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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

夢見ることもはるかに及ばないすばらしいこと

2017-03-28 15:49:38 | 教会
「あの人は才能があるからいいわね。わたしなんか、何の才能もなくて……」という声が時々聞こえてきます。

わたし自身もそのように思った時期がありました。病気ばかりしていたわたしは、健康という能力が欠けているのだと思っていました。事をなそうとしても、健康でないと何もできないので、健康を祈り求めていました。でも、必要な時に必要な体力が与えられていることに気づいてからは、そのように祈ることをやめました。

教会では才能のことを「タラント」とか「賜物(たまもの)」と言います。賜物の多い人と少ない人がいるのはなぜでしょう。神様は不公平なのでしょうか。

タラントのたとえ話が聖書(マタイ25:14~30)に書かれています。タラントとはお金の単位です。主人は3人のしもべにそれぞれ5タラント、2タラント、1タラントを預けて旅に出かけました。

しばらくして主人が戻ってきたとき、5タラント預けられたものはそれで商売をし、2倍に増やしていました。2タラント預けられたものも2倍に増やしていました。主人はこの2人を誉め、「よくやった。よい忠実な僕だ。あなたはわずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」と言いました。

ところが1タラント預けられたものは、それをなくさないように地を掘って隠していました。なので、1タラントのままでした。主人はその僕を叱って、1タラントを取り上げ、10タラント持っている者にあげてしまいました。というたとえ話です。

この話を読むと、1タラント預けられた僕が気の毒になります。なくしたわけではないのになぜ主人はそんなに怒ったのでしょう……。神さまから預けられたタラントを用いなかったから、しかられたのです。

また、3人に預けられた金額が違うのはなぜでしょう……。
主人が僕にお金を預けるとき、聖書には『おのおのその能力に応じて』と書かれています。
わたしたちひとりひとりの状態を知っている主人(神)が、霊的成長度合いに応じて額を決めてくださったのです。

1タラントとはどれぐらいの金額なのでしょう。6000万円~1億2000万円もの大金だそうです。少ない人でも1タラント預けられているのですから、「わたしは何の才能もない」と嘆くのはおかしなことです。

日曜日の礼拝メッセージでは、才能と賜物の違いをはっきり教えてくださいました。

「私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。(エペソ3:7)」

パウロはローマの市民権と、ギリシャ語、ヘブル語を使える能力を与えられていました。この才能を用いて立身出世することも可能でした。
でも、福音を伝えるために才能を用いました。

才能、能力を神に喜ばれることに用いた場合、それを賜物というのだそうです。

聖書の中にいましめや勧めが書かれているとき、必ず約束があると教えていただきました。

「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを超えて豊かに施すことのできる方に、(エペソ3:20)」


リビングバイブルでは
「私たちが大胆に願い求め、夢見ることもはるかに及ばないすばらしいことを、その偉大な力でなされる神様に栄光がありますように。」

と書かれています。

夢見ることもはるかに及ばないすばらしいこととは何でしょう? なんだか、ドキドキします。神の祝福を大胆に願い求めます。



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杖一本だけ持って

2017-03-23 15:53:40 | 教会
昨日水曜礼拝でマルコ6:7~13からのメッセージを聴きました。
イエス様が弟子たちを2人一組として遣わしたときのことです。
そのとき、旅の必需品(パン、袋、お金、下着)を持っていくことを禁止され、一本の杖だけ持って、靴をはいて出かけなさいと言われました。

なぜ持ち物を禁じられたのでしょう……。ないと困るものばかりなのに……。
イエス様は、その代わりに弟子たちに汚れた霊を追い出す権威を与えました。

イエス様に従うことは案外難しいことです。旅に必要だと思って持っていこうとしたものは持っていけなくなりました。なくても必ず与えられるという信頼が必要なのだそうです。
何に信頼するかというと

・イエス様の力への信頼
・イエス様の備えへの信頼
・イエス様の守りへの信頼の3つです。

イエス様に従うことは、イエス様により頼むということです。

わたしは、旅行などに出かけるとき、人より荷物が多くなります。
寒かったらどうしよう、暑かったらどうしよう、具合悪くなったらどうしよう……あれこれ心配で、不必要なものまでバッグに入れてしまうからです。
心配するということは、イエス様を信頼していないということかもしれません。

TEENS(中高科)の奉仕を頼まれたとき、何の準備をしたらいいのだろう。何を持っていったらいいのだろうと、そればかり考えていました。
何もいらない。身一つでいいのだと教えていただきました。

