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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

眠れぬ夜を過ごしているあなたへ

2011-12-02 17:17:21 | お茶の水聖書学院
30日から泊まりに来た母は、今日帰って行きました。
ちょうどこの時期、クリスマスの準備でしなければならないことが山積みになっていました。それで母に手伝ってもらうことにしました。

CSの子どもたちが制作するクリスマスカードの用紙を切ったり、サンプルを作ったり。
下手なピアノを聴いてもらったり……。

子ども家庭集会クリスマスで行うパネルシアターは、母の前で予行演習をしました。
母には信仰の話をよくしていますが、これまでイエス様の話をダイレクトにすることは少なかったのです。今回子ども向けのクリスマス童話を通して、クリスマスの本当の意味を伝えることができました。
母は手伝いができたことを喜んでいました。

今日は、ヒックンがまた熱を出して早朝から連れてくるというハプニングがありましたが、今回は会えないと思っていたひ孫に会えて、母は嬉しそうでした。


先日ブログに248人もの方が訪れて下さったので驚きました。自分の存在について悩みを持っておられる方が多いのではないかと思いました。

年間の自殺者が3万人を超えている現実を考えると、眠れぬ夜を過ごしている方、耐えがたい思いに悶々としている方がおられることを思い、心が痛みます。

眠れない方のために祈った2人の祈りをOBI(お茶の水聖書学院)で教えていただきましたので、紹介させていただきます。


今宵、眠りにつけぬ者、まんじりともしない者、
一夜を泣き明かす者と
どうかともにいて下さい。
安眠する者を守るよう、天使に命じて下さい。
キリストよ、どうか、やめる者をみとり、
疲れた者に安らぎを与え、(中略)
苦しんでいる者の痛みを和らげ
いたずきある者を憐れんで下さい。
             アウグスチヌス

今宵、どうか、私たちそれぞれとともにいてください。
眠れずに目覚めている者があるなら、
暗黒の時を堪えやすくして下さい。(中略)
悲しみを迎えることがあっても、
それに堪える力をお与え下さいますよう。
        ロバート・ルイス・スチーブンソン
                「祈りの花束」(ヴェロニカ・ズンデル編)


眠れないで苦しんでいるあなた。ひとりではありません。このようにあなたのために祈っている人がいることを覚えて下さい。
わたしも眠りにつく前に眠れない人のために祈っています。


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役に立たなくていい、そばにいるだけで・・・・・・

2011-11-30 12:53:42 | お茶の水聖書学院

これから母が泊まりがけできます。
パソコンでの年賀状作りをするのが第一の目的ですが、ゆっくりしたよいときが過ごせたらなあと思っています。

OBI(お茶の水聖書学院)で牧会臨床学のカウンセリングについて学んでいます。カウンセリングで最も大切な傾聴について学び始めているとき、27日の礼拝メッセージでも聴くことの大切さについて教えられました。

人の話を黙って聞くことはとても難しいことだと実感しています。
ともすれば、人の話を聞きながら、次に自分が言うことを考えていたり、話を聞いてお説教してしまったり……。
わたしはかつて言葉で失敗しました。友人の訴えを聞いて、なんとか役に立ちたいと思い、悩みを解決に導くアドヴァイスをすることばかり考えていました。それで、正論を言って友人の心を深く傷つけてしまったのです。

まるでヨブの友人のようでした。ヨブの友人は最初ヨブの哀れな姿を見て、言葉を失い7日間そばにいたのですから、ヨブの友人の方がましです。(ヨブの友人はそのあと話し始め、ヨブはそれに答えているうちに悩みが深くなります)

ヘンリー・J・M・ノーウエンの「コンパッション」には
『わたしたちが、慰めや安らぎを感じるのは、往々にしてお互いにとって「役に立たず」、控えめで、つつましくそこにいることなのだということを忘れています。』
と書かれています。

役に立とう、何とか教えよう、導こうと思う気持ちが相手の傷をかえって深くしてしまいます。役に立たなくていいんです。共にいて、共に悲しむことだけでいいのだと苦い経験の後で気づかされました。



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美しさに感動する心

2011-10-20 13:19:50 | お茶の水聖書学院
今日でブログ6周年を迎えました。こんなに続けられるとは思いませんでした。先のことはわかりませんが、背後で祈って下さる方々に支えられてここまできました。ありがとうございます。これからもよろしくおねがいいたします。


OBIの学びの中で「審美感(しんびかん)」という言葉が出てきました。美しいものを見分ける感性のことです。審美感は神様が作られてわたしたちに下さった感情ですから、誰でも持っています。美しいものを美しいと感じる心を育てることが大切だと聞いてその通りだなあと思いました。

子どものころ、身近にある自然の美しさに感動していたのに、いつの間にか気づかなくなってしまったものがあり、忙しい日常の中で大切なものを失ってきたような気がします。

ヒックンが2歳のとき、ベランダで咲いたチューリップをみて「お花きれい。笑ってる」と言っていつまでもながめていました。

わたしは子どものころ、道端に咲く白い花びらを広げている小さな花を見つけたとき、なんてきれいなんだろうと思いました。祖母に花の名を聞くと「雑草だよ」と面倒くさそうに答えたのでがっかりしました。でも、後になってその花にハコベという名がついていることを知ったとき、とてもうれしかったことを思い出します。

