ローマに死す
象の墓場のことをいつ、誰から聞いたのかも憶えていないし、何十年間もすっかり忘れ去っていたのは確かだったが、その時マディソン街のドクターのオフィスでマルセルの頭に浮かんできたのはそのことだった。死期を悟った象は自分の死にざまを誰にも見せないよう、人目につかない場所にある「象の墓場」に向かうという。そのイメージが突風のように脳裏を駆け抜けて目をくらませたために、マルセルは数秒間口がきけなくなった。ドクターは青白く光るレントゲン写真の前で、憂愁の中にひとしずくの威厳を湛えたまなざしで、マルセルを見つめていた。そこにあるのは職業的な気遣いの色だった。マルセルが戸惑いを隠そうと咳払いした時、ドクターは彼の肩の上にそっと右の掌を置いたが、その仕草があまりにも思慮深く、デリケートだったために、マルセルはあらためて無情な宣告を突きつけられた気がした。「半年とおっしゃいましたか?」とマルセルは呟いた。しかしもちろん、聞き返す必要はなかった。
クレタ島出身の40代の男、ミラノからサンフランシスコ、シカゴ、ニューヨークと移動するたびに新しい事業を立ち上げ、今では全米有数の会社経営者にして資産家となったマルセルの頭脳は、これまでになかったほどに冷たく澄み渡っていた。そして一つの決意がすみやかに形作られていった。ドクターとの会話を手短かに切り上げ、儀礼的な握手を交わし、ジャクソン・ポロックの版画が飾られた待合室を抜けて、午後のマディソン街に出た。オフィスに戻ると、誰も取りつがないよう秘書に命じて肘掛け椅子にもたれた。これから何が起きるにせよ、自分なら必ずうまくやってのけられるはずだと考えた。
その日の夕刻、運転手つきのメルセデスがマルセルを自宅まで送り届けた。玄関ホールを通り抜けながら、ため息が出るようなロココ様式の邸宅も、アジアや東ヨーロッパ各地から取り寄せた数々の古代美術品も、白い大理石も、手入れの行き届いた緑の芝生も、燦然たるボヘミアン・グラスのセットも、すべてが色あせて見えることに気づいた。夕食をとりながら、生涯を通じて愛してきたヘレンと子供たちの顔さえやはり空しく、無意味なものに感じられた。とすると、おれの人生とは一体何だったのだろう? けれどもそこに驚きはなく、彼の気持ちは乾いたままだった。
夕食後は書斎に閉じこもり、受話器の中から聞こえてくる低い声に耳を傾けた。会長、すべての準備が整いました。ありがとう、長い間世話になったね。翌朝、家を出る時、ヘレンには出張で数週間留守にすると告げた。メルセデスの窓の中を遠ざかっていく妻の姿は、まるで古いスライド写真か何かのように厚みを欠き、平べったく見えた。後部座席にもたれ、マルセルは自分を押し流そうとする圧倒的な無力感に耐えるべく目を閉じた。眠たくはなかったが、夢の中を泳いでいるような気がした。
ローマのホテルにチェックインしたのは、夜の10時過ぎだった。目立たない場所にある、こじんまりとした、けれども最高級のもてなしを最高級の人々に対して供するホテル。フロントは静まり返り、青みがかった薄闇から古い肘掛椅子、大理石のテーブル、浮き彫りを施された列柱、蝋燭立てが浮かび上がっていた。部屋に入り、バスタブのぬるま湯につかった。いまや彼は行方不明者たちのの仲間入りを果たし、亡霊のように地上から掻き消えた人間となった。家族が気づいて騒ぎ始めるまで数週間はかかるだろう。そして、騒いだところで結局どうにもならないだろう。
こうして始まった最後の日々は次のような日課からなるものだった。7時前に目を覚まし、シャワーを浴びた後、ベランダでマフィン、卵、スープ、サラダ、キャヴィア、ヨーグルトなどの朝食をとる。しばし朝の読書をする。外出用の服に着替え、散歩に出かける。緑が美しい教会のパティオでベンチに座り、したたる緑に囲まれて休憩する。画廊をいくつか覗き、多分図書館にも寄る。ホテルに戻り、パスタと肉料理でたっぷりした昼食をとる。午睡をとる。その後、再び外出する。朝よりもうちょっと遠くへ足を伸ばして、時には狭い路地奥の小さな映画館で映画を観る。夜はまたホテルの部屋に戻って、特別あつらえの贅沢な夕食をとる。夕食のあとはワインを飲みながら読書をするか、あるいは部屋に備え付けの高価なオーディオ・セットで音楽を聴く。