先のことが心配になったら、その先にイエス様がおられる、イエス様が守ってくださると信じます。そのとき、必要を備えていただけるからです。


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最後のぽんぽこクラブ

2017-03-20 16:40:54 | CS(子供伝道)
先週の土曜日は最後のぽんぽこクラブでした。

ぽんぽこクラブとは、Mちゃんの家で行われた子ども家庭集会のことです。月に一度の土曜日、数人の小学生が集まってきます。聖書のお話をし、賛美をし、室内ゲームをしてきまた。クリスマス会にはケーキのデコレーションをしたり、プレゼント交換をして楽しみました。その集まりは8年間続けられました。
8年前、小学1年生だった子どもはもう中学2年です。

お話とゲームは牧師先生と交代で行い、賛美の伴奏は教会学校の先生が弾いてくれました。
教会の長老がきてくださり、落語を披露してくださったこともありました。

わたしは創作童話を披露したり、室内ゲームを考えたり、準備をするのも楽しい時間でした。

先日はゲームとして百人一首をやりました。昔わたしが子どものころ使っていた百人一首で遊びました。坊主めくりもして楽しめました。
子ども家庭集会は19年の間、どこかの家庭で行ってきました。最初はわくわく子どもクラブという名で我が家で行うと、娘と同じマンションの子が10人も集まってきました。

その後、教会員で家庭を開放してくださる家庭が次々与えられ、続けられたのです。
ここにきて、家庭を開放してくれる家が途絶えてしまいました。残念ですが、仕方ないです。

これまで集った子どもたちはどうしているかな?と思うことがあります。
心の中にみ言葉が少しでも残ってくれているといいなあと願いつつ……。

長い期間、続けさせていただいたこと、感謝の気持ちでいっぱいです。

そして、昨日は小学科の教会学校教師会、最後の日でした。教会学校に通っている子どもたちが成長してたくさんの実をみのらせてくれることを祈りつつ、小学科からティーンズへ向かって出発です。

「御霊の実は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。(ガラテヤ5:22)」

写真はMちゃん手作りのお菓子。

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理不尽な出来事、残虐な事件が起きたとき・・・・・・

2017-03-16 15:56:50 | 聖書から
殺人事件、戦争、テロなど、残虐な事件の報道を見聞きすると、神様はどうしてこんなにひどいことが起きるのを許されるのだろう……と思うことがあります。
何年か前ですが、ユニセフ親善大使の黒柳徹子さんが、飢えて死んでいく子どもたちを見て「こんな理不尽なことがあるから、神様はいないと思う」と言っていました。
果たして理不尽なこと、暴虐な事件が起きることが、神様がいないという証拠になるのでしょうか?

厳しい現実の中で神様を見いだしていくのは難しいことです。暴虐な事件が起きている時、神は沈黙しているようで、祈っても、祈っても事態が改善せず、悪くなっていく一方の場合があります。
そんなとき、どのように考えたらいいのでしょう。神様はなぜ助けてくださらないのでしょう……。

水曜礼拝の旧約聖書士師記9:42~49の学びで、その疑問に対する解決の糸口を示していただきました。
ギデオンの息子、アビメレクは、自分が王になるため70人の兄弟を虐殺しました。その後シェケムの町から裏切られると、復讐だと言って、神殿の地下に逃げ込んだ千人の人たちを火で焼いてしまいました。

聖書は虐殺があったことだけを記し、それが良いとか悪いとかは書いていません。
なぜこのようなおぞましいことが聖書に記されたのか……それは、自己欲のため自分に不都合な者を抹殺したいという人間の罪について考えてほしいということではないでしょうか。


残虐な事件が起きると、事件を起こした人だけが悪いと考えがちです。そして、事件を起こした人と自分には何の関係もない、何の共通点もないと思ってしまいます。

でも、人間は優しい面と残虐な面と、どちらも持っているのではないでしょうか。
いじめをテーマにした映画を観て涙を流した人が、映画館から一歩外に出たとき、一緒に行った友達をいじめたという話しがあります。

殺人犯を見て、自分は人を殺したわけじゃないからあの人より罪が軽いなどと言えるでしょうか。

理不尽な出来事、残虐な事件が起きたとき、それを神様のせいにするのではなく、人間の罪が事件を起こしていることを思い、自分自身の中にもある冷たい心を考えるようにと教えていただきました。

写真は暗唱聖句大会の賞品クッキーです。細かいところまでプリントされています。

日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。私のエッセー掲載されています。
ぜひ、ごらんください。



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最もたいせつなこと

2017-03-11 16:33:57 | 教会

先日水曜礼拝で「復活」というDVDを観ました。
キリストの処刑に携わったローマ軍の百人隊長クラヴィアスが主人公です。聖書に出てくる百人隊長とは別人で、架空の人物です。

