アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

さいごの恋

2016-04-09 23:11:19 | 
『さいごの恋』 クリスチャン・ガイイ   ☆☆☆☆☆

 『ある夜、クラブで』『風にそよぐ草』のガイイの『さいごの恋』を再読。今のところ、邦訳されているガイイの小説はこの三冊で全部だ。現代フランス文学の軽やかさと美しさをとてもユニークな形で見せてくれる素晴らしい作家なので、他の作品もできるだけ翻訳して欲しいと思っている。本書もあっという間に読み終えてしまえる短さながら、読み終えた瞬間の満足感たるや言葉に尽くせないものがある。思わずため息を漏らしてしまった。

 他のガイイの小説もそうだけれどもそれ以上に、プロットに依存しない小説である。もちろんストーリーはあるが、さして重要ではない。重要なのは設定とディテールである。本書の主人公ポールは老齢の作曲家で、病んでおり、もはや死期間近らしい。らしいというのは最初から読者にはっきりとは知らせず、話の中でだんだんと仄めかす仕掛けになっているからだが、同様に、ポールは死の痛みにとても耐えられないと感じ、自分の手で人生の幕引きをしようと考えているらしい。そのために彼は海沿いの別荘に行き、一週間の間妻リュシーには遠くに行ってもらう約束をしている、らしい。

 らしいばっかりだが、こういう重要な取り決めはすべて物語の枠外で起き、その場に読者が立ち会うことはない。この小説が物語るのはそのあとにやってくるポールの行動、ことのなりゆきのみである。当然ながら、読者は靄のような曖昧さに包まれたまま小説内の出来事を追うことになる。つまりポールが飛行機でホテルから自宅に戻り、入れ違いにリュシーが出ていき、ポールが海辺の別荘に行き、海岸に散歩に出かけ、リュシーのものだと勘違いしてそこにあったグレーのセーターを持ち帰り、デビーという女性がセーターを取りに訪ねてくる。翌朝ポールの容態を心配したデビーがまた別荘にやってきて、ピアノを弾き、ポールを車で自分の家に連れていき、戸惑う夫にひき合わせる。しばらく何も食べていなかったポールはクロワッサンに目が釘付けになり、それを口に入れたとたんに失神する。デビーと夫シオン(この二人は実は『ある夜、クラブで』の主人公たち)はポールを彼の別荘に運び、一方、離れた場所にいるリュシーはポールが電話に出ないので彼が死んだと思い込む…。

 これ以上は言わぬが花だが、この小説がプロットに依存しないという意味はなんとなく分かってもらえるのではないだろうか。ポールがデビーに会ったりシモンに会ったりしても、それが何らかの葛藤やジレンマを引き起こして重厚なドラマを生む、なんてことはない。クンデラ流にいえば、この小説は重さではなく軽さとともにある。上記のあらすじ以外にも、ポールが自分の曲の演奏会に立ち会って悲惨な結果を目の当たりにするとか、赤い目をした女性と偶然二度出会う、あるいはリュシーがずっと年下のリモの運転手に口説かれる、などの印象的なエピソードがあるがすべて単発で、特に他とつながっていくことはない。読者を魅了するのは、個々のエピソードのディテールである。

 かつ、そのディテールはいわゆる日常的ディテールではない。いや、電車に乗ったり散歩したり会話したりという意味ではありきたりだが、ポールの特殊な状況がすべてを変える。死期間近、自分の手で人生の幕引きをしようとしている男。死ぬための孤独を自分に用意した男。そこで起きる出会いや偶然の出来事が特別な光を帯びないわけがない。毎日眠りにつく時、ポールはこれが人生最後の瞬間か、と考える。彼は偶然出会ったデビーに「さいごの恋」をするが、あとがきにもあるように、それが本当に「恋」なのかは微妙なところだ。今まさに世界に別れを告げようとしているポールは、世界をまるごと抱擁しているのだ。これがこの小説の核心であり、ストーリーに依存することなくすべてを変貌させるガイイのマジックである。

 また、上のあらすじを読んでもらえば伝わると思うが、この作品は死期間近の男を描いているにもかかわらずどこかユーモラスである。クロワッサンのくだりもそうだし、気難しいポールがリモの運転手とリズムに関する会話を交わし、これじゃ奥さんに逃げられるのも無理ないな、と思われるところなども微笑ましい。このユーモアも本書の、そしてガイイの小説の素晴らしい魅力である。死や老いや病気について陰々欝々とした文章を書きつらね、これが文学ですと深刻ぶってみせる幼稚さとは無縁なのである。

 そしてこれらのガイイ・マジックのすべてを可能にするのが、この特別な文体である。とても変わっている。基本的にいつも現在形で、三人称だが、たまに唐突に「私」という一人称が顔を出す。が、「私」は作中人物ではない。純然たる語り手である。いってみれば、登場人物が通り抜けていく不断の「現在」を、饒舌なナレーターが読者に実況中継して聞かせているような文体だ。おまけにこのナレーターは時に登場人物に語りかけ、時に読者に語りかける。体言止めのぶつ切りの文章も多いが、不思議なリズムがあって音楽を連想させる。

 ガイイがもともとジャズ・ミュージシャン志望だったこともあって、その作品は音楽的、ジャズ的と称される。それは一般にはこの音楽的な文体と、気ままに見える自在なストーリー展開がジャズのアドリブを思わせるということのようだが、おそらくもっと重要なのは、あとがきで引用されている古川日出男氏の書評の一節、「この『ある夜、クラブで』にあるのは、変則的なリズム、描写が端折られたり、唐突に放り出されたりするメロディ=物語の跳躍、うねる語りだ」と表現されている、この「うねり」だと思う。

 つまりは語りのダイナミズムであり、大胆な省略法であり、何を書いて何を書かないかというセンスである。ガイイはこのセンスがひときわ優れている。たとえば、本書のラストを見よ。ぽーんと放り出したような、無造作にぶつ切りにしたようなラストだが、ポールの死期も病気も何も変わらないにもかかわらず、この結末の完璧な幸福感は一体何だろう。魔法としか思えない。このような点に関してガイイは、ほとんどアントニオ・タブッキと同等と思える卓越したセンスを持っている。小説を魅惑的な曖昧さでくるんで読者に差し出すという、少数の選ばれた作家にしかできない離れ業を見せてくれるのである。

 そして言うまでもなく、この小説の中にも音楽が豊饒に溢れている。弦楽四重奏の演奏会、ピアノ、そして歌。バイバイ・ブラックバード。人生最後のときめきと、男たち女たちの気まぐれなロンド。小説を読むという愉悦を、どこまでもエレガントに満喫させてくれる小説である。



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