マルセルはほとんどの時間をひとりきりで過ごしたが、他人との接触を完全にシャットアウトしたわけではなかった。例外は三人だけ。ホテルのフロント係はまだ若い、縮れた黒髪と長い睫を持った美青年で、マルセルが通りかかると微笑みを浮かべてとびきり丁寧な会釈をした。マルセルはその王侯貴族を思わせる物腰と繊細な声にひそかに好感を持ち、時には足を止めて二言三言の会話を交わした。人なつっこいゴール人のドアマンはヨーロッパやアジアのいくつもの言語を自在に混ぜ合わせて喋りかけてくる癖があり、マルセルが会釈を返しても、きまぐれに無視してもまったく気にしない様子だった。最後の一人はレストランのウェイターだったが、60歳は超えているはずなのに頑丈な体躯の持ち主で、岩から切り出したような顔には古代ギリシャの哲学者の面影があった。必要以外のことはまったく喋らず、その寡黙ぶりと、見かけに似合わないエレガントな手さばきがマルセルを魅了した。
影のように静謐な生活、毎日が前の日の記憶の残像とも思える日々が過ぎていった。ある朝、マルセルはもう自分に歩く力が残っていないことに気づいたが、これもまた予期されたことだった。ベッドの中でいつも通りの優雅な食事を取り、特別な番号に電話をかけると、すぐさまホテルの部屋に電動車椅子が届けられた。二人の青年が黙々と車椅子をセットし、使い方を説明して帰っていった。彼らが再びこの部屋に現れることはないだろう。
しかしそうしたあれこれにも、実のところ大した意味はなかった。というのも、その頃マルセルはほとんどの時間をベッドの中で過ごしていたからだ。彼が駆け巡ってきた広大な世界が、今やベッド一つに取って代わられたかのようだった。そのうちに部屋の中を注意深く歩いて横切ることさえ難しくなったが、コントロールパネルで窓の開け閉めからオーディオの操作まで可能だったので特に不便はなかった。食事やコーヒーは自動で動くカートで届けられる。もう誰もこの部屋には入って来ることはない。掃除婦さえも。言うまでもなく、この部屋は最初からこの目的のために用意されていた。この部屋がマルセルの「象の墓場」だった。
死は人生の中でもっとも重要なイベントであり、絶対に誰にも邪魔されたくないというのがマルセルの願いだった。彼は死を自分の掌の中に包み込み、味わい、最後の一滴まで飲み干したかった。それ以外にはもう何の望みもなかった。そしてそれゆえに、完璧な孤独を必要とした。彼は歩かなくなった。次に、食事をしなくなった。ベッドに横たわり、眠ったり目を覚ましたり、あるいはそのどちらともつかない領域を漂いながら一日を過ごした。夢と現実がゆっくりと溶け合っていった。彼はホテルの天井や窓の外の景色を、あるいは光と影が織りなすあやを眺めながら、そこに思い出と空想が重なりあい、折りたたまれていくのを見た。いつか行こうと思いながら行かなかった場所、起きるはずだったのに起きなかった事柄、すでにこの世にいない人々の顔や声などがまじりあっていくのを見た。
そんな状態がしばらく続いた後、再び意識が澄みわたり、頭の中に氷のナイフを差し込まれたように感じる朝がやってきた。部屋の中が青みがかって見えた。窓の外ではプラタナスの枝が揺れ、空はまぶしかった。美しい光が射していた。あれから何日たったのだろうとマルセルは思ったが、見当もつかなかった。とても穏やかな気持ちだった。部屋のドアが開いて、誰かが入ってきた。スーツにネクタイをしめ、髪をきれいに梳かしたその男は、まるでこれから重要な会議に出席するとでもいうように、きちんとした、優雅な装いだった。ベッドに近づき、横たわるマルセルの顔を覗き込んだ。それはマルセル自身の顔だった。自分自身が穏やかに目を凝らして自分の顔を見下ろすのを、マルセルは見た。なるほど、つまりこれが死というものか。マルセルは呟き、ひとつため息をついた。そして、自分の上に降りてくる死を受け止める準備をした。