最近は夕方になると晴れた日は必ず窓の外を眺めます。夕焼け空をみて、空のキャンバスに描く神様の絵画を感動を持って眺めるのです。(毎日違うので飽きません)

ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の中でゾシマ長老が言っている言葉を読むと、心新たにされます。

わたしの心は……むしろ夕日を、
夕日の長い斜光を愛し、
その斜光とともに、長い祝福された人生の中の
静かな和やかな感動的な思い出を、
なつかしい人々の面影を愛している。

それらすべての上に、感動させ、和解させ、
すべてを赦す、神の真実があるのだ!


ゾシマ長老は夕日を見て、生涯の思い出と出会った人々を思い浮かべ、愛をもって受け入れています。神さまの真実を見て、感動し、和解し、赦しを体験しています。自然をみて、神様の語りかけを聞いているのです。何というすばらしい感性でしょう。

ひとつの花を見ても、雑草だとしか思えない人、どんな名がついているんだろうと思い巡らす人、神様がこのような小さな花をも造られたのだと感謝と感動をもって見る人、「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい」と言われたイエス様の言葉を思い出す人……それぞれだと思います。幼子のように「きれい」と思うだけでもすてきですね。

野に咲くゆりを見て、イエス様は
「栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花のひとつほどにも着飾ってはいませんでした(マタイ6:29)」と言われました。

これは、ゆりの美しさを最大限に表現された言葉だそうです。イエス様ご自身がご自分の感性で美しいと感じられたのです。そして、人々にも美しさを理解するように語られたと教えていただいて、イエス様ご自身が持っておられる審美感をわたしたちにも下さったのだなあと嬉しくなりました。

美しさに感動する心を呼び起こされました。


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必要なものが与えられて

2011-08-28 16:59:51 | お茶の水聖書学院

8月も末になり、暑さの中にあっても風に秋の涼しさが感じられるようになりました。

先週の木曜日、三鷹の実家に行く前にルーテル学院大学図書館を訪れました。お茶の水聖書学院(OBI)の研究論文を書くために必要な本を閲覧させていただくためでした。

あらかじめ電話でお願いしていましたが、当日は本人と分かる証明書を持参してくださいと言われました。
わたしは運転免許証も、現在有効のパスポートも持っていません。OBIの学生証もないため、保険証とOBIで作成していただいた紹介状だけが頼りでした。

もし、信用していただけなければ、図書館を使わせてもらえないでしょう。
知っている人が誰もいない場所、初めて訪れる場所へたったひとりで行くのは不安です。

でも「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。(イザヤ41:10)」という聖書の言葉を携えて、勇気を出して訪れました。

図書館に電話したとき、閲覧したい本の題名と番号を伝えていたら、本を取り置いてくださっていました。紹介状と保険証だけで信用していただけ、夏休みで閑散とした閲覧室を自由に使わせていただきました。

蒸し暑い日でしたが、クーラーが入っていないのに涼風が通り抜け、快適でした。
分厚い7冊もの本から、必要と思われる箇所に付箋をはさみ、コピーをとるという作業を限られた時間でできるのか心配でした。
なにせさびついた頭で、いつもは午後になると眠くてモウロウとしてくるのです。

図書館に着いたのは12時半。4時までには来てほしいと実家で待つ母に言われているので3時半には終わらせなければなりません。(実家はルーテルからバスで30分以内です)

最初に「神さま、わたしの能力は少ないのですが、必要な能力と集中力を与えて下さい」と祈りました。
神様は祈り求める者には、求めた以上のものを下さるのですね。途中で閲覧室に何人か入ってきたようですが、ほとんど気にならないほど集中でき、コピーもとることができました。終わったのは3時35分でした。

学生時代にもどったような気持ちでした。集中して学べることの喜びを感じました。
親切に取り計らってくださった図書館の方、ありがとうございました。

翌日、26日は日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)の童話・エッセイの会で御茶ノ水に出かけました。「旅」のテーマでエッセイを書き、合評していただきました。5枚にまとめたので、詳しく書けなかったことが自分でも物足りなく、改めて書き直そうと思っています。

帰りは雷雨にあいました。御茶ノ水駅に行くとき、ほんのわずかな距離なのにびしょぬれになってしまいました。それでも、電車(常磐線)の遅れは10分ほどだったので助かりました。

その夜にヒックンが来ました。ママが土曜日に用事があるので預かる約束をしていたのです。一晩ひとりで泊まって昨日の夜帰って行きました。

今日は教会学校奏楽奉仕、分級担当で午前中はめいっぱいでした。わたしにとっては驚異的な忙しさでしたが、ぎりぎり守られました。神様から必要な体力も与えていただいたことを感謝します。




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サマースクーリングの恵み(3)