クラヴィアスはキリストが墓に葬られたのち、遺体が消えてしまったと報告を受けます。ものすごい勢いでキリスト復活の噂が広まっていったので、ピラトから調査を命じられます。クラヴィアスは弟子たちが遺体を隠したのに違いないと思い、弟子たちを捜します。そして、弟子たちの隠れ家に乗り込みました。そのとき、彼は驚くべき光景を目にします。
死んだはずの男が、弟子たちに囲まれて、にこやかに話をしていたのです。

その人は、確かに自分たちが十字架につけた男です。
トマスという弟子が部屋に入ってきて、キリストに抱きついています。キリストは「見なさい」と言ってその弟子に手と脇腹の傷跡を見せました。

昇進、成功、繁栄を人生の目標として生きてきた軍人のクラヴィアス。
彼は、死人がよみがえるなんてありえないと思っていました。しかし、復活したイエスに会って驚愕し、価値観に変化が起こります。
また、弟子たちが弱さや裏切りの中で葛藤しながらイエスに従おうとする姿を目の当たりにして、少しずつ変えられていきます。
イエスが十字架にかけられる前、三日目に死人のうちからよみがえると弟子たちに言っていました。それなのに、弟子たちでさえ最初はイエスの復活を信じられなかったのです。

トマスは傷に手を入れてみるまでは信じないと言いました。
「見ずに信じる者は幸いです。」とイエスは言われました。

死んだ人がよみがえるとは、人間の常識を超える出来事です。聖書に書かれていても疑う人は多いでしょう。

当時のように、弟子たちが遺体を盗んで、復活したと嘘のうわさを広めていると思っている人もいるでしょう。クラヴィアスは「なぜキリストは大勢の人たちの前に姿をあらわさないんだ」と言いましたが、それはたやすいことで、大勢の人の前に復活した姿を見せれば、一度に多くの人が信じることでしょう。

でも、それはほんとうの信仰とは言えません。
見ずに信じることをイエス様は期待されています。

臆病な弟子たちが、復活のイエスに出会った後、勇気を得て、自分が危険にさらされることなど気にせずに力強くキリストを述べ伝えるようになります。そのことからも、キリストの復活は本当のことだとわかります。
わたしたちクリスチャンは、キリストの復活を真剣に信じています。

聖書の言葉
「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。
キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、
また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。(Ⅰコリント15:3~5)」

(ケパとは12弟子のひとり、ペテロのこと)

「そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたの信仰も実質のないものになるのです。(Ⅰコリント15:14)」

DVDを視聴して、よみがえられたイエス様に実際に出会ったように感じ、心が震えました。


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立ち上がれ、出発せよ!

2017-03-08 16:17:48 | CS(子供伝道)
今日も真冬のような寒さですが、日差しの明るさに春を感じます。リハビリにせっせと通ったので、肩の痛みはだいぶ良くなりました。通院はまだ続きますが、楽に腕を動かすことができるようになってうれしいです。


わたしが教会学校の教師の奉仕を始めたのは、23年前、娘が小学1年生のときでした。ひとりの先生が急に辞められることになって、年度途中で急きょ頼まれたのです。

土浦に引っ越して2年もたっていないときでした。前の教会で幼児クラスの奉仕をしていたことが伝わって、わたしが選ばれたようでした。
車の運転ができないので、ふたりの子どもを自転車の前後に乗せて30分ぐらいかけて教会に通っていました。いちどは桜川の土手の道でころんで、
「もうお母さんの自転車には乗らない!」と子どもたちにしかられたことがありました。三人とも無傷だったのは奇跡のようでした。
近くに住む教会員の方が、見るに見かねて(?)車で迎えに来てくださるようになって助けられました。

それから何年もたち、息子は2児の父親、娘はもうすぐ母になろうとしています。
間もなく教師25年になるので、2年後、きりのいいところで引退させてもらおうと思っていました。そして当然来年度はまた低学年を担当するつもりでした。

2週間ほど前、教会スタッフの先生から思いもかけない電話を受けました。
TEENS(ティーンズ)の教師になってほしいという電話でした。TEENSとは、中高科のことです。
ずっと低学年を受け持っていたのに高学年をとばして中高生の先生ですって!
驚いてしばし言葉も出ませんでしたが、なぜわたしがTEENSに呼ばれたかがわかってくると、受けた方がいいという思いが強くなってきました。でも、お返事は祈ってからにしますと言って、すぐには返事できませんでした。

かつてクリスチャン・ペンクラブの理事長だった池田勇人先生から「成長」の教案誌の中高生のところを書いてくれませんかと頼まれたことがありました。今奉仕している小学科を書くことさえできないのに、中高科の箇所を書くことなど、できませんと断ったことがありました。そのとき、池田先生は「小学科を担当しているの? 中高科担当だとばかり思っていた」と不思議そうに言われました。そのことを思い出しました。