象の墓場のことをいつ、誰から聞いたのかも憶えていないし、何十年間もすっかり忘れ去っていたのは確かだったが、その時マディソン街のドクターのオフィスでマルセルの頭に浮かんできたのはそのことだった。死期を悟った象は自分の死にざまを誰にも見せないよう、人目につかない場所にある「象の墓場」に向かうという。そのイメージが突風のように脳裏を駆け抜けて目をくらませたために、マルセルは数秒間口がきけなくなった。ドクターは青白く光るレントゲン写真の前で、憂愁の中にひとしずくの威厳を湛えたまなざしで、マルセルを見つめていた。そこにあるのは職業的な気遣いの色だった。マルセルが戸惑いを隠そうと咳払いした時、ドクターは彼の肩の上にそっと右の掌を置いたが、その仕草があまりにも思慮深く、デリケートだったために、マルセルはあらためて無情な宣告を突きつけられた気がした。「半年とおっしゃいましたか?」とマルセルは呟いた。しかしもちろん、聞き返す必要はなかった。
クレタ島出身の40代の男、ミラノからサンフランシスコ、シカゴ、ニューヨークと移動するたびに新しい事業を立ち上げ、今では全米有数の会社経営者にして資産家となったマルセルの頭脳は、これまでになかったほどに冷たく澄み渡っていた。そして一つの決意がすみやかに形作られていった。ドクターとの会話を手短かに切り上げ、儀礼的な握手を交わし、ジャクソン・ポロックの版画が飾られた待合室を抜けて、午後のマディソン街に出た。オフィスに戻ると、誰も取りつがないよう秘書に命じて肘掛け椅子にもたれた。これから何が起きるにせよ、自分なら必ずうまくやってのけられるはずだと考えた。
その日の夕刻、運転手つきのメルセデスがマルセルを自宅まで送り届けた。玄関ホールを通り抜けながら、ため息が出るようなロココ様式の邸宅も、アジアや東ヨーロッパ各地から取り寄せた数々の古代美術品も、白い大理石も、手入れの行き届いた緑の芝生も、燦然たるボヘミアン・グラスのセットも、すべてが色あせて見えることに気づいた。夕食をとりながら、生涯を通じて愛してきたヘレンと子供たちの顔さえやはり空しく、無意味なものに感じられた。とすると、おれの人生とは一体何だったのだろう? けれどもそこに驚きはなく、彼の気持ちは乾いたままだった。
夕食後は書斎に閉じこもり、受話器の中から聞こえてくる低い声に耳を傾けた。会長、すべての準備が整いました。ありがとう、長い間世話になったね。翌朝、家を出る時、ヘレンには出張で数週間留守にすると告げた。メルセデスの窓の中を遠ざかっていく妻の姿は、まるで古いスライド写真か何かのように厚みを欠き、平べったく見えた。後部座席にもたれ、マルセルは自分を押し流そうとする圧倒的な無力感に耐えるべく目を閉じた。眠たくはなかったが、夢の中を泳いでいるような気がした。
ローマのホテルにチェックインしたのは、夜の10時過ぎだった。目立たない場所にある、こじんまりとした、けれども最高級のもてなしを最高級の人々に対して供するホテル。フロントは静まり返り、青みがかった薄闇から古い肘掛椅子、大理石のテーブル、浮き彫りを施された列柱、蝋燭立てが浮かび上がっていた。部屋に入り、バスタブのぬるま湯につかった。いまや彼は行方不明者たちのの仲間入りを果たし、亡霊のように地上から掻き消えた人間となった。家族が気づいて騒ぎ始めるまで数週間はかかるだろう。そして、騒いだところで結局どうにもならないだろう。
こうして始まった最後の日々は次のような日課からなるものだった。7時前に目を覚まし、シャワーを浴びた後、ベランダでマフィン、卵、スープ、サラダ、キャヴィア、ヨーグルトなどの朝食をとる。しばし朝の読書をする。外出用の服に着替え、散歩に出かける。緑が美しい教会のパティオでベンチに座り、したたる緑に囲まれて休憩する。画廊をいくつか覗き、多分図書館にも寄る。ホテルに戻り、パスタと肉料理でたっぷりした昼食をとる。午睡をとる。その後、再び外出する。朝よりもうちょっと遠くへ足を伸ばして、時には狭い路地奥の小さな映画館で映画を観る。夜はまたホテルの部屋に戻って、特別あつらえの贅沢な夕食をとる。夕食のあとはワインを飲みながら読書をするか、あるいは部屋に備え付けの高価なオーディオ・セットで音楽を聴く。