2011-07-09 11:55:22 | お茶の水聖書学院
今年のサマースクーリングについて書くのは今日で最後になります。今日はフリータイムのときのことを書きます。
サマースクーリングは朝の7時からの礼拝で始まって、夜8時半まで、びっしりのスケジュールでしたが、2日目の午後はフリータイムでした。

観光に出かける方、近くを散策される方、同窓会に出られる方、部屋で休む方とそれぞれでした。
F先生から、通信の学生で卒業研究やレポートの書き方等について質問がある人はこの時間に来るように言われました。

わたしは卒業研究の取り組み方がわからなかったので、この機会にぜひ教えていただきたいと思ってF先生のところへ行きました。

卒業は1年以上先になる予定ですが、早くも卒業研究の準備をするように言われ、テーマは決めたもののどのようなアプローチをしたらよいか悩んでいました。
質問といっても、何を質問したらよいかわからない段階でしたが、とにかくアドヴァイスを求めて行きました。

すると、具体的なことを丁寧に教えていただいて、何をどのように調べたらよいのかわかり、ほっとしました。本当に貴重な時間でした。


それが終わって部屋に戻ろうとしていると、同室の方に出会い、
「いまから内村鑑三の石の教会と白糸の滝に行くのでご一緒しませんか」と誘われました。

内村鑑三と聞いて、ぜひ行きたいと思いました。でも、車に分乗して行くので、行く人はあらかじめ申し込んでいるようでした。

わたしは申し込んでいなかったのであきらめようとしていると、「ひとりぐらい増えても乗れるかもしれないから、集合場所まで行きましょう」と言われ、わたしは皆さんから少し離れた場所に立っていました。

すると、「15人まで車に乗れるのですが、あなたは16人目ですので……」と申し訳なさそうに言われました。
ちょっとがっかりしましたが、神様が部屋で休むように言っておられるのだなと思って部屋に引き返しました。

しばらくして、同室の人が三階の部屋まで来て、「もう一台車出してもらえることになったので、一緒に行きましょう」と言って下さったのです。
部屋は集合場所の玄関から遠く、エレベーターもなく、階段を何段も上ったところにあるのに、息を切らして迎えに来て下さいました。

わたしは、感激して胸がいっぱいになりました。もう一台車を出してくださったのもわたしを乗せるためだったようです。

行く資格のない者が無償で資格を与えられました……。ここでも神様の愛を実感しました。

上の写真は内村鑑三の石の教会です。オーガニック建築で、自然の一部になったような何物にもしばられない自由を意味する建物なのだそうです。礼拝堂は撮影禁止だったので写真が撮れなかったのが残念ですが、とてもすてきでした。



資料館には内村鑑三自筆の書がありました。




最後にもうひとつおまけの恵みを書きます。

3日目の昼食時に講師の先生の向かいの席に座り、個人的にお話しする機会が与えられました。
「祈りは神様への請求書よりも領収書が多くなければならない」とお話ししてくださいました。講義の中で言い忘れたそうで、同じテーブルの者だけが聞くことができた言葉でした。
請求書とは、神様に願い事を訴えること。領収書とは、いただいた恵みを思い出し、感謝することです。

あっという間の3日間でした。わたしは、たくさんの領収書を携えて日常に戻ってきました。

                 おわり



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サマースクーリングの恵み(2)

2011-07-08 16:12:37 | お茶の水聖書学院
イエス様が弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか(マルコ8:29)」と尋ねたとき、ペテロは「あなたは、キリストです。」と正しく答えていますが、そのときのペテロはイエス様の十字架と復活の意味を理解できていませんでした。

その証拠にその後、イエス様に「下がれサタン」といさめられています。
そのときのペテロは、ぼんやりとしか目が見えていなかったのです。
のちに復活の主に出会ったペテロはすっかり目が見えるようになり、喜びをもってイエス様に仕え、大伝道者となります。

わたしたちも日ごとに朝ごとに復活のイエス様に出会うならば、罪赦されていること、永遠の命が与えられていること、神の子とされていることを実感し、喜びが湧き上がってきます。そのために必要なことは祈りです。

神との親密な交わりである祈りは『愛の深呼吸』だと教えていただきました。
「祈りは、神様に訴えるだけでなく、沈黙して、みこころを求めて神様に聴くことが大切です。祈りには沈黙のときが必要です」と聞いて、自らの祈りを顧みました。

わたしは祈るとき、沈黙することがほとんどありませんでした。朝の限られた時間にたくさんのことを祈るので、早口になりがちです。
内容は教会の先生方のこと、次週の礼拝のために、附属幼稚園と、教会のディーサービスにために。病気の方々の癒しのために。教会学校の子供たちのために。友人、知人のために。家族のために毎日祈っています。

でも、これでは神様がわたしに語りかけられたとしても、わたしはそれを聞くことができません。
なんということでしょう。自分の訴えや願いの祈りはほとんどしていなかったとはいえ、祈りの姿勢としてはよくなかったのです。

「主よ。お話ください。しもべは聞いております」というサムエルの祈りをしてから聖書を読み、とりなしの祈りをしようと思いました。

そしてさっそく6日の朝からそれを実行しました。
サマースクーリングの最初の朝はどしゃぶりの雨でしたが、翌朝は快晴でした。早く目覚めたので外に出て、自然の中でデボーションをしました。
「主よ。お話ください。しもべは聞いております」と祈ってから聖書を読みました。

