『勝者に報酬はない・キリマンジャロの雪 - ヘミングウェイ全短編(2)』 アーネスト・ヘミングウェイ ☆☆☆☆
ヘミングウェイの新訳短編集が出ているということで、ちょっと気になって入手した。「キリマンジャロの雪」と「フランシス・マコーマーの短い幸福な生涯」をまた読みたかったこともあり、この二篇が一緒に収録されていてお得感のあるこの二巻目にしたのだが、これはヘミングウェイのキーウェスト時代の短編集とのことだ。ちなみに以前の新潮文庫版では「フランシス・マコーマー」だった短編タイトル中の名前は、本書では「フランシス・マカンバー」になっている。
新潮文庫の『ヘミングウェイ短編集』と比べると、本書はいろんなタイプの短編が網羅的に収録されているせいか、一部「へえ、ヘミングウェイってこんなのも書いてるのか」という新鮮な驚きがあった。いい意味の驚きである。『ヘミングウェイ短編集』ではひょっとすると日本人好みの短編ばかりをセレクトしてあったのか、簡潔な描写でしみじしみした余韻を醸し出す、というのが私のヘミングウェイ観だったのだが、意外とユーモラス、しかもブラックユーモアの味がある。典型的なのは「神よ、男たちを楽しく憩わしたまえ」や「オカマ野郎の母親」である。『ヘミングウェイ短編集』にも収録されていた「スイス賛歌」もちょっとそんな味がある。
それに、極力虚飾を剥ぎ取ったミニマムな描写だけで作品を成立させる、というイメージもあったが、こうして色々読むと意外と構成に趣向を凝らしていることも分かる。三部構成のバリエーションになっている「スイス賛歌」は典型的だが、皮肉っぽいエッセー風に始まり最後はドタバタ風コントで締める「死者の博物誌」もそう。傑作と言われている「世界の首都」も、主人公のパコ少年が無益に死んでいくエピソードを淡々と描くだけでなく、彼を取り巻く人々の状況と同時進行的な叙述法が試みられている。ヘミングウェイがかなり方法論に意識的な作家であったことがうかがえる。
一方で、プロットらしいプロットがないスケッチ風の短編が多いのも特徴で、むしろそういう短編の方がヘミングウェイの腕の冴えが見られる。「世の光」や「ギャンブラーと尼僧とラジオ」、そして先にあげた「神よ、男たちを楽しく憩わしたまえ」や「オカマ野郎の母親」もその例に含めたい。「オカマ野郎の母親」なんてまったくおかしい短編で、まるでブコウスキの短編みたいだ。抒情的なヘミングウェイを愛する向きには馬鹿にされるかも知れないが、私は大好きだ。
同時に、「死者の博物誌」において死者や死に方について克明に描写し、「最前線」ではニック・アダムスの痛々しい戦争後遺症を容赦なく描き出す残酷さ、冷徹なまなざしも、非常に印象的である。
さて、スケッチ的な小品が予想以上に楽しめた反面、お目当てだった「フランシス・マカンバーの短い幸福な生涯」と「キリマンジャロの雪」は、ヘミングウェイのテクニックは冴え渡っているものの、正直言って再読後さほどの感銘は受けなかった。特に「キリマンジャロの雪」は、今読むとそれほどの傑作だろうかと自分でも意外な疑問を持ってしまった。分量的にも長くプロットやテーマも充分計算された作品であるために、このニ作品にはヘミングウェイの価値観や人生観が色濃く反映されている、おそらくは少々反映され過ぎていて、かつその思想がいささか直線的であるところが私の目には一種の「濁り」のように映ってしまった。
「フランシス・マカンバー」では狩に出た夫婦とガイドという、男女三人の緊張感が見事に捕らえられているが、それ以上に、猛獣狩りの際に男の「勇気」が試され、「臆病」が炙り出されるのだという哲学が色濃く漂っている。私など、手負いのライオンが間近に迫って来たら誰だって必死になって逃げるだろうと思うが、それをもって「いくつになってもおとなになれない男もいる」と審判されることに違和感を覚えると同時に、ヘミングウェイの男としての強い「倫理観」がその芸術にどこか制約を設けているという、いわば表現者としての限界を感じてしまう。
「キリマンジャロの雪」も、空しく死んでいく作家の回想というアイデアは非常に秀逸であり、自分の才能を無駄遣いしてしまった、野心はあったのに貴重な歳月を空費してしまった、という作家の後悔と虚無感を描いて間然とするところがない。が、この全身が萎えていくような消耗感で塗り潰された作品、いささかネガティヴに感傷的な作品は、スケールが小さいと感じさせる。ネガティヴだからダメというのではない、たとえば本作の中にちょっと出てくる登場人物のモデルと思われるフィッツジェラルドの小説にもグダグダの崩壊感や焦燥感でいっぱいのものがあるが、そこには存在する、人間の根幹に関わる不安と結びついた凄みのようなものが、この「キリマンジャロの雪」には欠けている。ヘミングウェイの場合、それはやはり感傷性や、しみじみした情緒の域に留まっている。いや、それがいいのだという読者もいるのだろうが、私としては少々物足りない。
従って完全に個人的な趣味を言わせてもらうならば、ヘミングウェイはテーマや構成などきちんと結構が整った作品よりも、スケッチ風の断片的な、あるいは破格な作品の方が面白いようだ。
ところで新しい翻訳については、平易で悪くはないものの、『ヘミングウェイ短編集』の大久保康雄氏の訳の方が日本語としてはこなれていて、かつニュアンスに富んでいたような気がする。比較すると、文章のインパクトがいささか薄味になっているように感じる。こうなると、やはり最近出た柴田元幸訳も読んでみたくなるが、そこまでヘミングウェイ・ファンというわけでもないし、どうしようか迷うところだ。
