アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

倦怠

2009-07-30 00:01:28 | 
『倦怠』 アルベルト・モラヴィア   ☆☆☆☆☆

 モラヴィアの『倦怠』を再読。この小説は私のオールタイム・ベストの一冊であって、もうなんべん読み返したか分からないけれども何度読んでも面白く、何度でも読み返したくなる。

 私が持っているブツは河出書房のハードカバーで、「人間の文学21」とあり全集の一部のようだ。奥付を見ると発行は1966年になっている。ものすごく古い。当然もう売られていない。私はこれを学生の頃古本屋で買ったのだが、その頃はモラヴィアなんて作家はまったく知らず、『倦怠』というシンプルなタイトルとやたらひなびた感じの装丁に惹かれて買った。そしたらこれがもう大正解。あまりの面白さに驚愕した。衝撃を受けた、と言ってもいい。それまで読んだどんな小説とも違っていたのである。それからしばらくモラヴィアの本を読み漁ったが、この本を越える作品には出会えなかった。

 ちなみにこの「人間の文学」というシリーズ、本の最後に他のラインアップも紹介されているが、ミラー『南回帰線』、ジュネ『葬儀』、レアージュ『オー嬢の物語』、マンディアルグ『海の百合』、バロウズ『裸のランチ』、サド『悪徳の栄え』などのタイトルが並んでいる。なかなか壮観だ。

 さて、この小説のストーリーはこんな感じ。ローマのアトリエで絵を描いて暮らしているディーノは子供の頃から倦怠に悩まされている。彼にとって倦怠とは現実とのつながりを見失い、すべてが自分にとって無意味と思える状態である。彼は絵をやめて金持ちの母親の家に戻ろうとするが、やはり息が詰まってローマのアトリエに逃げ帰ってくる。その頃、同じアパートに住む老画家が死ぬ。プレイボーイだった老画家はある少女に入れ込んでその挙句に死んだらしい。ディーノはその少女チェチリアと出会い、なんとなくつきあい始める。が、ディーノは彼女にさほど魅力を感じない。

 「…つまり、私もまた、あの老画家がチェチリアを称して麻薬と言っていた、その麻薬を飲んだのだった。そして、私は、前もって知らされた危険がなかなか生じないのをいぶかしがるように、その麻薬が私には一向に利いてこないのを絶えず不思議に思っていたのであった」

 ディーノはチェチリアと別れようと考えるが、ある日チェチリアが約束をすっぽかしたことで彼の心に猜疑心が生まれる。チェチリアの態度がだんだんおかしくなっていくにつれ、ディーノの嫉妬心は膨らんでいく。もう彼女と別れられない自分に気がつく。こうしてチェチリアという麻薬が次第にその効力を発揮し始める…。

 全体のトーンは灰色。すべてがどんよりと曇っていて、文体は偏執狂的である。ディーノの嫉妬心を執拗に追求し、分析していくモラヴィアの筆は決して脇道にそれて行くことがない。この小説にはたとえばディーノとチェチリアがありきたりのデートをする場面など一切なく、ローマの風俗など全然描かれない。交わされる会話はすべてチェチリアの特異なキャラクターの傍証であり、二人の関係の注釈であり、倦怠というものの研究である。まるでディーノとチェチリアは常にアトリエで不毛なセックスに没頭しているかのようだ。登場人物のやりとりだけが拡大され、背景となる世界が灰色に塗りつぶされた物語世界は簡素な舞台劇を見ているようである。
 
 これは息詰まるような心理劇であり、決して幻想小説ではないが、ディーノの苦しみがどんどんエスカレートしていくところは不条理小説のようでもある。たとえばディーノは必死にチェチリアを尾行するが、信じがたいことにチェチリアの姿を一度も見ることができない。それから男と立ち話をしているチェチリアに近づいていってすぐそばに立っても、チェチリアはまったく気づかない。彼女の目が彼の上にはっきり止まったにもかかわらず気づかない。「んな馬鹿な」と言いたくなるほどにカフカ的で、結構笑える。が、ディーノの苦悩はどんどん深まっていく。彼はチェチリアから解放されたいと願い、彼女に浮気を認めさせたら興ざめするだろう、彼女に金を渡したら興ざめするだろう、と色んな手を試みるが、ディーノの期待は常に裏切られる。チェチリアはいかなる策略もすり抜け、その麻薬性を保ち続ける。

 「…だが、こうした変容は生じないで、その反対のことが起こったのである。金がチェチリアの性格を変えたのではなく、逆に、両者のうちで明らかに強者であるチェチリアが金というものの性格を変えてしまったのである」

 何はともあれチェチリアの造形が素晴らしい。成熟した肉体と少女の顔を持ち、残酷とイノセンスを合わせ持つ女。恐るべき不毛な愛で男を絡め取ってしまう少女。彼女はよくある悪女のように貪欲だったり意地悪だったりするのではなく、むしろその逆で、何事にも無頓着で無関心だ。計算高さなどまったくなく、ただ目先の快楽だけで淡々と動く。そしてそれだけにつかみどころがない。

 そしてもう一つ、この小説の見事な仕掛けはチェチリアのせいで死んだ老画家バレストリエーリの存在である。ディーノと同じように最初はチェチリアに興味を持たず、軽い気持ちでつきあい始め、やがて入れ込み、金を貢ぎ、泣き、自殺同然に死んでいった男。チェチリアとつきあってからディーノはたびたびバレストリエーリのことを考える。しかしバレストリエーリという不吉な前例を知りながら、同じ道をたどっていく自分をどうすることもできない。
 
 こうしてディーノは追いつめられ、やがてその嫉妬は狂気の域にまで登りつめていく。シンプルな物語が力強いクライマックスを迎え、そしてハッピーでもアンハッピーでもない、多義的な、見事に開かれた結末へとつながっていく。

 『倦怠』というタイトルがよく似合う独特のムードを持った小説だ。筒井康隆が昔ガルシア・マルケスの小説を評して「甘美なやりきれなさ」と言っていたが、本書もまた別の種類の「甘美なやりきれなさ」にどっぷり浸ることのできる、見事に濃密なロマンだと思う。


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2 コメント

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芸術大好きっ子です (yayoy)
2012-10-15 13:17:34
はじめまして。現在「倦怠」を読んでいてハマッてしまい、検索をしたらここへたどり着きました。他の記事もすごく興味深いです。特に「作品」の、ルドンやデルボー等の絵のお話は、オリジナルですか?すごく素敵です。
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Unknown (ego_dance)
2012-10-16 11:26:25
はじめまして。「倦怠」が好きだという人は珍しいのでうれしいです。また「作品」は私の創作ですが、気に入っていただけたとしたらこんなうれしいことはありません。
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