毎日読んでいるところの続き、出エジプト記26章です。エジプトを出て荒野を旅するイスラエルの人々に幕屋の作りかたを細かく指示した内容で無味乾燥とも思われる箇所でした。

エジプトから逃げるようにして出て来て荒野にいるイスラエルの民にアカシヤ材や金や青銅を使って作れと言われるのは、少し酷なのではないかとさえ思えます。いままでは、このような箇所はなぜ書かれているのか意味がわらないので目で文字を追っていくだけでしたが、はっと気づいたことがありました。

エジプトを出ていく時、神様はエジプト人がイスラエル人に好意を持たせるようにして、金や銀の飾り、着物などをはぎ取るように言ったことが聖書(出エジプト3:21、22)に書かれていたのを思い出したのです。エジプト人から得た物で神様から示されたとおり幕屋を作ることができたのでしょう。

神様は不可能なことを要求されることはない。必要な物をあらかじめ備えてくださる。そう示されて、わたしの心に光が差し込んだように明るくなりました。

イエス様はときどき、わたしができないと思われる大きなことをするように言われます。でも、そのために必要なことはすでに備えられているのだと気づいたのです。

現在も重荷を背負って、その重荷に喘いでいたのですが、イエス様が重荷をすべて取り除いて下さったことを感じました。背中が軽くなって、心に喜びがあふれてきました。
イエス様は生きておられます!

M先生が言われました
「イエス様が『わたしが生きるのであなたも生きよ』とおっしゃるので、わたしは生きる。わたしの命は復活のキリストの命に支えられている。」

                     つづく


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サマースクーリングの恵み(1)

2011-07-07 20:56:06 | お茶の水聖書学院
サマースクーリングでは講師のM先生が「霊性を深めるために」と題して90分×5回のメッセージをしてくださいました。

書き留めたノートは20ページにもなります。すべてを紹介することができませんので、
メッセージを聞いて感じたことを中心に書かせていただきます。

まず驚いたのは、M先生の熱意と若さです。81歳になられるそうですが、背中をまっすぐ伸ばされ、力強いメッセージをしてくださいました。


霊性を深めるためにはまず、生活の中でイエス・キリストの恵みと愛の豊かさを味わうことです。
そのためには毎朝の静思のときに、イエス様が次の3つのことをあなたに言っておられることを確認します。

①あなたの罪は赦されています。
②あなたは私の愛する子です。
③今日も私はあなたと一緒にいたいのです。

このとき、イエス様はこのわたしとも一緒にいたいと思われるのだろうか? わたしは例外じゃないだろうか?と疑いが起こることがあります。

イエス様が取税人ザアカイに語りかけた言葉は次のようでした。
「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」新共同訳(ルカ19:5)

「嫌われ者のザアカイの家に泊まりたいと言って下さるイエス様です。あなたの家に泊まりたい。あなたと一緒にいたいと思わないはずがありません。」
と言われるのを聞いて、イエス様はこんないい加減な人間のわたしの家にも泊まりたいと言って下さっているのだなあと思い、涙が出そうになりました。

心の中に喜んでイエス様をお迎えすればいいのです。そうすれば、イエス様が心の中に住んで下さいます。なんと嬉しいことでしょう。

また、「大切なことは十字架につけられたままの復活のイエス様に出会うことです。」とM先生が言われました。

最初、「十字架につけられたままの・・・」とは、どういうことなんだろう? と思いました。
ガラテヤ3:1に「十字架につけられたイエス・キリストが・・・」とありますが、文語訳では「十字架につけられ給いしままのキリストが」と書かれているそうです。

わたしたちの罪が赦されるためにキリストは十字架にかかって死んでくださいました。復活されたということは、罪の赦しが有効になったということです。

十字架のイエス・キリストだけを思っていたら、自分の罪深さを思い、自分のせいでキリストが十字架につけられたのだと自分を責めてしまい、落ち込んでしまうことがあるかもしれません。

罪深い者だったけれど、キリストによって赦された。新しい人になったと確信するためには、復活のキリストに出会わなければならないのです。

「あなたの罪は赦されています」と言うために、復活のキリストは来てくださったのですね。

「わたしはキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きているのです。」(ガラテヤ2:20)


                        つづく



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サマースクーリング

2011-07-06 20:15:15 | お茶の水聖書学院
4日からお茶の水聖書学院(OBI)のサマースクーリングで軽井沢へ行き、今日帰ってきました。
先日も書いたように昨年はサマースクーリングに申し込んでいたのに当日の朝、熱を出して行けなかったのです。

実は、今年も熱が出るのではないかという恐れがありました。でも、祈っているうちにきっと行けるという確信に変わっていきました。
そして当日の朝、元気に目覚めたときは、喜びが湧き上がってきました。感謝の祈りをして出かけました。