ヘミングウェイの新訳短編集が出ているということで、ちょっと気になって入手した。「キリマンジャロの雪」と「フランシス・マコーマーの短い幸福な生涯」をまた読みたかったこともあり、この二篇が一緒に収録されていてお得感のあるこの二巻目にしたのだが、これはヘミングウェイのキーウェスト時代の短編集とのことだ。ちなみに以前の新潮文庫版では「フランシス・マコーマー」だった短編タイトル中の名前は、本書では「フランシス・マカンバー」になっている。
新潮文庫の『ヘミングウェイ短編集』と比べると、本書はいろんなタイプの短編が網羅的に収録されているせいか、一部「へえ、ヘミングウェイってこんなのも書いてるのか」という新鮮な驚きがあった。いい意味の驚きである。『ヘミングウェイ短編集』ではひょっとすると日本人好みの短編ばかりをセレクトしてあったのか、簡潔な描写でしみじしみした余韻を醸し出す、というのが私のヘミングウェイ観だったのだが、意外とユーモラス、しかもブラックユーモアの味がある。典型的なのは「神よ、男たちを楽しく憩わしたまえ」や「オカマ野郎の母親」である。『ヘミングウェイ短編集』にも収録されていた「スイス賛歌」もちょっとそんな味がある。
それに、極力虚飾を剥ぎ取ったミニマムな描写だけで作品を成立させる、というイメージもあったが、こうして色々読むと意外と構成に趣向を凝らしていることも分かる。三部構成のバリエーションになっている「スイス賛歌」は典型的だが、皮肉っぽいエッセー風に始まり最後はドタバタ風コントで締める「死者の博物誌」もそう。傑作と言われている「世界の首都」も、主人公のパコ少年が無益に死んでいくエピソードを淡々と描くだけでなく、彼を取り巻く人々の状況と同時進行的な叙述法が試みられている。ヘミングウェイがかなり方法論に意識的な作家であったことがうかがえる。
一方で、プロットらしいプロットがないスケッチ風の短編が多いのも特徴で、むしろそういう短編の方がヘミングウェイの腕の冴えが見られる。「世の光」や「ギャンブラーと尼僧とラジオ」、そして先にあげた「神よ、男たちを楽しく憩わしたまえ」や「オカマ野郎の母親」もその例に含めたい。「オカマ野郎の母親」なんてまったくおかしい短編で、まるでブコウスキの短編みたいだ。抒情的なヘミングウェイを愛する向きには馬鹿にされるかも知れないが、私は大好きだ。
同時に、「死者の博物誌」において死者や死に方について克明に描写し、「最前線」ではニック・アダムスの痛々しい戦争後遺症を容赦なく描き出す残酷さ、冷徹なまなざしも、非常に印象的である。
さて、スケッチ的な小品が予想以上に楽しめた反面、お目当てだった「フランシス・マカンバーの短い幸福な生涯」と「キリマンジャロの雪」は、ヘミングウェイのテクニックは冴え渡っているものの、正直言って再読後さほどの感銘は受けなかった。特に「キリマンジャロの雪」は、今読むとそれほどの傑作だろうかと自分でも意外な疑問を持ってしまった。分量的にも長くプロットやテーマも充分計算された作品であるために、このニ作品にはヘミングウェイの価値観や人生観が色濃く反映されている、おそらくは少々反映され過ぎていて、かつその思想がいささか直線的であるところが私の目には一種の「濁り」のように映ってしまった。
「フランシス・マカンバー」では狩に出た夫婦とガイドという、男女三人の緊張感が見事に捕らえられているが、それ以上に、猛獣狩りの際に男の「勇気」が試され、「臆病」が炙り出されるのだという哲学が色濃く漂っている。私など、手負いのライオンが間近に迫って来たら誰だって必死になって逃げるだろうと思うが、それをもって「いくつになってもおとなになれない男もいる」と審判されることに違和感を覚えると同時に、ヘミングウェイの男としての強い「倫理観」がその芸術にどこか制約を設けているという、いわば表現者としての限界を感じてしまう。
「キリマンジャロの雪」も、空しく死んでいく作家の回想というアイデアは非常に秀逸であり、自分の才能を無駄遣いしてしまった、野心はあったのに貴重な歳月を空費してしまった、という作家の後悔と虚無感を描いて間然とするところがない。が、この全身が萎えていくような消耗感で塗り潰された作品、いささかネガティヴに感傷的な作品は、スケールが小さいと感じさせる。ネガティヴだからダメというのではない、たとえば本作の中にちょっと出てくる登場人物のモデルと思われるフィッツジェラルドの小説にもグダグダの崩壊感や焦燥感でいっぱいのものがあるが、そこには存在する、人間の根幹に関わる不安と結びついた凄みのようなものが、この「キリマンジャロの雪」には欠けている。ヘミングウェイの場合、それはやはり感傷性や、しみじみした情緒の域に留まっている。いや、それがいいのだという読者もいるのだろうが、私としては少々物足りない。
従って完全に個人的な趣味を言わせてもらうならば、ヘミングウェイはテーマや構成などきちんと結構が整った作品よりも、スケッチ風の断片的な、あるいは破格な作品の方が面白いようだ。
ところで新しい翻訳については、平易で悪くはないものの、『ヘミングウェイ短編集』の大久保康雄氏の訳の方が日本語としてはこなれていて、かつニュアンスに富んでいたような気がする。比較すると、文章のインパクトがいささか薄味になっているように感じる。こうなると、やはり最近出た柴田元幸訳も読んでみたくなるが、そこまでヘミングウェイ・ファンというわけでもないし、どうしようか迷うところだ。
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