスを十字架につけて見捨てるということをしてくださった情熱。神様の愛の情熱がひしひしと伝わってきました。

十字架につけられているイエス様のことを考えた時、自分はどこにいたのでしょう。傍観者として少し離れたところに立っていたのではないでしょうか。
十字架につけるため掌にくぎを打ち込むその手は、パッションの監督、メル・ギブソン自身の手なのだそうです。十字架につけた人は自分であると告白しているのです。

そして、苦しみもだえるキリストの姿もまた自分なのです。本当は自分がこのような苦しみを受けなくてはならなかったのだと思うようにと言われて、胸が篤くなりました。

また、十字架にかかる前夜、ゲッセマネでイエス様が苦しみもだえながら
「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし私の願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」と、祈りました。

「この杯をわたしから取りのけてください。」というのは、イエス様が生身の人間としてこられたという証拠で「しかし私の願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」というのは、イエス様がまさに神であるという証拠だと教えていただきました。

あなたのみこころのままにと祈ってくださったから、わたしたちは救われたのですね。

「わたしはあなたに何をもって感謝を表せばいいのだろう」と賛美曲「真昼のように」の歌詞が頭の中に流れています。

まひるのように

いのちをかけて愛を示された
イエス様に出会い 全てが変わった

私はあなたに何をもって、
感謝を表せばいいのだろう

真昼のように輝きながら
あなたの愛を伝えたい

イエス様のように輝き続ける
世の光にしてください



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今年の一字

2013-12-19 19:57:10 | 聖書から
今年を漢字一字であらわすと、わたしは「覆」です。

児童文学者協会の支部長になり、苦手な司会をすることになって、あたふた。言わなくていいことを言い、言わなければならないことを失念しました。その他の場面でも失敗が多かったです。夜、失敗を思い返しては、胃が痛んでいました。

そのうち神様が覆ってくださっているから大丈夫という思いに至り、平安を得られて、ぐっすり眠れました。覆われなければどうなっていたことか……。

「おおう」という言葉を聖書を読んで見つけた翌日、に礼拝メッセ―ジで「覆う」が出てきた(11/26のブログに書いています)ときは、まさに私に与えられた言葉だと思いました。
「聖霊があなたがたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」(ルカ1:35)

調べてみると、聖書には「おおう」という言葉が実にたくさん使われています。(聖書検索をすると「おおう」は旧、新約聖書全体で52節に含まれていました。(「おおわれて」、「おおって」などの言葉をくわえると、その倍ぐらいになります)

口語訳聖書には「神の霊が水のおもてを覆っていた(創世記1:2)」と書かれています。

世界が造られる前は、混沌としていました。闇が大いなる水の上にあり、その水の上をおおっていたのが神の霊だというのです。
もし、神の霊がなかったら、永遠に闇の世界が続き、生命の誕生もなかったのです。

ホセア書に書かれている「おおう」は、罪赦されるという意味で用いられています。
ホセアの妻、ゴメルは不誠実で、夫のある身なのに姦淫の罪を犯しました。ホセアは彼女を赦し、家に迎え入れるのです。

「また、彼女の裸をおおうためのわたしの羊毛と麻とをはぎ取ろう。(ホセア2:9)」
神様は不誠実を誠実でおおう方です。

「そむきの罪をおおう者は、愛を追い求める者。」(箴言17:9)
「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」 (Ⅰペテロ4:8)


おおうは、守るという意味でも用いられています。
「主はあなたを守る方。主はあなたの右の手をおおう陰。」(詩編121:5)

「見よ。神はご自分の光をその上にまき散らし、また、海の底をおおう。」(ヨブ36:30)

「主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。」(イザヤ40:22)


神様は、地上に住むわたしたちをおおってくださるのですね。

ヨナ書に書かれているのは、文字通りおおいかぶせるという意味ですが、ヨナの不機嫌を直そうとして、とうごまでおおってくださる神様の優しさを感じます。

「神である主は一本のとうごまを備え、それをヨナの上をおおうように生えさせ、彼の頭の上の陰として、ヨナの不きげんを直そうとされた。」(ヨナ4:6)

パウロが書いた言葉を紹介します。
「しかし、主は、「私の恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(Ⅱコリント12:9)
わたしもキリストにおおわれています。

昨日Nさん宅に伺って聖書輪読会をしました。民数記を読んでいるのですが、このとき、も「おおう」に出会いました。

「幕屋をたてた日、雲があかしの天幕である幕屋をおおった。それは、夕方には幕屋の上にあって火のようなものになり、朝まであった。(民数記9:15)」

エジプトを出たイスラエルの民が、昼は雲の柱、夜は火の柱に導かれて約束の地をめざし旅をしました。
導いた雲は、子ども聖書物語にあるような縦に細長い雲を思い浮かべていましたが、幕屋全体をおおうほど幅広いものだったのかもしれませんね。見てみたかった!