参加者名簿を見ると、スタッフの先生以外は知っている方がひとりもいませんでした。
行くときは孤独で、とても緊張していました。

けれども、軽井沢恵みシャレーに着き、同室の方と自己紹介をしたとたん緊張はほどけました。

わたしが名前を言うと「去年熱出して参加できなかった方ね」と、覚えていて下さったのです。ただ覚えておられただけでなく、去年スクーリングの間ずっと祈っていて下さったと聞いて、胸が篤くなりました。
神様はすでに主にある友人を用意して下さっていたのです。

同室の4人とはすぐに打ち解けて、会話がはずみました。同室の方だけでなく、食事の折、同じテーブルに座った方(そのつどメンバーが代わりました)と親しくなりました。

「教会はどこですか?」「土浦めぐみ教会です」「あの有名な土浦めぐみ教会!」
という会話から始まって、気がつくと教会の自慢話をしているわたしでした。

(そういえば、S先生も他の所へ行かれると、教会の自慢話ばかりしているとおっしゃっていました)

学びはとてもすばらしかったのですが、次回紹介させていただきます。

今回のサマースクーリングでは、前回行けなかった分と合わせて2倍の祝福と恵みをいただけたようです。

お祈りして下さった方、ありがとうございました。



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預けられたもの

2011-05-21 11:06:00 | お茶の水聖書学院
OBI(お茶の水聖書学院)で奉仕について学んでいます。
奉仕といえば、一般の人はボランティア活動を思い浮かべるでしょう。

わたしは、教会生活の中での奉仕を思い浮かべていました。そうではなくて、奉仕の範囲は日常生活全般にわたっていることに気づかされました。

奉仕(stewardship)とは、神が与えて下さった物を管理して行うことなのだそうです。

『奉仕は、私たちに内在する神様ご自身のご性質の表現である』
『自分に与えられた物で何ひとつ神様に与えられていない物はない』
と教えていただきました。

イエス様が語られたとえの中で、タラントのたとえがあります。
主人が、しもべにそれぞれ5タラント、2タラント、1タラントを預けて旅に出ました。5タラント預かった人は、それで商売をしてさらに5タラントもうけました。2タラント預かった人も2タラントもうけました。

ところが1タラント預かった人は土を掘ってお金を隠しました。
帰って来た主人は、しもべたちからそれぞれ報告を受けて、5タラントのしもべと2タラントのしもべには「よくやった。良い忠実なしもべだ・・・・」と褒めます。

ところが、1タラントのしもべには、1タラントを用いないで隠しておいたことをしかり、取り上げてしまいました。(マタイ25:14-29)

わたしは最初この箇所を読んだ時、1タラントのしもべは、お金をなくしたわけではないのにどうしてしかられたのかわかりませんでした。また、3人とも同じ額を預けなかったのはなぜだろうとも思いました。1タラントしか預けられなかったしもべは、ほかの二人より額が少ないからすねていたのでしょうか……。

でも、1タラントというのは当時の約6000日分の賃金だそうです。一日の賃金を一万円と考えると6千万円にもなります。額の大きさに驚きました。
6千万円も預けられて、少ないなんて言えないですね。

わたしたちは神様からタラント(才能)を預けられているのです。神様は、それをご自身の栄光のために用いてほしいと願って託されたのです。少ししかタラントがないから何もできないなんて言えないですね。

わたしに今与えられているお金や時間や健康。これらも神様から預けられたものですから無駄にできないなあと思いました。


一昨日、久々にわたしのHP生かされて…土筆文香(詩の部屋)を更新しました。ごらんください。



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本科に編入しました

2011-03-31 21:07:15 | お茶の水聖書学院
一昨日は御茶ノ水へ出かけてから、都内の実家に泊まりました。震災後初めての東京です。

都内はお店が節電で少し暗いこと以外は、いつもと変わった様子はみられませんでした。(土浦ではブルーシートのかかった屋根があちこちで見られます)

常磐線が4割しか動いてないので、つくばエクスプレス(TX)で行きました。
我が家からはJR土浦駅の方が近いので、都内へ行く時はいつもJRを利用しています。今回はバスでつくば駅までいって、TXに乗りました。

TXも節電のため本数が減っていましたが、それほど待たされずに乗れ、区間快速で1時間足らずで秋葉原に着きました。
秋葉原から御茶ノ水までは1駅です。

今回、御茶ノ水に行ったのはお茶の水聖書学院(OBI)の編入試験のためでした。
2006年に通信科の聴講生として入学しました。5年間ゆっくりと学んできましたが、本格的に学びたいという思いが与えられて本科の通信科に編入を希望しました。

試験があるというので緊張しました。最初は3月15日の予定でした。震災で2回延期になり、ようやく迎えた試験日でした。

何を準備したら良いのかわからなかったので、今まで学んだことを復習しました。30回くらい提出したレポートも読み返しました。すっかり忘れていたことを少しずつ思い出していくのが精いっぱいで、記憶力の衰えた頭になかなか入っていきませんでした。

重要と思われることをノートに書き出して、調理や洗いものをしながら覚えました。
結局、試験には勉強したことはひとつも出ませんでしたが、たくさん勉強できたことが嬉しかったです。(学生時代は勉強が嫌いだったのに不思議です)

