アブソリュート・エゴ・レビュー

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わが青春に悔なし

2010-06-05 09:34:45 | 映画
『わが青春に悔なし』 黒澤明監督   ☆☆☆★

 黒澤明初期の作品を再見。といっても、最初観た時は途中で爆睡してしまったので事実上初見である。『酔いどれ天使』よりも前の作品だ。

 これは戦後GHQが奨励した民主主義映画の一つ、つまり一種のプロパガンダ映画と言われていて、確かに物語には社会派的メッセージが盛り込まれているし、戦争を始めた日本は狂っていたということが自明の前提になっている。このどこまでがGHQの差し金でどこまで黒澤本人の意思か分からないが、だから即ち駄作と決めつけてしまうのは早計だと思う。もともと黒澤明は社会性のある映画を好んで撮る監督だし、題材になっている瀧川事件(京大の教授が思想弾圧を受けて罷免された)への興味が黒澤本人のものでないと考える理由はないように思える。本人がどこかでそんなことを言っていれば別だが、少なくともこの映画を見る限りお仕着せのイデオロギーには見えない。それにここで糾弾されているのは左翼思想への弾圧というより、思想弾圧そのものだ。つまり黒澤は別に左翼思想に味方したわけでも日本の戦争責任を問うたわけでもなく、それが何であれ思想の自由を弾圧する社会は邪悪だと言ったに過ぎない。

 それから更に言うと、たとえそのメッセージが本作の出発点だったとしても、最終的に出来上がった映画においては重要性を失い、枝葉でしかなくなっている。本作を観れば明白だが、この映画は原節子演じる幸枝の生き方についての映画であり、幸枝本人はいかなる政治思想も持っていない。政治思想を持って右往左往するのは幸枝を取り巻く男たちである。こういう出発点となった社会的テーマと、結果的に出来上がった映画そのものの意味合いの乖離もまた黒澤映画によく見られる現象で、『酔いどれ天使』『醜聞』などでも同じことが起きている。

 では本作の核心である幸枝を突き動かしているものは何か。「悔いのない人生を生きる」、これだけだ。この映画の核心にあるメッセージはこれであり、左翼やファシズムは関係ない。これは後の傑作『生きる』でこの上なく雄弁に展開されるテーマだが、この『わが青春に悔なし』を見ていると『生きる』に直結するようなセリフがあちこちに出てくる。幸枝が家を出る時に父親に言う「私、今のままでは生きているような気がしないの」というセリフ、野毛と再会した時の「自分の魂を打ち込めるような仕事がしたい」というセリフ、そして夫の野毛から受け継ぐモットー「悔いのない人生を」。この映画は『生きる』の荒々しいプロトタイプと言っても過言ではないと思う。

 後半、野毛が死んでから幸枝は警察に虐待されるが、その後突然舞台は農村に変わり、幸枝は百姓となって百姓の苦労を味わう。これが思想弾圧糾弾の映画ならば幸枝は警察の横暴と戦わねばならないところだが、そうはならない。この後半のストーリー展開は実は黒澤明の意図と違っていて、労働組合の横槍によってやむなく変更されたものらしく、もともとどういう脚本だったのか非常に興味のあるところだが、少なくとも完成された映画では後半幸枝を苦しめるのは警察ではなく周囲の農民である。彼らはスパイの家族と言って野毛の一家を迫害する。その迫害はすさまじく、とてつもなく理不尽である。病身の幸枝が力を振り絞って田植えをやりきった水田が、一夜にしてメチャメチャにされる。しかし幸枝は、無残に荒された水田に黙って足を踏み入れ、また最初からやり直そうとする。彼女は黒澤映画のヒーローたちに共通の、決してあきらめないという資質を持っている。

 本作は色んな意味で非常に「荒い」と感じさせる映画で、完璧な仕上がりを見せる後の黒澤映画とは似ても似つかない。まずストーリーが荒く、あまりにも波乱万丈で、物語の雰囲気がどんどん変わっていく。最初は青春ものとして始まり、男女の三角関係を描くかと思ったら思想弾圧と戦う社会派映画となり、やがて都会が舞台のもの狂おしいラブストーリーとなり、警察に投獄されてスパイ・ミステリになったと思ったら急転直下農村が舞台のどん底物語となる。めまぐるしいったらない。

 それからまた、これを観ると黒澤が映像に凝る作家だということがよく分かる。そして小津とは違い、黒澤が映像に何かを語らせようとする作家であることもよく分かる。登場人物の足だけを映す、ガラス窓の向こうを歩く幸枝の映像を繰り返して時間の経過を表現する、矢継ぎ早のストップモーションで心中の葛藤を表現する、人物の影だけを見せる、動かない人物を長々と見せる、などなど。はっきり言って浮いている箇所もあり、成功しているとばかりはいえないが、驚くほど色んな試みをしている。そしてとにかくカメラが良く動く。

 そういうストーリー展開の荒さ、映像ギミックの荒さが本作の不器用な印象につながっているが、それだけにある種の熱さが感じられるのも事実だ。まだテクニックを自家薬籠中のものにしていない若き日の黒澤明が、もがきながら自分の表現を手探りしているのが伝わってくる。

 ところで本作では小津映画の常連である原節子が、「永遠の処女」という清純なイメージを裏切るようなエキセントリックで生命力に溢れた女を演じている。優しい笑顔から氷のように冷たい表情まで自在に使い分け、理由もなく「そこにひざまづいて私に謝って」などというかと思えば、後半にはもんぺの百姓姿でどろまみれになって田植えをする。初の汚れ役と言われたらしいが、まあとにかく強烈である。小津映画とはまるで違うこういう原節子を見る事ができるのも、この映画のみどころの一つだ。


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