アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

城塞

2014-10-10 22:38:47 | 
『城塞(上・中・下)』 司馬遼太郎   ☆☆☆☆☆

 『関ヶ原』に続き、徳川家康が豊臣家を完全に滅ぼしてしまう過程を描いた『城塞』を読んだ。大変面白かった。しかし家康、ホンマ悪いやっちゃなあ。

 やっぱり『関ヶ原』と同じで、人間の器、品格というものを痛感させられる。人としてどう生きるか、生きる姿勢、というものをこれほどまでに考えさせられる小説は稀じゃないか。いや、もしかしてそういう小説を普段私が読まないだけかも知れないが。「人生いかに生くべきか」小説を馬鹿にしていた。まあいずれにしろ、人気作家・司馬遼太郎はやはり面白いという結論に至った。中高年サラリーマンに人気だからといって軽んじてはいけない。会社の人間関係に生かそうなんてみみっちい読み方をするとアレだが、人間の卑しさや品性という不思議な、目には見えないが確実に存在するものを物語の形でありありと描き出し、コンセプチュアル・アートの如く思考と感性の両面で賞味させるという意味で、見事な芸術品だと思う。

 さて、関ヶ原の戦いで石田三成を破り天下人となった家康、それでもまだまだ安心できない。豊臣家がいまだに存在するからだ。世の武将どもは今は自分にかしづいているが、豊臣家への忠心はまだ残している。もし豊臣家が号令をかけたら、あるいは自分が死んで息子の代になったら、どうなるか予断を許さない。だから豊臣家を潰しておかなければならない。というわけで、イチャモンをつけて無理やりいくさに持ち込むわけだが、政治というものに周到な家康、「悪いのは豊臣家だ」という大義名分を作るために実に細かい策をめぐらす。有名な、「国家安康」で「家康」の文字をぶったぎっているなんてのは序の口で、この無茶ないいがかりを正当化するために学者に手を回したり、豊臣家の誰だれは裏切り者だと噂を流したり、あっちとこっちで二枚舌を使って混乱させたり、まったくようやるわという悪巧みの連発である。

 『関ヶ原』の時は「司馬遼太郎って徳川家康を嫌いなのかな」と感じた程度だったが、本書を読むともう明らかに嫌っている。この、冬の陣、夏の陣の際の悪巧みが後世の「家康=狸おやじ」または「家康=奸物」というイメージを決定的にしたと書いており、また、政治にこれだけ周到な家康が「後世の評価」というものにまるで配慮しなかったのは、そういう価値観が当時まだなかったからだと解説している。
 
 そしてこういう家康にへつらう、保身まみれの有象無象どもが多く登場するのも『関ヶ原』同様だが、対する豊臣家はどうかというと、これがまた馬鹿ばっかりなのである。てっぺんにいる淀君がもう全然ダメで、大局を見る目がなく、感情的で、しかも臆病で、目先のことしか考えない。「豊臣家こそ天下の主君なるぞ」とプライドばかり高く、いざいくさとなるときゃあきゃあ悲鳴を上げて逃げ回るだけ。その下にいて采配を振るう大野修理も、最初は結構できる奴かと思っているとだんだん器の小ささを露呈する。読んでいて歯がゆいことこの上ない。

 じゃあろくでもない奴しか出てこないのか。もちろんそんなことはなく、そういう豊臣家に味方して、家康相手に(圧倒的に不利な)戦いを挑もうという男たちが現れる。彼らこそ、本篇の主人公たちである。豊臣家にはもういくさをできる武将がいないということで、野に下っている武将達を招聘して家康に対抗しようとするのだが、みんな家康が勝つと思っているので、豊臣家に義理や恩がある連中でさえ仮病を使ったり言い訳したりして逃げ回る。そんな中「よし、家康に一泡吹かせてやろう」と考えて豊臣家に味方する武将たちは、もうそれだけで人並み外れた、魅力あるオトコたちであるに決まっている。

 まずは、真田幸村。ご存知、2016年の大河ドラマで堺雅人が演じる予定の主人公だが、文句なく彼が本書最高のヒーローだ。天才的な戦術家にして、人間的な暖かみもあり、怯懦や保身や俗物根性などから超然とした、澄み切った精神の持ち主。もし彼が豊臣方の総指揮を取っていたら徳川軍が負けていたのではないかと思えるほどの技量の持ち主でありながら、例によって淀君が総指揮者も家柄で決めようとするので、実現しない。アホである。が、それでも幸村は豊臣家に愛想を尽かすこともなく、自分のできる範囲で着実にいくさ準備を進める。

