『殺人処方箋』 ☆☆☆☆☆
刑事コロンボ一作目。これがオリジナルであり、偉大なる原型である。ここからすべてが始まった。ただし本作は単発のテレビドラマとして制作されたもので、いわゆる刑事コロンボ・シリーズの第一エピソードではない。そういう意味での第一エピソードは『構想の死角』で、つまりこの『殺人処方箋』と次の『死者の身代金』はシリーズ化される前の作品なのである。もともと舞台用の脚本を手直ししてテレビ作品にしたというこの『殺人処方箋』はそれゆえにきわめて演劇的で、役者たちの緊迫したセリフの応酬にこそ最大の魅力があり、またそれを最大限に活かす演出がなされている。舞台も大ヒットしたらしいが、ヒットするのも当然と思われる優れた脚本だ。
シリーズ化前の作品とはいっても『死者の身代金』はパイロット版としてかなりシリーズに近いテイストになっているが、この『殺人処方箋』は明らかに雰囲気が違う。コロンボの髪がもじゃもじゃでない、レインコートもパリッとしているなどの外見だけでなく、コロンボのキャラクターそのものや捜査方法、そしてプロットの展開方法など根本的な部分が違うのである。だからシリーズから入ったファンはこのエピソードには違和感を抱くことになり、「いつもと違うコロンボ」として異色作扱いされることが多いようだ。しかし個人的には、これぞ数あるコロンボ作品群の頂点に君臨する最高傑作だと確信している。しかも僅差の第一位ではなく、ぶっちぎりダントツの首位独走である。以下にその理由を説明する。
まず、もっとも肝心なコロンボのキャラクターについて。本作のコロンボはコワい。平気で共犯者の女性を怒鳴り上げる。しかも、目をギラギラさせながら冷酷な言葉で脅す。愛すべきユーモラスな刑事、のはずのコロンボが全然優しくない。はっきり言って本作のコロンボは不気味である。ペンを忘れたり「うちの女房」の話をしたり和ませるところも確かにあるのだが、突然攻撃的になったり居丈高になったりする。その態度は虹のようにくるくる変わり、言動はまったく予測がつかない。いつも下手に出ている愛嬌たっぷりなシリーズ期のコロンボと違い、その口調はかなりクールで、見た目も質素ながらそこそこパリッとしているため、かえってつかみどころがない。後のコロンボはコートはよれよれ、髪はぼさぼさでルンペンみたいになり、いかにも型破り刑事だが、本作のコロンボはわりと普通で無色透明な感じだ。それがさらにこの刑事のカメレオン性を高めている。
脚本を書いたリンク&レヴィンソンのコンビは、ドストエフスキーの『罪と罰』に登場するポルフィーリィ判事にインスパイアされてコロンボを産み出した。『罪と罰』を読んだ人は知っているだろうが、ポルフィーリィというのはまったく得体の知れない不気味な人物で、証拠も何もないのになぜかラスコーリニコフが犯人だと確信していて、おどし、すかし、当てこすり、ほのめかし、しまいには「疑ったことを謝りたい」なんて言いながらまたネチネチ絡んできたり、ありとあらゆる心理的プレッシャーをかけてラスコーリニコフをパニックに陥れる人物である。登場回数は少ないものの、ポルフィーリィ判事の登場場面には常に強烈な緊迫感が漂う。そしてそれとまったく同じ種類の緊迫感が、本作のコロンボには漂っているのである。後のコロンボは愛されるシリーズ・キャラクターとなるために態度が控え目になり、微笑ましく、愛嬌たっぷりに、親しみやすいキャラになる。心地よい予定調和が導入される。しかしこの『殺人処方箋』では予定調和がない。コロンボが次にどんな行動に出るか予測がつかない。だからこそ、本作のコロンボにはシリーズ作品にはない凄みがある。
たとえば共犯者ジョーン・ハドソンと最初に顔を会わせるシーン。待合室でコロンボは突然ジョーンに声をかけ、「失礼、あなたのお名前をもう一度?」と尋ねる。自分は名乗りもしない。ジョーンがいぶかしげに「ジョーン・ハドソンですけど。なぜです?」と言うと「どうも」とだけ言ってすぐに立ち去る。これが後のコロンボなら愛想良く世間話をし、友好的に振る舞いながら名前を聞き出すだろう。こちらの方は無礼で、不自然で、異様だ。ジョーンはフレミングに会ってすぐに「あれは誰?」と尋ねる。彼女は不安にかられている。そしてそれもまたコロンボの戦略なのである。
そもそもこの日コロンボはドクター・フレミングのところへやってきていくつか質問をするが、帰り間際に「そういえば、これが先日電話してきた患者さんですね?」とわざわざフレミングに念を押し、その上でジョーンの名前を聞いて立ち去る。明らかにジョーンをチェックしに来たのだが、同時にそれが二人に対する心理的プレッシャーになっている。このように、本作でのコロンボの言動はいちいち駆け引きと戦略の裏づけがあり、この脚本の緻密さは尋常ではない。これが本作が最高傑作である第二の理由である。後のどの作品でも、これほどまでに緻密な脚本が書かれたことはない。