わたしは中学生のとき、友達がひとりもいなくて孤独な一年を過ごしました。そのときのことを「キャンドルの灯」という題で小説を書いて応募したら入選し、クリスチャン新聞に連載されました。
本になった「リピート・シンドローム」では、高校生のドラッグ、リストカット、摂食障害について書きました。そのようなことから池田先生はわたしが中高生の担当教師だと思われたようです。

わたしが中高生に対して熱い思いを持つのは、中学2年のとき、自分の存在価値がわからなくて、ずっと死にたいと思っていたことから始まります。いま現在死にたいと思っている子どもたちに神さまの愛を伝えたいと、望んでいたのです。
小学生にというより、中高生に伝える必要があるのではないかと思いはじめました。

聖書を読むと「立ち上がれ。出発せよ。(申命記2:24)」と書かれています。

慣れ親しんだ場所から移動するのにはエネルギーがいります。引き裂かれるような思いもします。
同じ教会内でも小学科とTEENSの奉仕者の接点はほとんどありません。どのようなことをやっているのか全く知らないので、不安です。
でも、わたしがかつて受け持った子どもたちが大きくなってそこにいます。
必要な力……体力、能力はきっと神様が与えてくださるでしょう。

60歳の旅立ちです。



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野良犬ではなく

2017-03-01 20:28:02 | 教会
3月に入ってしまいました。年を重ねるにしたがって、時間のたつのが早く感じられると言われていますが、まさにその心境です。

この前の日曜日の礼拝ではマタイ15:21~28よりメッセージが語られました。
聖書にはイエス様がツロ、シドンの地方に行かれたとき、カナン人の女が出てきて、悪霊に憑かれている娘を治してくださいと頼む場面があります。
そのとき、イエス様はその女の人に一言もお答えになりませんでした。

愛に満ちたイエス様なのになぜこんなに冷たいのかと疑問に思っていたところでした。

イエス様はさらに「わたしはイスラエルの羊以外のところには遣わされていません」と言われます。

同胞のイスラエル人のところには遣わされているけれど、異邦人のところには遣わされていないから癒しの業は行わないということでしょうか……。


それでも女の人は必死な思いでイエス様のところに来てひれ伏し「主よ。わたしをお助けください」と言いました。

イエス様は「子どもたちのパンを取り上げて子犬に投げてやるのはよくないことです」と、また冷たいようなことばを発します。

女の人は、犬扱いされて、ひどいと思います。でもよく考えてみると、子犬と言われたのです。野良犬ではなく人に飼われ、大事にされている子犬と言われたのです。

女の人は、自分が子犬のような存在だと思いました。
そして、この方はメシア(救い主)であると確信して言いました。

「主よ。その通りです。ただ、子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」

それに対してイエス様は、「あなたの信仰はりっぱです」と褒めてくださいます。
そして「その願いどおりになるように」と言ったとき、女の人の娘さんが癒されたのです。

もし、わたしだったら子犬扱いにされたことに腹を立てて、「もういい!」と言って帰ってしまうかもしれません。
でも女の人は、自分が子犬のような存在だと謙遜に認めたのです。そして、イエス様のことを救い主だと信じるのです。
謙遜になること、信じて求め続けることの大切さを教えられました。




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2017年の暗唱聖句大会

2017-02-27 16:02:31 | CS(子供伝道)
昨日は暗唱聖句大会でした。
子どもたちにみ言葉(聖書の言葉)を覚えることの大切さを知ってほしくて毎年行われています。

今年も工夫を凝らしたゲームを考えましたので紹介します。

暗唱聖句大会の一か月前に、覚える聖句を書いた冊子を作って子どもたちにあらかじめ配っています。子どもたちは家や教会でそれを覚えます。
暗唱聖句大会当日は1~3年生約30人の子どもが参加し、10:30~12:30までの2時間で行いました。
(時を同じくして高学年30人も別の場所で行っています。)


最初に子どもたちを4つのグループに分け、話し合ってリーダーを決めます。
次にルールを説明します。
ゲーム1
上の句下の句ゲーム
学年ごと3か所で円になって座ります。
ひとつの聖句を半分に切り、前半部は教師が持ち、後半部を書いたカードをカルタのように並べます。読み手は聖書箇所をまず読んでから、前半部分を読み、少し間をおいて後半を読みます。百人一首の要領で……。お手付きにわざと間違えた言葉を入れているカードも含めました。

20の聖句を完璧に覚えている子が数人いて、聖書箇所を読んだだけで取っていました。レベルが高いです。

ゲーム2
早押し虫食いクイズ
パワーポイントに聖句を出します。一部をーーーーとしてそれが何か言える子は、早押しチャイム押します。一番に押した子のランプが光るので、その子どもが答えられたら10ポイントもらえます。間違ったら、次の順番の子どもが早押しチャイムを押します。
正解数はグループの得点になります。