マルセルはほとんどの時間をひとりきりで過ごしたが、他人との接触を完全にシャットアウトしたわけではなかった。例外は三人だけ。ホテルのフロント係はまだ若い、縮れた黒髪と長い睫を持った美青年で、マルセルが通りかかると微笑みを浮かべてとびきり丁寧な会釈をした。マルセルはその王侯貴族を思わせる物腰と繊細な声にひそかに好感を持ち、時には足を止めて二言三言の会話を交わした。人なつっこいゴール人のドアマンはヨーロッパやアジアのいくつもの言語を自在に混ぜ合わせて喋りかけてくる癖があり、マルセルが会釈を返しても、きまぐれに無視してもまったく気にしない様子だった。最後の一人はレストランのウェイターだったが、60歳は超えているはずなのに頑丈な体躯の持ち主で、岩から切り出したような顔には古代ギリシャの哲学者の面影があった。必要以外のことはまったく喋らず、その寡黙ぶりと、見かけに似合わないエレガントな手さばきがマルセルを魅了した。
影のように静謐な生活、毎日が前の日の記憶の残像とも思える日々が過ぎていった。ある朝、マルセルはもう自分に歩く力が残っていないことに気づいたが、これもまた予期されたことだった。ベッドの中でいつも通りの優雅な食事を取り、特別な番号に電話をかけると、すぐさまホテルの部屋に電動車椅子が届けられた。二人の青年が黙々と車椅子をセットし、使い方を説明して帰っていった。彼らが再びこの部屋に現れることはないだろう。
しかしそうしたあれこれにも、実のところ大した意味はなかった。というのも、その頃マルセルはほとんどの時間をベッドの中で過ごしていたからだ。彼が駆け巡ってきた広大な世界が、今やベッド一つに取って代わられたかのようだった。そのうちに部屋の中を注意深く歩いて横切ることさえ難しくなったが、コントロールパネルで窓の開け閉めからオーディオの操作まで可能だったので特に不便はなかった。食事やコーヒーは自動で動くカートで届けられる。もう誰もこの部屋には入って来ることはない。掃除婦さえも。言うまでもなく、この部屋は最初からこの目的のために用意されていた。この部屋がマルセルの「象の墓場」だった。
死は人生の中でもっとも重要なイベントであり、絶対に誰にも邪魔されたくないというのがマルセルの願いだった。彼は死を自分の掌の中に包み込み、味わい、最後の一滴まで飲み干したかった。それ以外にはもう何の望みもなかった。そしてそれゆえに、完璧な孤独を必要とした。彼は歩かなくなった。次に、食事をしなくなった。ベッドに横たわり、眠ったり目を覚ましたり、あるいはそのどちらともつかない領域を漂いながら一日を過ごした。夢と現実がゆっくりと溶け合っていった。彼はホテルの天井や窓の外の景色を、あるいは光と影が織りなすあやを眺めながら、そこに思い出と空想が重なりあい、折りたたまれていくのを見た。いつか行こうと思いながら行かなかった場所、起きるはずだったのに起きなかった事柄、すでにこの世にいない人々の顔や声などがまじりあっていくのを見た。
そんな状態がしばらく続いた後、再び意識が澄みわたり、頭の中に氷のナイフを差し込まれたように感じる朝がやってきた。部屋の中が青みがかって見えた。窓の外ではプラタナスの枝が揺れ、空はまぶしかった。美しい光が射していた。あれから何日たったのだろうとマルセルは思ったが、見当もつかなかった。とても穏やかな気持ちだった。部屋のドアが開いて、誰かが入ってきた。スーツにネクタイをしめ、髪をきれいに梳かしたその男は、まるでこれから重要な会議に出席するとでもいうように、きちんとした、優雅な装いだった。ベッドに近づき、横たわるマルセルの顔を覗き込んだ。それはマルセル自身の顔だった。自分自身が穏やかに目を凝らして自分の顔を見下ろすのを、マルセルは見た。なるほど、つまりこれが死というものか。マルセルは呟き、ひとつため息をついた。そして、自分の上に降りてくる死を受け止める準備をした。
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