アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

終戦のローレライ(その3)

2005-09-24 09:14:15 | 
(昨日からの続き) 

 ところで、この物語の「悪役」である浅倉大佐は「国家の切腹を断行する」と言って東京に原爆を落とそうとする。映画『ローレライ』でもこの設定はそのままだったが、意味が分からないということでかなり不評だったようだ。

 原作では浅倉の思想と、それに至る経緯が詳細に書かれているので映画よりましだが、それでも分かりやすいとは言えない。この小説は他の部分は冒険ものとして分かりやすい王道を行っているのに、この部分だけかなり屈折している。私は、この浅倉をもっと分かりやすい「悪役」に、その動機を分かりやすい卑劣や私利私欲にしなかったのは、作者の誠実さの表れだと思う。そうすることは簡単だったはずなのだ。そしてこの屈折の仕方は、かなり力技であり苦しい部分もあるが、なかなか考えさせられるという意味で私は評価したい。おまけにこのややこしく回りくどい浅倉の思想が正しいのか間違っているのか曖昧になっているが故に、伊507の行動が持つヒロイズムが奥深いものになっている。

 つまり、これは誰が見ても明らかな勧善懲悪ではないのだ。ひょっとしたら絹見艦長達の行為は無駄かも知れないのである。しかし無駄かも知れないと知りつつ、自分への疑いを残しつつ、自分の信じるもののために命をかける。これはヒロイズムの本質をついていると思う。黒澤明の『七人の侍』でも、侍達は戦闘の前に「哀れな百姓を救うため」という大義名分を(百姓達の落ち武者狩りを暴露することによって)奪われる。しかし彼らは、それでも命をかけて百姓の村を守り、死んでいく。
 まあ『七人の侍』と比較するつもりはないが、正義の味方の金看板しょったハリウッド的ヒーローよりよほどいいんじゃないか。

 さて、浅倉の思想とはどんなものなのか。
 浅倉はミッドウェーで飢餓の極限を体験し、そこで飢餓の前には人間の誇りや尊厳など何の意味をないことを知る。このニヒリスティックな認識から、彼は降伏後の日本が誇りも日本人の精神も失い、戦勝国に媚びへつらう、ただれた社会になると看過する。そして百年後の日本再建のため、国家の切腹=東京への原爆投下をもくろむ。
 原爆投下にどういう意味があるかというと、①降伏後に誰も責任を取ろうとしないであろう大本営の首脳陣の一掃 ②日本人の精神的拠り所である天皇の消滅 ③それによってとことん打ち砕かれる、これまでの日本人を支えてきた幻想 ④その中から立ち上がる新たな日本人の誕生 ということになる。そしてその日本人こそが百年後の日本の礎となる、というのである。

 面白いのは、浅倉の予見する悪しき日本は現代の日本の姿そのままということである。つまり、彼の予想は当たっているのだ。
 無論、東京に原爆を落としたからといって、少数ながら誇り高き日本人が生き残る保証はどこにもない。ここに浅倉理論の詭弁がある。このまま降伏したら誇りを失うという浅倉理論に従うなら、とことん焦土と化した日本で連合国に蹂躙された生き残りの日本人は、ますます獣と化してしまう可能性だってある。ミッドウェーの島で浅倉が見た餓鬼のような人間ばかりになってしまうかも知れないのだ。そういう意味では、浅倉の計画はペシミスティックな人間観からというより、むしろ「切腹こそが潔い」という日本的美意識から生じたもののように私には思えた。

 しかしこのような浅倉理論も、征人の「あんたたち大人がはじめたくだらない戦争で、これ以上人が死ぬのはまっぴらだ!」という素朴な叫びに打ち破られる。そして伊507は原爆投下を阻止すべく決死の行動を起こすのだが、ここには人間の「当たり前の感覚」を、複雑怪奇なイデオロギーよりも信頼するという作者の姿勢が表れている。

 浅倉の理論は極端だが、イデオロギー、特に非寛容なイデオロギーというのは極端に走ると残忍性を帯びることも珍しいことではない。オウムなどの新興宗教もそうだし、粛清と独裁に行き着いた共産主義もそうだ。理想主義的であればあるほどそうなる。論理というものは便利ではあるが限界もある。だから、このような作者の姿勢に私も共感するのである。

 「当たり前の感覚」とは何かというのも難しい話だけれども、あとはこの本を読んで下さい。冒険小説が大嫌いな人、超能力を絶対受け入れられない人以外、決して損はしないと思う。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