アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

イタリアン・レストランにて

2017-07-16 22:19:46 | 創作
          イタリアン・レストランにて

 ぼくたちは映画を観たあとで、港区に最近オープンしたばかりのイタリアン・レストランを訪れた。ミシュランの三ツ星シェフが経営する店で、すばらしい料理を出すという評判だった。白い外壁に赤い屋根、プラタナスの木立の陰の階段、ロココ調の鉄柵に優美な蔦が絡まった店の外観は、まるでヨーロッパの古い町の絵葉書のようで、ぼくたちの期待感を高めるに十分だった。外はまだ明るかったが、半分以上の席が埋まっていた。ぼくたちが案内されたのは窓ぎわのテーブルで、染みひとつない、雪のようなテーブルクロスの上に赤いキャンドルが燃えていた。頭上には、エジプト風の巨大壁画がアーチを描いて張り出していた。

 ウェイターに注文したあと、申し分ないすばやさでワインと前菜が運ばれてきた。繊細に盛りつけられた料理は味の方も素晴らしく、芸術的というにふさわしかった。ほとんど陶然となって皿の上に身をかがめていたぼくたちは、パスタが運ばれてきた時にようやく、窓の向こうにいる一人の男に気づいた。それはどう見ても浮浪者だった。穴のあいた埃っぽい背広、肩にかけた擦り切れたリュックの口からのぞいているいくつかの空のペットボトル、モップみたいな髭と、老いた象を思わせる悲しげな目。厭だわ、と美奈子が呟いた。店の雰囲気とおいしい料理が台無しじゃないの。

 すぐに行ってしまうよ、とぼくは言った。そしてぼくたちはなるべく男の方を見ないようにして食事を続けた。けれども浮浪者は窓の前から動かない。フラフラと左右に、まるでダンスのステップでも踏むように揺れることはあっても決してその場から去っていこうとはしなかった。彼の姿はとても目立ったので、いまやレストランの客たち全員が居心地の悪い思いをしていた。

 しばらくすると給仕長が外に出て、男に近づいた。「追い払うんだわ」と美奈子が囁いた。給仕長は男に丁寧な、ぼくたちの目からするとちょっと丁寧過ぎるように思える物腰で、話しかけた。男は、給仕長の顔を穴があくほど見ながらうなずいた。給仕長は、男を連れて店の中に戻ってきた。キッチンへ向かう通路の脇に一人用の席がすばやく準備され、雪のようなテーブルクロスの上に赤いキャンドルがともされた。その場所は他の客たちから離れてはいたものの、完全に離れているというわけでもなかった。給仕長が椅子を引き、浮浪者が腰を下ろした。「一体どういうこと?」と美奈子が言った。

 ぼくはその男から目をそらすことができなかった。浮浪者は落ち着かない様子できょろきょろと店内を見まわし、寝違えた人がよくやるように痙攣する感じで首を回し、ぼくたちの方へと視線をめぐらせた。美奈子はすばやくうつむいたが、ぼくは顔を上げたまま彼を見つめた。男の巨象のような悲し気で痛々しい視線が、ぼくたちの上を通り過ぎていった。まるで高いところを飛ぶ鳥が地上に落とす、薄くて小さい影のように。

 レストランの客たちは懸命に彼の存在を無視しようと努めていた。が、いまやその努力は痛々しく、絶望的だった。状況は一気に耐えがたい域へと高まっていった。あの男は果たして悪臭を放っていただろうか? ウェイターが男の前に前菜と、オードブルと、グラスワインを並べた。その態度はあくまで慇懃だった。男が食べ始めた。料理の上に上体をかがめて一心不乱に口を動かす。ガブガブ飲んですぐにグラスが空になり、ワインの壜を持ったウェイターが再びグラスを満たした。

「一体どういうことよ?」
「分からない。食事をふるまってるみたいだね」
「あの人はなぜこのレストランで食べることができるの? どうして私たちがあの人と一緒に食事をしなくちゃいけないの?」
「もしかしたら、シェフの昔の知り合いなんじゃないかな。かつての恩人とか」
「そんなわけないじゃない」
「でなければ、最近死に別れた父親に似ているとか」

 男はあっという間に魚料理を平らげ、次に仔牛のステーキが運ばれてきた。ぼくは美奈子の方へ体を傾けて言った。「もしかしたら、あの人は浮浪者なんかじゃないのかも知れない。それどころか、有名な美食家なのかも。ミシュランの調査員の可能性だってある」
 美奈子はナプキンをたたんでテーブルの上に置いた。
「いや、冗談だけどね」
「私、気分が悪くなってきたわ。もう出ましょう。とんでもない店ね、ここ」
「まだ半分も食べてないじゃないか」ぼくは抗議した。「あの男なら無視すればいいよ」
「じゃあ、あなただけ残って食べれば。私はごめんだわ。とても耐えられない」

 美奈子はさっさと店を出て行った。ぼく一を人残し、あとを振り返ることもしないで。いつのように、彼女の決断はすばやかった。ぼくはそこに座ったまま、彼女を見送った。あの時どうして自分も一緒に出て行かなかったのか、今考えてもよくわからない。いつものぼくなら、きっとそうしていただろう。けれどもあの時ぼくは彼女の後を追わず、テーブルを立つこともしなかった。そのかわり、ゆっくりと時間をかけて残りの料理を平らげた。それらはとても美味だった。さすがに三ツ星シェフだけのことはある、とぼくは感心した。

 あの男は仔牛のステーキを食べ、デザートとエスプレッソをゆっくりと味わい、ようやくレストランを出ていった。もちろん料金は払わなかった。ただ食事を振舞われて、出て行ったのだ。それが当たり前の、ごくありふれたことのように。給仕長とウェイターは軽く会釈して、それを見送った。これらすべての意味を彼らに尋ねてみようかとも思ったが、なんとなく恥ずかしいことのような気がしてやめた。

 あれ以来ぼくと美奈子が会っていないことが、あの浮浪者と関係があるのかないのか、自分でもよく分からない。あの時、客のうちの数人が美奈子と同じようにこわばった顔で、あるいは苦笑いしながら店を出て行ったことを覚えている。それらに対しても、給仕長とウェイターは軽く会釈をしただけで平然と見送った。これらすべてを指示したはずのシェフは、ついに最後まで姿を見せなかった。
 
 ぼくが一人で店を出る時、外は真っ暗で、店の中にはもう一組しか客が残っていなかった。出口の前で振り返って見た時、彼らの前には素晴らしい料理が並び、キャンドルの先で揺れる炎が小さな光を放ち、そして向き合って座る彼と彼女は、とても幸せそうに見えた。



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