アブソリュート・エゴ・レビュー

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僕の村は戦場だった

2014-10-03 22:41:06 | 映画
『僕の村は戦場だった』 アンドレイ・タルコフスキー監督   ☆☆☆☆

 タルコフスキー監督の長編デビュー作を日本版ブルーレイで鑑賞。モノクロ作品。

 少年兵の短い生と死を描いたフィルムで、一種の反戦映画といっていいと思う。少年のみずみずしい心象風景と無残な現実の対比がキーになっていて、特にラスト、少年の死を私たちが知った後で映し出される浜辺で遊ぶ子供たちの映像は、無垢なセンチメントをたたえていて涙を誘う。戦争映画とタルコフスキー映像詩が半々にミックスされた印象を受けた。

 同じく戦争と子供たちを題材にした『橋』と比べてみると、タルコフスキー作劇法の特異性がはっきりする。『橋』では残酷な現実に苛まれる少年たちを描くことで観客にショックを与え、傑作となりえていたが、本作では誰が死ぬ場面も出てこない。主人公の少年の死は記録で暗示されるだけで、敵兵に捕まる描写すらない。少年をとりまく大人たちの死も、やはり描かれることはない。ただし死体は出てくる。ブルーレイの解説によれば、これは「他人の死は追体験できない」というタルコフスキーの考えにもとづくものだという。戦争映画だから人が死ぬ場面や流血をバンバン入れれば説得力が増す、あるいは真実性が研ぎ澄まされるわけではないことが良く分かる。そんなものはただの刺激に過ぎない。タルコフスキーはそんな俗悪な演出方法には見向きもしない。

 トレードマークである映像美もやはり異彩を放っている。白樺の林、林檎を積んだトラックと馬、煤煙の中の十字架のシルエットなどに、タルコフスキー映像詩の萌芽を見ることができる。まあ萌芽というにはすでに顕著で、タルコフスキーはやはり最初からタルコフスキーだったのだなという感じがするが、後の作品で見られるほとんど宗教的法悦に近い戦慄や、増殖して映画全体を覆いつくすかのような異界の感覚はまだ見られない。

 ただし、タルコフスキー特有の瞑想的な空気はやはりここにも流れている。タルコフスキーの映画に写実はなく、すべてが心象風景と言えるだろうが、言葉を変えればすべてが何かしらの象徴性を帯びている。この映画では少年の回想場面や夢の場面が明白な心象風景だけれども、そうでない戦場の場面であっても即物的なリアリズムではなく、タルコフスキーの感性によってフィルターをかけられ、濾過され、結果的に異化されている。そしてそれはクローズアップやカメラ移動の多用によって更に強調される。タルコフスキーのフィルムが夢の感覚を濃厚にたたえているのはそのせいだ。

 主人公である少年は母親や妹を敵に殺され、復讐心に燃えている。一人でも敵兵を倒し、味方の戦闘に貢献しようと固く決意している。大人たちはなんとか少年にそれを止めさせ、学校にやろうとするが、彼はそれを頑として聞き入れない。怒り、わめき、泣く。自分は戦闘に役立つと主張する。それでも受け入れられなければ逃亡する。そして眠ると、母親や妹の夢を見る。結局大人たちはあきらめ、少年をスパイとして敵地に送り込む。

 驚くべきことに、この映画のストーリーはほぼこれだけだ。あとは先に書いたように記録が発見されるだけである。この大胆な構成も、この映画の特異な美しさに一役かっている。まるで未完であるかのような、あるいはどこかに欠落があるかのような不均衡。ところがこの奇妙な座りの悪さが、実のところ映画を詩的に完成させている。これを芸術の謎というならば、タルコフスキーの映画は常に巨大な謎の集合体であって、それは基本的にこの長編第一作でも変わらない。



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