ゲーム3
みことば並べ替えクイズ
聖句をバラバラに切ったカードを教会の庭や空き部屋の壁に貼り付けておきます。(貼り付けるのは、はがしてもやぶれない養生テープが最適)中にダミーが含まれています。
聖句を取りにいく子と、並べる子を分けたりしてグループごとに作戦会議をしてから、開始します。
3種類のみ言葉を早く正しく並べられたチームに得点がたくさん入ります。
しっかり話し合って分担しているチーム。全員で同じ場所へ取りに行くチーム。みんな一生懸命考えてやっていました。


集計して表彰し、少しだけ差をつけたお菓子を賞品として配りました。一位のチームの子も最下位のチームの子も満足した顔をしていました。
これを機会に子どもたちが聖句をどんどん覚えるようになってほしいと願っています。



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苦境に立たされた時

2017-02-21 17:06:36 | 教会
友人から突然右手が動かなくなって困っていると電話がありました。わたしも肩が突然のように痛みましたが、動かないほどではありません。なんとか家事はできます。全く動かなければ、どれだけ不自由なことでしょう。「努力して直すから大丈夫」と友人は言いましたが、心配です。

苦難は突然やってきます。
あなたは苦境に立たされたとき、どうしますか?

先日の礼拝では『苦難の時も』という題のメッセージを聞きました。

パウロは牢に入れられ、数えきれないほど鞭打たれ、何度も死に直面したと手紙に書いています。

そのような苦難のとき、ピリピの教会の人はパウロのために祈り、支援しました。ピリピの教会の人たちはチームメイトとなってパウロを支え、パウロはそれで苦境を乗り越えられたのです。ピリピの教会の人とパウロがよい関係を築いていたからなのですね。


苦境というと、わたしは病気になったことを思いだしますが、大病をすると、自分の弱さと限界をいやというほど知らされます。自分はもう少しできる者だと思っていたのに、自分の努力ではどうしようもなく、ただ無力であることに気づかされます。

でも、『苦境がその人を本物にする』『神が苦境を恵みに変えてくださる』と聞いて、希望が与えられました。

「あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人々であり、私は、そのようなあなたがたを、心に覚えているからです。(ピリピ1:7)」

と聖書に書かれています。私とはパウロのことで、あなたがたとは、ピリピの教会の人たちのことです。
苦境の中にいっしょにいてくれる仲間がいることは幸いなことです。苦境の中にいる友をどのようにして支えられるか思いめぐらしています。



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よい正しい道

2017-02-14 16:16:46 | 聖書から
教会学校で行う暗唱聖句大会の日が迫ってきました。
大会の約1か月前に聖句の書いた冊子を配り、子どもたちに覚えるようにすすめまています。暗唱聖句大会の日は、冊子に書かれた聖句を用いてゲームをします。小学生が70人ぐらいいるので、高学年、低学年分かれて行います。

今年は暗唱聖句大会委員になったので、み言葉を選ぶことから始まって、冊子作りをし、当日のゲームの準備をしてきました。
今年は、なるたけ覚える聖句の意味が子どもたちにわかるようにと工夫しました。昨年からテキストに従って小学科礼拝でお話ししてきた旧約聖書のサムエル記から聖句を選びました。新約では、イエス様の受難と十字架、よみがえりの箇所の聖句を選びました。

それプラス主の祈り、チャレンジ聖句(以前このブログで紹介した詩編139:1-18)と5曲のこひつじソング(聖句を歌にしたもの)です。
子どもたちに負けないようにとわたしも覚えました。チャレンジ聖句は10日ほど前に全部覚えられ、友人に聞いてもらって合格をいただきました。

次は20の聖句です。家事をしながら、お風呂でも一生懸命覚えています。聖書箇所も覚えるのですから大変です。
20の聖句の中でわたしがいちばん心にとまったのは、次の聖句です。

「私はあなたがたによい正しい道を教えよう。ただ主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさい。主がどれほど偉大なことをあなたがたになさったかを見分けなさい。
(Ⅰサムエル12:23-24)」


この言葉は、預言者サムエルがイスラエルの民に言った言葉です。そのころイスラエルには王がありませんでした。神を王としていたので、人間による王は必要なかったのですが、民は戦(いくさ)のときなど、実際に指揮をとる王が欲しいと願い、王を求めました。それでサウルが最初の王としてたてられます。

イスラエルの民が王求めたとき、民はそれが罪であったと示され、恐れます。
そのような民に対してサムエルが言ったのが、この言葉です。

神様は、よい正しい道を教えてくださるというのです。『正しい』の前に『よい』がついているのはなぜでしょう。『正しい』だけでも『よい』だけでもいいのに同じような言葉を繰り返したのは、強調しているのだと思います。『最善の道であって、これ以外に道はない。』という意味も含まれているでしょう。