面接もありましたが、温かく迎えられている感じがしました。顔と顔を合わせてお話しできること、祈っていただけることは素晴らしいと思いました。(いつもはDVD講義なので……)

昨日、家に帰ると早くも合格通知が届いていました。(バンサーイ!)
すでに単位は3分の2をとっているので卒業研究の準備にかかるようにと言われました。
これからは卒業をめざして進んでいきます。意志の弱い私です。やり遂げる力を主に求めつつ・・・・・・。


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心の宝として

2010-10-29 12:19:55 | お茶の水聖書学院
急に寒くなったので、こたつを出しました。昨日は土浦の最高気温が11℃だったのです。
人一倍寒がりのわたしは何枚も重ね着をしています。週末には灯油を買ってファンヒーターを出さなければ・・・。

OBIの20周年記念誌に寄稿したわたしの文章を紹介させていただきます。
               
          心の宝として

わたしは、イエスさまを知らない子どもたちに神様の愛を伝えようと童話や児童小説を書いています。
 
志を抱いて書き始めてから十年以上になるのですが、文章は上達しないし、思いがなかなか伝えられなくて行き詰っていました。導きを求めて祈っていると、

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」のみ言葉が迫ってきました。
神様のことを第一に求めるには具体的にどうすればいいのだろう……と考えていたとき、OBIで通信の学びがあることを知りました。

とびつくように受講を申し込み、旧約聖書から学び始めました。これまで旧約聖書は難しいので敬遠しがちでした。また、旧約では神の愛より厳しさの方が印象づけられていました。
でも、DVD講義を受けて、印象が変わりました。『ねたむほどの愛』といわれた神の愛の深さと大きさを教えられたのです。

小預言書の学びでは目が開かれるような思いでした。ホセア書では、姦淫の妻ゴメルを受け入れるホセアの苦しみは、神様が背信の民、イスラエルを受け入れることを示していると教えていただき神の愛に心打たれました。

神様は、繰り返し主に立ち返るように訴えていますが、イスラエルの民は神様から離れてしまいます。まるでかつてのわたしのように思えました。
それでも契約のゆえ、神様は救い主をイスラエルから誕生させて下さいました。
また、ヨナ書では預言者として召されたのに神様に逆らってしまったヨナに対し、愛をもって取り扱って下さった神様の素晴らしさに感動しました。

ゼカリヤ書でメシヤ預言を読んだときは、心が震えました。
金太郎飴のように旧約聖書のどこを開いてもキリストが浮かび上がってくると聞いていましたが、その意味がようやくわかりました。

2年半旧約聖書を学び、2009年8月から新約聖書の学びに入りました。
福音書を学んで、今まで読み過ごしていた聖書の言葉がピックアップされ、感動に震えて思わず涙することもしばしばです。

マリヤが「心に留めておいた」という箇所を英語で「心の宝とした」訳されているものがあると教えていただき、なんと素晴らしい言葉なのだろうと思いました。

OBIの学びのたびに心の宝が増えていきます。そのことが大きな喜びになり、神様への想いが熱くなってきます。

子どもたちに神様の愛を伝える小説は未完成ですが、宝でいっぱいになった心で、あふれるような神様の愛を実感しながら書き続けていきたいです。
感謝をこめて……。


*お茶の水聖書学院のカテゴリーを追加しました。

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感謝・感激・感動

2010-10-26 13:23:49 | お茶の水聖書学院
23日はJCP(日本クリスチャン・ペンクラブ)の童話エッセイの会へ行って実家に泊まりました。25日はOBI(お茶の水聖書学院)の20周年記念会に参加してきました。

23日と25日の開催場所がどちらもお茶の水クリスチャンセンターだったので、お茶の水から30分ほどの場所にある実家に泊まりました。

間に日曜がはさまれていたので、24日は吉祥寺の武蔵野福音自由教会で礼拝を受けました。土曜夜に実家に泊まることはめったにないので、武蔵野福音自由教会へ行ったのは5年ぶりでした。知り合いはひとりもなく、牧師も新しい先生だったので心細かったのですが、「インマヌエル~神が共に~」というメッセージに励まされました。

OBIの記念会は、案内が送られてきたとき、出席しようかどうか迷いました。通信で学んでいるので、自分が学院生であるという自覚が薄かったからです。
参加申し込みをしたあとも、出席者が140人と聞いて気後れしていました。
でも、出席してよかったです。たくさんの恵みをいただきました。

20周年を前にして9月に学院長の増田誉雄先生が天に召されました。わたしはDVDで増田先生の授業を受けているので、直接お目にかかったことがなくてもショックでした。

わたしでもショックを受けるのですから、直接授業を受けられた方、増田先生と共に20周年記念会の準備をしておられた理事の方々はどれだけ落胆されたことでしょう。
そんなできごとがあって、行われた記念会でした。

感謝礼拝に出て、OBIについて知らないことがたくさんあったことに気づきました。
OBIがOCC(お茶の水クリスチャンセンター)と深い関わりがあること。
OCCは宣教師のアイリーン・ウェブスター・スミス先生が学生伝道のために御茶ノ水の一等地に土地を購入して創立してくださったこと。
講師の先生の中に本田弘慈先生、羽鳥明先生がおられたこと。
OBIの目標。