 練達の武将も優秀な指揮官もいない豊臣家の最大の武器は「大阪城」である。秀吉が作ったこの城はほぼ難攻不落といってよく、篭城すれば攻め落とすのに何年かかるか分からないという堅牢さだが、南方だけは弱い。徳川軍は間違いなくここを全力で攻めてくる。さあどうする? と全員が顔を見合わせる中、「私が担当しましょう」とこともなげに言う幸村。彼は弱い南方に「真田丸」と呼ばれる、小さいが機能的な城塞を築く。そして案の定、そこに大軍で押し寄せてくる徳川勢。「幸村が天才戦術家といってもたかが一人、他は雑兵どもだ。あんなちっぽけな城塞踏み潰してしまえ」とばかりに殺到してくる。ところがだ。このちっぽけな「真田丸」に、圧倒的多数の徳川軍がボロボロにやられてしまうのである。予想だにしない結果に「そ、そんなバカな」と青ざめる徳川方。ここに至ってようやく、彼らは幸村の天才的戦術の恐ろしさを知る。

 この幸村の才能を誰よりも買い、総指揮官にすべきだと進言する(そして却下される)後藤又兵衛もまた、男が惚れる男である。リーダーの器があり、大局を見る目があり、行動力と勇気がある。夏の陣の最終決戦前、もはや大阪方は全員死を覚悟している。淀君や修理の愚策によって大阪城は堀を埋められ、防御を奪われ、もはやなすすべもない。が、幸村や又兵衛は最後の瞬間までベストを尽くす。又兵衛は決死の作戦に自ら身を投じ、ついに力尽きて命を落とすが、彼が死んだと聞いて何人もの武士がただちにそのあとを追って死のうとする、この場面は涙なしには読めない。小説として読んでいるだけの私でさえいいようのない喪失感を覚えたぐらいだ。本当にこんな人物に仕え、この最期に接したとしたら、「私もお供いたします!」とあとを追いたくなるのが当然とさえ思える。

 他にも、若くて未熟さもあるが勇敢でさっぱりした気性の木村重成なども好感度の高いキャラクターだ。一方、独特のポジションで物語を面白くするのが小幡勘兵衛で、彼は徳川方の間諜つまりスパイとして大阪方にもぐりこむのだが、家康への忠誠心などまったくなく、自分の「軍学」の完成だけを目指し、場合によっては自分が天下を獲ってやろうとふてぶてしく構えている。この不遜な自負心が面白く、また自分といい仲になったお夏を守るために味方の刺客まで斬ってしまったり、打算や政治ではなく、自分の価値観と情で動く魅力的な人物である。徳川と豊臣のどちらからも距離を置いており、それでいてどちらに味方してもおかしくない気まぐれな、しかし確固たる信念の持ち主だ。前半部分はほとんど彼が主人公といってもいい活躍ぶりである。

 まあこうした魅力的な武将たちの言動や、奸物・家康の政治的駆け引き、栄華をきわめた豊臣家があっけなく滅んでいく諸行無常の感慨など本書の読みどころはたくさんあるが、やはり私がもっとも面白かったのは人間の器というものの不思議さである。もちろん歴史の勝者は家康であり、従って現実的な政治力が最後は勝つといえばその通りかも知れない。しかし人間の矜持、生き方の美しさというものはまた別である。それに、外から見ると「負けた」ことになる幸村や又兵衛の人生が家康に比べて不幸だったとは、私にはどうしても思えない。なぜならば人間の矜持こそが人として精一杯生きることに通じ、ひいては生きることの醍醐味に通じる気がするからである。

 戦国の世を力いっぱい生き、駆け抜けていった男たち。なんとも鮮烈な、男を痺れさせる生きざまの数々がここにある。それにしても、三谷幸喜がどんな脚本を書くか知らないが、堺雅人が真田幸村を演じる「真田丸」は面白そうだ。これまで大河ドラマを一度もちゃんと観たことがない私だが、かなり期待感を持っている。



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