メガネ屋さんに行って来た

 郷秋<Gauche>は学生時代には両眼2.0の高視力であった。当時は2.0以上の視力を測る小さな文字が無くて、要するに2.0以上と云う事だったと思う。両眼2.0の視力がどう云う事かと云うと、電車を待っているこちらのホームから、反対側のホームの屋根から吊るしてある時刻表が読めるくらいの視力である。アフリカのサバンナ辺りで暮らしている人は3.0とか4.0とか、とにかく視力が良いらしい(同時に聴力も)。いち早く遠くの獲物や危険な動物を見つけることで生き延びてきた部族の末裔だと云う事だが、それじゃ郷秋<Gauche>は福島の野生児であったと云う事か。ちなみに高視力とは、遠視と云う事とはまたく意味が違う、らしい。

 で、その後郷秋<Gauche>の視力がどうしたかと云うと、20代後半からの数年間、コンピューターのプログラミングをするようになって、一気に0.3まで落ちたのである。コンピューターのプログラミングと云っても今どきのPC相手の仕事ではなく、IBMの370とか4331といったホストマシンの端末に向かってDMSと云う簡易言語でオンラインの画面を設計する仕事だった。当時のグレーのスクリーンに緑の文字が表示されるディスプレイにほとんど一日向かうのだが、緑色の文字を見続けていると白いはずの壁がピンク色に見えたりして驚いたものだ。

 いずれにしても当時の厚生省からVDI作業に関わる何とか指針みたいなものが出される前だったので相当目を酷使した結果なのだろう、学生時代に2.0以上だった視力があっという間に運転免許証に「眼鏡等」の条件がつくまで落ちてしまったのだ。その後はしばらくクルマを運転する時にだけかけていたメガネなのだが、10年程過ぎると、メガネをかけたままでは近くのものが見えなくなってきたのだ。悲しいかな、所謂「老眼」の始まりだ。

 それでもデスク上での仕事にはメガネは必要なかったのでメガネをかけるのはクルマを運転する時だけで、随分と長い間近眼専用のメガネで過ごしてきたのだが、ここに来て深刻になって来たのがチェロを弾く時に楽譜が見えないと云う困った現象。数メートル先の物はメガネをかければ見えるし、机の上の物、本やPCのディスプレイはメガネなしではっきり見えるのであるがチェロの向こう側、1メートル先にある楽譜がメガネをかけても外しても見えないのである。困った。

 困った挙句に苦肉の策で楽譜を拡大コピーして使っていたのだが、これはもう老化現象、メガネを作るしかないと覚悟を決めて、今日の仕事帰りにメガネ屋に寄って来た。どういう時に見えてどういう時に見えないのか伝えて検査。こんなメガネではどうですかと云われてかけたてみたのは、遠中両用と云うやつだ。これをかけて見てくださいと云われて視線を移したモニータ―の上にはなんと楽譜が表示されている。1メートル先の楽譜がくっきりはっきり。楽譜が見えなくて困っている人が多いから、こんな画面が用意されているのだろうと、感心しきり。

 メガネが出来上がるのは来週だけれど、これでもう初見もばっちり!かどうかは判らないけれど、少なくとも楽譜が見えなくて弾けないと云うことは無くなりそうではあるが、楽譜が見えても見えなくてもやっぱり弾けないと云う深刻な事実が露呈する可能性もある。いずれにせよ歳はとりたくないものだが、こればかりは逃れる術もない。やれやれ。


 例によって記事本文とは何の関係もない今日の一枚は、しらす丼を食べに行った江の島で、「ついで」に撮った写真の内の一枚(^^; この写真は、順光ではそこそこの性能を発揮する往年のレンズも逆光になるとこれほど多くの問題を露呈すると云う一例として掲載した。使用レンズは往年のと云うにはまだ新しい、AF-S Zoom Nikkor 24-85mm F3.5-4.5G(IF)。D100用の標準ズームとして2002年に登場したレンズだが、これ程までに見劣りする(具体的には過大なフレアとコントラストの低下。掲載の写真はPSでコントラスト・彩度を高めているので、問題傾向はオリジナルよりはかなり改善されている)とは意外であったが、逆光と云う極端な悪条件でなければ、今でもそこそこ使えるレンズであるとも云える旧24-85mm F3.5-4.5Gではある。そうは云っても財布事情が許せばすぐにでも新しいVR付に買い替えたいところであるが、「いや、順光ならまだまだ使える!」と自分に云い聞かせて「ポチッ」を思い止まっている郷秋<Gauche>である。

コメント ( 0 ) | Trackback (  )