OBIの目標については、OCCの理事長である村上宣道先生から教えていただきました。

村上先生のメッセージを紹介させていただきます。
OBIで聖書を学ぶことによってもたらすものは次の3つです。
①救いに関する知恵が与えられる。
②人間がどう生きたらよいか生活基準が明確にされる。
③よい働きのために十分整えられる。

OBIは、信徒であるレイマンを育成し、教会から世界に送り出すことを目標としています。
使徒の働き8:4には「他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた」と書かれています。迫害にあって散らされたクリスチャンたち(ディアスポラ)が、その地方でみことばを宣べ伝えたことが記されています。使徒ではなく、信徒たちが伝えたのです。

異邦人に最初に福音を伝えたのは、信徒のピリポでした。伝道者アポロに教えたのは信徒のプリスカとアクラでした。

レイマンの語源は「ラオス」で「神の民」という意味です。
平信徒にすぎないと言っていてはいけません、レイマンには神のみ言葉を述べ伝える使命があります。レイマンだからこそ社会の中であかしすることができます。


力強いメッセージを聞いて、熱いものが湧き上がってきました。

「OBIでは3K(感謝・感激・感動)の体験が生まれる」と聞きましたが、通信のわたしでもそれを体験しています。学ぶたびに感激し、感動し、そして感謝しているのです。

わたしにとってOBIは聖書の知識を学ぶだけでなく、講師の先生の生き方やおあかしを通して、神の臨在を感じ、生き生きとした信仰を持てるようになる場となっています。OBIを紹介してくださったM姉に感謝しつつ、これからも学び続けていきたいです。

*新しくお茶の水聖書学院のカテゴリーを追加しました。

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願いがかなえられて

2010-06-05 15:01:20 | お茶の水聖書学院

わたしは3年前からお茶の水聖書学院(OBI)の聖書科通信コースで学んでいます。
最初は不安でした。レポートもあるので、ついていけるのかな・・・自宅で学べるのはありがたいけれど、意志薄弱なので途中で挫折してしまわないかな・・・と。
それは全くの杞憂でした。学べば学ぶほど「もっと聖書を知りたい」という気持ちが募って、意欲が沸いてきます。

それまでは、聖書のほんの一部しか知らなかったのにそれで満足していました。でも、聖書には神様の愛が満ち溢れています。聖書を学ぶことによって、神様がどれだけわたしを愛してくださっているかわかって、心が熱くなっていきます。

【御言葉(聖書の言葉)の中に生きることの大切さ】
教えていただいて、眼が開かれたようです。

いつもDVDを通して教室の外側から授業を受けているのですが、中に入ってみたいという気持ちが強くなってきたとき、サマースクーリングの案内が届きました。
サマースクーリングは、軽井沢で毎年7月に行われています。今までも案内が届いていたのですが、いつか参加できればいいなあと思うだけでした。
内気な性格なので、初めてのところにとびこんでいく勇気もなかったのです。

今年は、OBI創立20周年記念の年です。
わたしの心は動きました。というより、動かされたと言った方が正確でしょう。なんとか参加したいと願うのですが・・・8月にはJCPで関西に行く予定があるので、とても無理だと思いました。

でも、参加できるように祈りました。主人の許しが得られるように。費用も与えられますようにと。
そうしたら、そのふたつの祈りはすぐにかなえられました。こんなに速やかに、かなえられるとは・・・・・・・自分でも驚いています。

そして、今日申し込み手続きをしました。来月が待ち遠しいです。

OBIサマースクーリングは一般にも公開されているそうです。OBIのHPをご覧ください。

写真はハナキリン

ダニエル書を学んで

2008-12-29 17:39:29 | お茶の水聖書学院

昨日からヒックンが来ています。姪が会いたいと言ったので、泊まりがけで来てもらいました。姪はひとりっ子なので、ヒックンのことを弟のように可愛がってくれます。ヒックンは最初は姪を見て、こわばった顔をしていたのですが、すぐに慣れてたくさん遊んでもらい、ご機嫌です。

今年一年を振り返ってじっくり書く暇がないので、今日はOBI(お茶の水聖書学院)のリポートに書いたダニエル書を学んだ感想を紹介します。
2年かかってしまいましたが、「旧約聖書との思想と概説」(1.2.3.下)すべて学び終え、今月初めに最後のリポート提出ができました。


ダニエルと3人の若者が偶像に捧げた食べ物を拒否した勇気ある行為。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの3人がネブカデネザルの像を拝むことを拒否して炉の中に入れられたこと。ダリヨス王以外を拝むと獅子の穴に投げ込まれるという法令が出されたことを知ってもダニエルがいつものように日に三度彼の神に祈ったこと。これらのできごとに深く感銘しました。