ただ主を恐れ、心を尽くし……

恐れるというのは、怖がるという意味ではなく畏敬の思いを持つということです。
心を尽くすというのは、イエス様が言われた言葉「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。(マルコ12:30)」の中にもあり、旧約聖書の何か所にも書かれています。

最後の一節、「主がどれほど偉大なことをあなたがたになさったかを見分けなさい。」を読んだとき、なぜ「偉大な」ことなのだろう、なぜ「見分けなさい」なのだろうと、思いめぐらしました。

サムエル記はモーセの時代から450年たっています。でも、出エジプトの奇跡を子孫に確実に伝えていったので、当時のイスラエルの民は、神様がしてくださった大きなことといえば、出エジプトの奇跡を思うでしょう。それはただ大きいのでなく、偉大なのです。

これまでのわたしの生涯で神様がしてくださったことを思い起こしてみると、なんと、偉大なことがたくさんあったのです。
何度も死の危機に陥り、精神的危機にも陥ったわたしですが、神様によって助けられました。思い起こしてみると、感謝の思いに溢れます。神様のしてくださった、たくさんの偉大なことを見分けて自分史を書こうと思っています。



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はいはい わかりまちた

2017-02-08 16:39:53 | 日記
昨日は冷たい風の中、病院のはしごをしました。
月に一度の内科の診察が終わってから、整形外科へ行ってリハビリをし、図書館と郵便局に寄って帰ってきました。

それぞれの場所に行くのに自転車で10分ずつぐらいかかります。風が強くて、向かい風のときは押して歩かなければなりませんでした。
肩はだいぶよくなってきました。痛みはまだありますが、夜はよく眠れるようになりました。


日曜日の午後は4年生のヒックンがママと一緒にサッカーの試合に行くというので、弟のナルクンを預かりました。
ナルクンは来月3歳になります。

よくおしゃべりするようになりました。何を言っているかわからないこともありますが、8割ぐらいは、わかります。

自分のことをぼく、わたし、おれ、と言っています。「ぼく」「おれ」はお兄ちゃんのマネ。「わたし」は、保育園の女の子のマネです。

エリック・カールの「はらぺこあおむし」の本が大好きで、家に来るたびに「読んで」と持ってきます。
「あおむしくん、おなか痛いから、葉っぱ食べたんだよ」と文章で言えるようになりました。あおむしがさなぎになったときの絵を見て、「お芋だ!」と言ったのには大笑いしました。確かに色も形も、お芋そっくり!

男の子は電車か車に興味を持つと思っていたら、ナルクンはどちらにも興味を示さず、大工さんセットのネジ回しや、お絵かき、CDをかけて歌ったり踊ったりすることが好きです。車のおもちゃはお兄ちゃんのがたくさんあるのですが、ちっともそれで遊びません。

昼寝をさせようとしたとき、大声でさわいだので、「静かにしなさい!」としかると

「はいはい、わかりまちた」(さしすせそが、たちつてとになっています)
と言ったので、びっくりしました。

誰のマネでしょう。ヒックンはそのようには言いません。保育園の女の子かな? もしかしたらテレビかもしれません。そう言いながら、さわぐのをやめません。言葉の意味はわかっているのかどうか……でも、その言葉を使うタイミングはあっていますね。

とうとう昼寝はしませんでした。保育園では毎日昼寝していますが、ここでは意地でも寝ないと思っているようです。折り紙でお財布を作って紙のお金を入れると、大喜びして、しばらくお店屋さんごっこして遊んでいました。
夕方になって数回「ママは?」と言っただけで泣きません。 

夕飯のとき、急に眠気が襲ってきたようで「ねむい、ねむい」と言いながら大泣き。横にして背中をトントンするとすぐ眠りました。限界だったのですね。その直後にママとお兄ちゃんが帰ってきましたが、気づかず眠っていました。

娘に新しいいのちが授かりました。夏に生まれる予定です。ナルクンのいとこになります。そのうちナルクンと遊ぶようになるでしょう。そのときは、ナルクンよろしくね。

日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。ここをクリックしてご覧ください。


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苦難はなぜあるのでしょう

2017-02-02 20:56:24 | その他
肩こりがひどくて、寝ていても痛くて目が覚めるようになったので、整形外科に行ってきました。3か月前ぐらいまでは左肩が痛かったのです。肩回し体操をしていたらよくなってきました。ところが今度は右肩が痛くなって、肩を回すことすらできません。利き腕が右なので、日常生活も不自由するようになりました。