先日のデンマークカクタスの写真、満開になったので差し替えました。


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見えるものにではなく

2013-10-21 20:30:01 | 聖書から
先週の木曜日から昨日まで、忙しくしていました。今日は疲れて一日中頭がぼおっとしています。
色々なことがあり、そのときそのときで神様に助けられ、たくさんの恵みをいただきました。


17日(木)は我が家での家庭集会でした。
学びの内容をブログに書いてほしいと友人から言われたので、テキストを読み返し、思い出しながら書いてみますね。

創世記13章1~13節からの学びです。

神様に示された約束の地を目指して旅をしているアブラハムは、エジプトからネゲブに上り、その後、以前祭壇を築いた場所、べテルとアイの間に行きました。甥のロトも一緒でした。

そのときアブラハムは「非常に富んでいた」と書かれています。財産がたくさんあったということです。財産というのは金や銀、そして家畜も含まれます。

アブラハムとロトは持ち物が多かったため、アブラハムの家畜の牧者とロトの家畜の牧者との間に争いが起きるようになりました。
そのとき、アブラハムはロトに別れようと提案します。
そしてロトに肥沃なヨルダンの低地と、荒地、どちらがよいか選ばせるのです。
ロトは、肥沃な土地を選びました。

教会学校でこの箇所のお話をするときは、年若いロトに良い地を譲ったアブラハムのことをほめ、謙遜の美徳を教えたりするのですが、聖書はそういう教えを書いているのではないと教えていただきました。
謙遜の美徳を語るのであれば、なにも聖書から学ばなくてもいいわけです。

アブラハムがロトに別れ話をしたのは、べテルとアイの間に行って、礼拝したあとでした。アブラハムは、本当はロトのことをとても愛しているので、別れたくなかったのです。でも、ロトとの価値観の違いなどがあって、別れることが最善だと示されたので決断したそうです。

ロトは見た目で豊かな土地の方を選びましたが、アブラハムはロトがそちらを選ぶことは最初からわかっていたというのです。ロトは、神様からの約束を大切にするのではなく、自分の生活の豊かさを求める生き方をしていました。

一方アブラハムは、神様の約束を大切にしていました。ロトが選ばなかった方の荒れた土地が神様からの約束の地、カナンだったのです。

アブラハムは、恐れからエジプトでは自分の妻サラを妹と偽ってしまう過ちを犯しましたが、まず礼拝し神様に立ち返っています。

わたしは何度も何度も失敗しますが、そのたびに神様の前に行って立ち返ることが大切なのですね。
大切なことは、失敗をしないことではなく、神様に立ち返ることだと教えられました。

右を選ぶか左を選ぶかと常に選択を迫られているわたしたちです。
物質的な豊かさ、生活の安定、家族や自分の健康などを目的にして生きるのか、神様を喜ぶことを人生の目的にするのか問いかけられている気がしました。

「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(Ⅱコリント4:18)」


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「助けてください」と言ったら……

2013-10-10 16:00:59 | 聖書から
教会学校小学科のクリスマス会でわたしの童話を劇にして子どもたちが演じることになりました。クリスマス向けに書いた童話ではないのですが、夏休みの特別プログラムのとき、ジョイクラブ(教会学校が終わってからお昼までの時間に行われている小学生の活動)に参加しない子どもたちに向けて創作童話の紙芝居をしました。

それを見た低学年主任の先生が、クリスマス会にぜひと思われたそうです。
クリスマス会のミーティングでそのことを聞き、嬉しいと同時に大変なことになったと思いました。

脚本化するのはわたしです。童話を書くよりずっと大変な作業です。
低学年の40人の子どもたちが、ひとりひとこと以上セリフを言うように作ろうとしています。
演出も考えながら何度も何度も書き直しています。

劇として成功させることが目的ではありません。それを演じる子どもたちが、イエス様のことを感謝して、心が喜びでいっぱいになって輝くこと。子どもたちの演技を見た人たちがイエス様を心から喜ぶようになることが目的です。