(次回へ続く)
刑事コロンボ一作目。これがオリジナルであり、偉大なる原型である。ここからすべてが始まった。ただし本作は単発のテレビドラマとして制作されたもので、いわゆる刑事コロンボ・シリーズの第一エピソードではない。そういう意味での第一エピソードは『構想の死角』で、つまりこの『殺人処方箋』と次の『死者の身代金』はシリーズ化される前の作品なのである。もともと舞台用の脚本を手直ししてテレビ作品にしたというこの『殺人処方箋』はそれゆえにきわめて演劇的で、役者たちの緊迫したセリフの応酬にこそ最大の魅力があり、またそれを最大限に活かす演出がなされている。舞台も大ヒットしたらしいが、ヒットするのも当然と思われる優れた脚本だ。
シリーズ化前の作品とはいっても『死者の身代金』はパイロット版としてかなりシリーズに近いテイストになっているが、この『殺人処方箋』は明らかに雰囲気が違う。コロンボの髪がもじゃもじゃでない、レインコートもパリッとしているなどの外見だけでなく、コロンボのキャラクターそのものや捜査方法、そしてプロットの展開方法など根本的な部分が違うのである。だからシリーズから入ったファンはこのエピソードには違和感を抱くことになり、「いつもと違うコロンボ」として異色作扱いされることが多いようだ。しかし個人的には、これぞ数あるコロンボ作品群の頂点に君臨する最高傑作だと確信している。しかも僅差の第一位ではなく、ぶっちぎりダントツの首位独走である。以下にその理由を説明する。
まず、もっとも肝心なコロンボのキャラクターについて。本作のコロンボはコワい。平気で共犯者の女性を怒鳴り上げる。しかも、目をギラギラさせながら冷酷な言葉で脅す。愛すべきユーモラスな刑事、のはずのコロンボが全然優しくない。はっきり言って本作のコロンボは不気味である。ペンを忘れたり「うちの女房」の話をしたり和ませるところも確かにあるのだが、突然攻撃的になったり居丈高になったりする。その態度は虹のようにくるくる変わり、言動はまったく予測がつかない。いつも下手に出ている愛嬌たっぷりなシリーズ期のコロンボと違い、その口調はかなりクールで、見た目も質素ながらそこそこパリッとしているため、かえってつかみどころがない。後のコロンボはコートはよれよれ、髪はぼさぼさでルンペンみたいになり、いかにも型破り刑事だが、本作のコロンボはわりと普通で無色透明な感じだ。それがさらにこの刑事のカメレオン性を高めている。
脚本を書いたリンク&レヴィンソンのコンビは、ドストエフスキーの『罪と罰』に登場するポルフィーリィ判事にインスパイアされてコロンボを産み出した。『罪と罰』を読んだ人は知っているだろうが、ポルフィーリィというのはまったく得体の知れない不気味な人物で、証拠も何もないのになぜかラスコーリニコフが犯人だと確信していて、おどし、すかし、当てこすり、ほのめかし、しまいには「疑ったことを謝りたい」なんて言いながらまたネチネチ絡んできたり、ありとあらゆる心理的プレッシャーをかけてラスコーリニコフをパニックに陥れる人物である。登場回数は少ないものの、ポルフィーリィ判事の登場場面には常に強烈な緊迫感が漂う。そしてそれとまったく同じ種類の緊迫感が、本作のコロンボには漂っているのである。後のコロンボは愛されるシリーズ・キャラクターとなるために態度が控え目になり、微笑ましく、愛嬌たっぷりに、親しみやすいキャラになる。心地よい予定調和が導入される。しかしこの『殺人処方箋』では予定調和がない。コロンボが次にどんな行動に出るか予測がつかない。だからこそ、本作のコロンボにはシリーズ作品にはない凄みがある。
たとえば共犯者ジョーン・ハドソンと最初に顔を会わせるシーン。待合室でコロンボは突然ジョーンに声をかけ、「失礼、あなたのお名前をもう一度?」と尋ねる。自分は名乗りもしない。ジョーンがいぶかしげに「ジョーン・ハドソンですけど。なぜです?」と言うと「どうも」とだけ言ってすぐに立ち去る。これが後のコロンボなら愛想良く世間話をし、友好的に振る舞いながら名前を聞き出すだろう。こちらの方は無礼で、不自然で、異様だ。ジョーンはフレミングに会ってすぐに「あれは誰?」と尋ねる。彼女は不安にかられている。そしてそれもまたコロンボの戦略なのである。
そもそもこの日コロンボはドクター・フレミングのところへやってきていくつか質問をするが、帰り間際に「そういえば、これが先日電話してきた患者さんですね?」とわざわざフレミングに念を押し、その上でジョーンの名前を聞いて立ち去る。明らかにジョーンをチェックしに来たのだが、同時にそれが二人に対する心理的プレッシャーになっている。このように、本作でのコロンボの言動はいちいち駆け引きと戦略の裏づけがあり、この脚本の緻密さは尋常ではない。これが本作が最高傑作である第二の理由である。後のどの作品でも、これほどまでに緻密な脚本が書かれたことはない。
(次回へ続く)