病院では、レントゲンを撮ってもらいましたが、予想通り「五十肩」と言われました。
原因はよくわかってないようです。

電気を当て、マッサージを受け、腕を延ばすような運動をしたら、ずいぶん楽になりました。しばらくリハビリに通わないといけません。年をとるということは、痛みや苦痛との戦いがだんだん増えてくるということなのかもしれません。

昨日教会で「天国からの奇跡」のDVDを観ました。
色々なことを考えさせられました。

テキサス州に両親と姉妹たちとともに暮らしている少女アナは、消火器疾患の持病がありました。病院を転々としますが、原因がわからず、苦しんでいます。食べたものが消化できないので、朝はサプリメントを飲み、そのほかは経管栄養で補っています。管を入れたり抜いたりが大変で、楽しいはずの食事が苦痛になっています。
痛みもだんだんひどくなり、腹がふくれてきました。遠く離れたボストンの大病院に子どもの病気専門の名医がいると聞いて、母親がアナを連れて行きます。

予約しても一か月以上待たされるので、母親は予約しないで行くのです。
普通だったら追い返されるところ、受付の人の配慮によって翌日看てもらうことになりました。レストランで知り合った黒人の女性に水族館に連れて行ってもらったりします。

暗くなりがちなドラマですが、周囲の人たちのやさしさ、ユーモアに思わず吹き出してしまう場面もありました。小児科医の明るさ、牧師のユーモアあふれる説教が暗闇の中の光のようでした。

ボストンの病院で診察を受けましたが、難病で治らないことを告げられ、母親は打ちのめされます。神様に一生懸命祈っているのにどうして治らないのか、神様はいつまで沈黙しておられるのか、母親は悩みます。

母親の気持ちはよくわかります。気の遠くなるほど長い間祈っているのに事態は悪化するばかり。そんなとき、信じて待つことができるでしょうか?
教会へ行くと、「お子さんがそんなひどい病気になったのは、あなたかご主人が罪人だからじゃないの?」と教会の人に言われ、母親は傷ついて教会へ行くのをやめてしまいます。この場面を観たとき驚きました。

聖書には生まれつきの盲人を見て弟子たちがイエス様に尋ねる場面があります。
「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。

イエス様は答えます。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」
病気になったり、悪いことが起きたりするのは、その人か家族の誰かが悪いことをしたせいだと思う人が今でもたくさんいますが、決してそうではないのです。

それでは、苦難はなぜあるのでしょう。

DVDの内容を最後まで書くと、ネタバレになるので、この辺にしておきますが、
結論としてアナは治ります。アナが病気になったことは、神のわざが現れるためだったと納得のいく、感動的な結末でした。ぜひDVDをご覧ください。

これは実話をもとに作られた映画で、2015年に公開されたそうです。最後の方で実在のアナたちがでてきます。
アナに起きた奇跡を信じるか信じないか。神様の存在、天国があるということを信じるか信じないか。見る人ひとりひとりに問いかけられているようです。



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愛の中にとどまって

2017-01-30 20:59:43 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
土曜日は、日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)の例会でした。今年は自分史を書くことになったこともあり、たくさんの新しい方が来られました。

文章を書く訓練をするなら、文章教室に行ったり、文章の勉強をすればいいのですが、JCPでは、あかし文章を書くことを学びます。
あかし文章とは何でしょう。JCP理事であった満江巌先生は、「文は信なり」と言われ、あかし人として、よき文章を創作するように勧められました。あかし人とは、キリストをあかしする人のことです。

聖書には「あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく生ける神の御霊によって書かれ……(Ⅱコリント3:3)」と書かれています。

JCPの趣旨には、「わが生涯がキリストの作品として与えられていることを自覚し、信仰生活に励むこと」とあります。自分の生涯が、存在そのものが、キリストの作品なのだと思うと、襟が正されます。

JCP礼拝ではヨハネ15:4-5からメッセージを聞きました。

「わたしはぶどうの木であなたがたは枝です。(ヨハネ15:5)」

イエス様がこの言葉を語られたのは、生涯の最後の時期でした。最後の晩餐で、ユダが出て行ったあと、惜別説教として語られたのです。

とどまるとは、単にじっとしているというのではなく、強くとどまる。英語ではstayより強いremainという言葉が使われているそうです。

イエス様は「何があってもわたしにとどまっていなさい」と、十字架を前にして言われました。
この後、イエス様は捕らえられ、弟子たちは散り散りになってしまいます。

イエス様はどんなお気持ちだったでしょう。せつなる思いで弟子たちに「わたしにとどまっていなさい」と言われたのですね。
それは、弟子たちにだけ言われたのでなく、わたしに言われた言葉だと受け止めました。

イエス様にとどまるとき、実というプレゼントが用意されています。

聖書には次のように書かれています。
「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことはできません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。(ヨハネ15:4)」