けれども脚本を書くのは、わたしの能力の超えたことです。
「神様、助けてください。力を与えてください。」と必死に祈っています。


ちょうどそのような折、詩編91篇からの礼拝メッセージを聞いて励まされました。
「助けてください」と神様に祈るとき、必ず神様は助けてくださるという確信を与えられたのです。
目に見えた変化が起こらなくても神様はすでに助けのみ手を差し伸べてくださっていることを感じました。

詩編91編の一部を抜粋します。


(91:1-2)
いと高き方の隠れ場に住む者は、
全能者の陰に宿る。
私は主に申し上げよう。
「わが避けどころ、わがとりで、
私の信頼するわが神」と。

(91:4)
主はご自分の羽で、あなたをおおわれる。
あなたは、その翼の下に身を避ける。
主の真実は、大盾であり、とりでである

(91:14)
彼が私を愛しているから、
わたしは彼を助け出そう。
彼がわたしの名を知っているから、
わたしは彼を高く上げよう。


この詩編の筆者は、最初は自分のことを「私」と書いていますが、3節以降「あなた」になり、14節では「彼」になります。
「神を呼び求めていると視点が変化する」と牧師先生が言われましたが、どういう意味なのかなあと思いました。

以下は、自分の考えなので、間違っているかもしれません。

私→あなた→彼

となっているのは、自分がだんだん小さくなってきているようです。
神に祈っているうち信頼が深まり、「私」という自我が砕かれていったのでは……と思います。最初は自分の視点から書いていたのですが、二人称の視点、三人称の視点から書くように変化しています。
14節以降は「わたし」すなわち神さまが主語になっています。

*新改訳聖書では、ひらかなの『わたし』は、旧約では、神様に対して。新約では、イエスに対して用いられています。漢字の『私』は人に用いられています。

書いているうちに神様のみ心が示され、神に導かれて書いたのではないかなと想像しました。



(91:15)
彼が、わたしを呼び求めれば、
わたしは、彼に答えよう。
わたしは苦しみのときに彼とともにいて、
彼を救い彼に誉を与えよう。
わたしは、彼を長いのちで満ち足らせ、
わたしの救いを彼に見せよう。


呼び求めれば答えてくださる神様に感謝!


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失敗しても

2013-09-20 21:11:51 | 聖書から
ときどき過去の失敗を思い出して心がチクチク痛むことがあります。どんなに後悔してもやり直すことはできず、なかったことにすることはできないとわかっていても、心の疼きは消えません。

『失敗は誰にでもある』『失敗にとらわれてなはいけない』と思っても忘れ去ることはできません。

今日はOさん宅での家庭集会で創世記12:10-20からアブラハムの失敗について学びました。

「すべて信じる者の父」と呼ばれるアブラハムは、同じような失敗を2回もしてしまいます。信仰のお手本になるような人の失敗があえて聖書に書かれていることは驚きです。
アブラハムは神様によって約束されたカナンにやってきますが、その地が激しい飢饉に見舞われました。それで思い悩んだ末、エジプトに行きます。

エジプト人が妻のサラが美しいのを見て、夫の自分は殺されるかもしれないと思い、サラを妹だと偽りました。
サラはエジプトの王パロの目に留まり、妻として召し入れられてしまいました。でも、パロはサラがアブラハムの妻だと知って返してくれました。神様が守ってくださったのです。
アブラハムはそのあと祭壇を築いて神様に祈りました。

アブラハムがサラを妹と偽ったことは、確かに罪深い行為でした。でも、それが失敗だったかどうかが大事なポイントではないと聞きました。
失敗をしてしまったアブラハムが神様に顔を向けて祈ったことが重要なのです。その後、アブラハムがまた同じような失敗をしてしまいますが、再び神の御手が働いて守られます。
そしてまたアブラハムは神に顔を向けて祈るのです。

信仰を持っていてもいなくても人間としての本性は同じです。すばらしい信仰者と呼ばれる人でも失敗します。でも、信仰者は帰る場所を持っています。
「失敗しても失敗しても神様に顔を上げることをやめないことが信仰者としての原点です」と聞いて、失敗ばかりしているわたしは大いに慰められました。


この次の家庭集会は10月17日(木)です。いつもは金曜日ですが、次は木曜日になります。今日来ることができなかったかたにこの場を借りてお伝えします。


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