アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

生きる

2007-12-07 22:02:34 | 映画
『生きる』 黒澤明監督   ☆☆☆☆☆

 ご存知、黒澤明監督の傑作。これもCriterion版を購入。

 役所の課長・渡辺はただただ退屈で忙しい無意味な仕事に埋もれ、とても「本当に生きているとはいえない」人生を送っているが、胃癌になり、余命半年以内と分かった時点から本当に生き始める、という話である。彼は最初自殺しようとするが死ねない。次に金を使って享楽することでこれまでの自分に復讐しようとするが、空しいだけだ。次に自分の部下だった朗らかな娘に惹かれ、一緒に遊び回るが、そのうちに気味悪がられるようになる。そして彼は「何かを作ってみれば」という娘の言葉で、児童公園を作ることを決意する。彼は残りの人生のすべてを賭けてこれに打ち込み、公園が完成する。彼は満足して死んでいく。

 最初観た時なんと言っても驚いたのは、映画の途中で主人公が死んでしまうことだ。愕然とした。渡辺がさんざん悩み、遊んだり娘を追いかけたりし、死の恐怖から逃れようとあがくのが前半、そしてあのあまりにも印象的な喫茶店のシーンで、「そうだ、やればできる……あそこでも、その気になれば……」そう言ってウサギのオモチャを握り締め、決然と階段を下りていく、これが渡辺が「本当に生き始める」再生の瞬間である。この瞬間にたどり着くために、彼はそれまでの苦悩と彷徨を経てきた。さて、これから彼はどうなるのか。ところが次のシーンでいきなりナレーションが「そして五ヵ月後、この映画の主人公は死んだ」とこともなげに告げる。「まじですかあ~!?」となるのは私だけではないはずだ。

 しかし、これがこの映画の肝なのである。後半はずっと通夜の場面で、役所の人々が渡辺の行動を回想することで物語が進む。つまりこの人々の目撃した事実と語りによって、観客は渡辺のその後を知る。前半の悪あがき部分は渡辺本人の視点、後半の「本当に生きる」部分は周囲の人々の視点。これがとても効果的だ。どちらも黒澤お得意の「見せかけと真実」テーマをはらんでいる。
 前半では、周囲の人々は「渡辺が非常に馬鹿なことをしている」という点で意見が一致している。けれどもナレーションがいうように、彼がこの時ほど真剣だったことはこれまでの人生にない。まわりの人々は知らないが、渡辺と行動を共にする観客はそれを知る。そして後半、今度は人々の目に渡辺はスーパーマンに映る。公園作りにかける彼の頑張りはまさに超人的だ。人々は驚嘆し、渡辺を聖人のように持ち上げる。しかしそれがまた虚像であることは、前半を見ている私達には分かる。そして人々の最大の誤解は、渡辺はあんなに頑張って公園を作ったのに、それが評価されなかったために失意のうちに死んだに違いない、と思い込むことである。渡辺を賛美すればするほど、彼らの同情は深くなっていく。だから最後に警官がやってきて、死の直前の渡辺が「あんまり楽しそうだったから」と証言する時、全員の驚きはとてつもなく大きい。

 この映画が実存主義的映画と言われるのはこのためで、要するに自分が充実できたかどうか、何かを成し遂げた、という感覚を自分がもてるかどうかがすべてであり、まわりの評価は関係ないのである。ある意味、別に児童公園でなくとも良かったのだ。自分で意味があると思える何かであれば、おそらく何でも良かった。その何かに打ち込み、チャレンジし、成し遂げることに意味がある、この映画はそう言っているように思える。

 とにかく印象的なのは渡辺が「本当に生き始める」、つまりようやく渡辺にスイッチが入る喫茶店のシーン。「やればできる……やればできる……」そう呟きながら階段を降りていく渡辺の後ろ、二階の手すりに若者達がずらっと群がり、全員で「ハッピーバースデイ」を歌うのである。これはちょうど二階で誕生会が行われていて、(渡辺とすれ違いに)階段を上ってくるその主役に向かって歌われるのだが、構図からしてどう見ても渡辺に向かって歌っているように見えるし、もちろん、映画としては実際に渡辺に向かって言っているのである。異様に感動的であり、同時にものすごくアイロニックなシーンだ。大勢の若者達が、死を目前にした老人に向かってハッピーバースデイを大合唱するのである。黒澤映画の寓意的演出のもっとも見事な一例だと思う。

 ところで渡辺には結婚した息子がいるが、息子はまったく救いにならない。渡辺は息子に打ち明けようとするのだが、あまりに思いやりに欠けたその態度に打ち明けることができなくなる。映画の中で親戚のおじさんが「子供なんて親が思うほど親のことは思ってくれない、結婚したら邪魔にされるだけだ」というシーンもあるが、このドライさが実に黒澤映画らしくて面白い。普通この手の映画では、まず十中八九家族愛が重要なファクターとして描かれるはずだ。家族が主人公を支え、主人公を看取る。特にアメリカ映画だったら絶対にそうなる。アメリカ人にとって幸福と家族はほとんど同義語である。しかしこの映画は違う。主人公は孤独のまま、孤独の中に幸福を見出して死んで行く。家族は何一つ知らされない。ここがすごい。この映画がセンチメンタリズムを完全に排除できているのはこのためだ。

 DVD特典で色んな面白い話が聞ける。黒澤明と橋本忍が書いた最初の脚本ではやはり主人公は最後に死ぬことになっていたらしい。そこへやってきた小国英雄がこれじゃ駄目だと言ってケンカになり、その脚本は破棄された。「しかしそれじゃ主人公が途中で死ななきゃならんぞ」と黒澤が言うと、小国は「途中で主人公が死んでも映画は作れる」と言ったらしい。それでこういう構成になった。
 それから左卜全の酔っ払い演技についての黒澤明のコメントが面白い。「酔っ払いの演技がうまいのは酒を飲まない役者だね。あの人も酒は一口も飲まないのに、酔っ払いをやらせるとすごくうまい。コラァ、なんていってすごく恐いんだ」

 あと、志村喬が歌う「命短し」が映画の重要なアクセントになっているが、この時黒澤監督は志村喬に「この世のものとは思えない歌い方をしてくれ」と注文したらしい。これには笑った。どういう歌い方だそれは。しかし確かに、この歌を歌う志村喬の声はこの世のものとは思えない。実際は志村喬は歌がうまく、とても美声らしい。あの「命短し」を聞いた限りではとてもそうは思えない。
 


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