仏事で焼香が回ってきたとき、まわりの人の目を恐れて焼香をするふりをしてごまかしたり、お祭りの時、神輿をひかない理由をはっきり言うことができなかったり…優柔不断な行動をとってしまった自分に心を痛めています。
もしキリスト教が迫害されていた時代に生きていて、偶像礼拝を強要されたらはっきり拒否することができるのだろうかと不安です。
偶像に捧げた食べ物を拒否した4人は、よく考え、よく祈り、選んだ言葉で話していると伺って、どんな問題が起きたときにもよく祈って熟慮することを教えられました。
ダニエルたちのように恐れずに信仰に堅く立って歩んでいきたいと思いました。

幻については、わからないことが多いのですが、信仰を確かなものにするためには、色々な立場の考えを知ることが必要だと教えられました。
晩年ダニエル自身が幻を見せられたとき、いつのことなのか問いかけていますがダニエルにも知らされませんでした。なぜ神さまはダニエルに幻を見せ、その解き明かしをされなかったのかわかりませんが、ダニエル書には永遠の命や復活について記されており、それをイエス様が引用しておられること。ダニエル書が旧約と新約の橋渡しになっていることを知って、意味深いことなのだなあと思いました。

終末については、わからないだけに不安がありましたが、今回ダニエル書を学んで、何が起ころうとも神様は救いを備えてくださっておられるのですから、だいじょうぶだという確信が与えられました。御手の中にあって、平安をいただくことができました。感謝いたします。
「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ(ダニエル書10:19)」
のみ言葉が、自分に語られたような気がしています。


講師の先生から「一生懸命旧約聖書を学んでいる姿に感動を覚えます。どうぞ来年もつづけて頑張ってくださいますように。」とメールをいただいて感激しています。

列王記を読んで

2007-12-06 14:31:39 | お茶の水聖書学院

今日は教会の家庭集会のクリスマス会でレインボーミュージックジャパンのコンサートがあり、母と一緒に行って来ました。すばらしいコンサートでした。主を心からほめたたえているその賛美に胸が熱くなり、涙がこぼれました。

これから、母と一緒に実家に向かいます。大掃除の手伝いをしてきます。土曜日には帰ってきますが、留守の間コメントは受け付けない設定にしておきますので、帰ってきましたらまたよろしくお願いします。


お茶の水聖書学院ネットコースで学んでいることのほんの一部を紹介させていただきます。

今、旧約聖書の列王記を学んでいます。昔、イスラエルには王がありませんでしたが、民衆の希望でサウルが王としてたてられました。でも、サウルが神さまに従わなかったので、神さまは預言者サムエルによってダビデに油を注ぎ、ダビデを王としました。ダビデが苦難の後、ダビデ王朝を築き、その子ソロモンのとき国は大いに繁栄しました。でもソロモンの子、レハブアムの代で国は南北に分断されてしまいます。


列王記には分断後の北イスラエルと南ユダ王国の王の名が連ねられています。
読んでいると、北と南が交錯しており、しかもヤロブアムとかエホヤキムとか舌をかみそうな名前が出てきます。また、ヨアシュやヨラムのように同じ名の人が北イスラエルと南ユダにもいるのですから混乱します。
学んでいて次第にその混乱がなくなり、すっきり整理されてきました。今、一生懸命南ユダの王の名を順に覚えています。さびついて記憶力のにぶった頭なので、なかなか覚えられませんが……。


列王記には、北イスラエルと南ユダ王国の王が神さまの目にかなうことを行ったか、それとも悪を行ったかについて書かれています。王のなした功績や国の繁栄よりもこのことが重点的に書かれているのは、神さまの視点から見て大切なことは何かを示しているように思います。
イスラエルの多くの王たちは偶像礼拝をし、金の子牛を拝み、まじないをしました。何度も主は警告し「このようなことはしてはならない」と命じておられるのにもかかわらずです。イスラエルはついに滅ぼされてしまいます。


一方南ユダは、北イスラエルより長く続きます。それは、神さまの目にかなったことをした王がいたからでしょう。でも、結局ユダもバビロンによって滅ぼされてしまいます。エルサレムは焼かれ、人々は捕囚としてバビロンに連れて行かれます。

南ユダ王国が滅ぼされたところを読むと胸が痛みました。
「ユダを主の前から取り除くということは、実に主の命令によることであって」
と書かれていますが、愛と赦しの神さまがなぜ? 神さまがダビデに約束されたことはどうなったの? と思いました。

そのような中で、エレミヤは70年の後に解放されることを預言します。イザヤはイエス・キリストがダビデの子孫から生まれることをはっきりと示します。そこに神さまのなさることの確かさを感じます。人はなかなか約束を守り通すことができませんが、神さまは約束を必ず守られるかただということを教えられました。
また、歴史を支配しておられるのは神さまだということもはっきりと示されました。


今まで列王記は、ややこしい王の名がたくさん出てきて、読んでいてもさっぱり意味がわかりませんでした。現代の日本に生きるこの者と、どうかかわりがあるのだろう?と思っていました。けれども、そこに隠されているメッセージがあったのです。
列王記を読んで、人間として生きるのにいちばん大切なことは、
「何をなしたか」
ではなく、「神さまに対して忠実であったかどうか」「神さまをどれだけ愛したか」であることを教えられました。

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