「イエス様がいのちを捨ててまでわたしたちを愛してくださったことを思い、イエス様の愛の中にとどまりましょう。イエス様に堅くとどまり続け、活動しましょう」と勧めを受け心の中に灯がともされたような気持ちになりました。


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暗唱の力

2017-01-26 21:00:48 | CS(子供伝道)
「この世のに”雑用”という用はない。」天に召された渡辺和子さんは、言われました。
ひとつひとつのことを丁寧にやっていかなくては……と思います。
そのためには、時間が必要です。
他者のために時間をさくことは、その人を愛することだと聞きました。リーダーは、人に仕えるものだと聖書では教えています。

来月は教会学校で暗唱聖句大会が行われます。
冊子が出来上がったので、一生懸命覚えていますが、年々記憶力が悪くなっているようで、せっかく覚えてもすぐ忘れてしまいます。
聖句20個と長い聖書箇所(詩編139編1~18節)を覚えるのが課題です。
詩編139編はとても好きな箇所なので紹介します。


1主よ、あなたは私を探り、私を知っておられます。

2あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、わたしの思いを遠くから読み取られます。

3あなたは、私の歩みと私が伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。

4ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。

5あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。

6そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて及びもつきません。

7私はあなたの御霊から離れてどこへ行けましょう。
私はあなたの御前を離れてどこへのがれましょう。

8たとい、私が天にのぼっても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。

9私が暁の翼をかって海の果てに住んでも、

10そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。

11たとえ私が「おお、やみよ、わたしをおおえ。わたしの回りの光よ、夜となれ」と言っても、

12あなたにとっては、やみも暗くなく、夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。

13それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。

14私は感謝します。
あなたは私に奇しいことをなさって、恐ろしいほどです。
私のたましいはそれをよく知っています。

15私がひそかに造られ、地の深いところで仕組まれたとき、私の骨組みはあなたから隠れていませんでした。

16あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべて書き記されました。
わたしの造られた日々が、しかも、その一日もないうちに。

17神よ。あなたの御思いを知るのは、なんとむずかしいことでしょう。
その総計は、なんと多いことでしょう。

18それを数えようとしても、それは砂よりも数多いのです。
私が目覚めるとき、私はなおも、あなたと共にいます。



暗唱していて、力が与えられました。神様がどういう方か知らされて、心から感謝しました。
私がすわるのも立つのも、これから話そうとしている言葉さえすべて知っておられる神様。

母の胎の中でわたしを組み立ててくださった神様。
どこへ逃れたとしても、いつもそばにいてくださる神様
やみがない、昼のように明るい夜。光そのものである神様
ハレルヤ、あなたをほめたたえます!



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星のように

2017-01-23 20:38:07 | 教会
夜空を見上げると、雲がない日は星が見えます。星といえば、ロマンチックな気持ちになりますが、どうしてこんなにたくさんの星があるのでしょう。その数はいくつなのでしょう。宇宙には地球から見ることができない星もあるし、地球も星のひとつだと思うと不思議な気持ちになります。

神様はどうしてたくさんの星を造られたのでしょう。星の存在にはどういう意味があるのでしょう。
教会の年間聖句は「いのちの言葉をしっかり握って、暗い世に、星のように輝きなさい。(ピリピ人への手紙2:15-16より)」です。

これには、曲がついています。『星のように輝きなさい』というフレーズが繰り返されます。
『星のように』とはどういうことなのでしょう……。

昨日のメッセージから教えられたこと、感じたことを書かせていただきます。

ピリピ2:16、新改訳聖書では「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」と書かれています。
聖書には訳によって異なった言葉が使われることがありますが、「世の光として」のところを、「灯台のように」、「星のように」、「星のごとく」とも書かれています。

灯台やランプの光は、人間がつけたり消したりできますが、星は人間の力の及ばないところにあります。
神により創造された星は神秘的な力があり、神の偉大さの象徴でもあります。

旧約聖書のアモス書5:8には、「すばる座やオリオン座を造り、暗黒を朝に変え、昼を暗い夜にし、……」と書かれています。

『星とは、人間の力をはるかに超えたもの。神のみこころを遂行するために星を用いられる。』と聞いて、イエス様誕生のときに星が出現したことを思い起こしました。

星は不動の道しるべであり、神の変わらない真理のようです。また、確実でゆるがない光をたたえています。
三人の博士たちは、星に導かれて救い主のところへやってきました。
アブラハムは、子孫が満天の星のようになると神様から言われました。


『2017年。暗い邪悪な世界にあって、星のように輝きなさい。あなたがたを見る人に力と希望と勇気が与えられるように輝きなさい。』と勧めを受けて、星のようになれたらいいのにと思いました。


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