アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

あなたに不利な証拠として

2007-04-11 09:56:52 | 
『あなたに不利な証拠として』 ローリー・リンドラモンド   ☆☆☆

 非常に評判がいい短篇集なので読んでみた。警察小説なのでミステリということになっているが、実際は女性警官の人生を描いた普通小説に限りなく近い。ベクトルは「純文学」を向いている。ただしカッコ付きである。

 純文学、つまりシリアス・リタラチャー。現代文学においては別に純文学だからシリアスな調子で書かれているとは限らず、むしろシリアスな内容を軽やかに描いたりユーモラスに描く場合だってあるわけだが、この小説のトーンはどシリアスである。真正面の直球。そういう意味では、ちょっとアナクロな「純文学志向」のようにも思える。
 トーンだけでなく内容もそうだ。女性警官が主人公で、著者も女性で警官をやっていたということから想像がつくように、めいっぱい体験が生かしてある。リアルである。実際に経験したものでないと書けない、例えば死体の臭いやら、事故現場の生々しさやら、犯人逮捕時の異常な緊張感やらが、微に入り細を穿ち克明に描写される。確かに迫力はある。それも評判を呼んでいる理由の一つのようだ。しかし意地悪な言い方をすれば、普通の人があまり接することのない死体や暴力を、実際に知っている人がリアルに描写すれば強烈になるのは当たり前じゃないだろうか。この強烈さは本当に文学的な達成なんだろうか。なんというか、純文学的オブラートにくるまれたセンセーショナリズムということはないか。

 もちろん作者が警官だったからと言って全部実体験のはずはなく、話は創作しているわけだから、経験を虚構の肉付けとしてうまく生かしているといえるかも知れない。しかしこの作品では、小説の核となっているのもやはりこういう「ショッキングな題材」ばかりなのである。たとえば最初の短篇『完全』では、主人公の女警官が人に聞かれたら「いいえ、誰も殺していないわ」と答えるが、実は自分は一人の男を殺している、と読者に向って重々しく告白するところから始まる。
 『告白』という短い短篇では、主人公の女警官がジョージというセイウチみたいな老人と話をし、あくびを噛み殺したり笑いをこらえたりして、なんとなく(というか完全に)小馬鹿にしている。最後に老人がベトナム戦争でレイプした兵士を殺したと告白すると、女警官はもう笑わず、老人に対する見方が変わったことが暗示される。
 最後の短篇では、心に傷を負った主人公(結果的に容疑者の射殺を黙認してしまった女警官)が田舎にやってきて心を癒そうとする。惹かれる男性がいるが彼女は心を閉ざしている。最後に男性が、酔っ払い運転で妊娠した妻を死なせた過去を告白すると、彼女は「自分の中で何かがうごめくを感じ」、二人の間に共感が成立する。

 まあ苦悩が文学的主題であることは分かる。しかし重たい悲劇やトラウマを背負った人間は、そうでない人間より高尚なのだろうか。セイウチのような老人がもしベトナム戦争で誰も殺しておらず、ただ穏やかに生きてきた老人だったら馬鹿にされていいのだろうか。

 つかこうへいはかなり昔のエッセーの中で、現代人の悲劇は悲劇の不在だという意味のことを独特のおちゃらけた調子で書いていた。例えば小学校では両親が離婚したりアル中だったりする子供が尊敬され、「何不自由なく」育った子供は馬鹿にされる。「何不自由なく」育ったことが最高の苦悩となるという、つかこうへい的逆説の世界だ。ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』の中では、耐えられないのは重さではなく存在の「軽さ」である。

 しかし本書には存在の耐えられない軽さもつかこうへい的逆説も存在しない。人々は重さを背負い、重さを背負えば背負うほど人間的と見なされ、小説はそこに崇高さを見出し、シリアスさが醸し出されていく。それは悲劇であり痛切ではあるがどこか誇らしげである。まるで深刻な顔をして重々しい身の上話を語る人のようだ。しかし実はこれはキッチュなのではあるまいか。純文学的キッチュ、と言ってもいい。

 というわけで、結果的に私はこれを「純文学キッチュ」をまとった娯楽小説と見なしている。しかし文章や構成のテクニックがうまいのは確かだ。複数の女性警官が主人公として登場し、それぞれのキャラクターが微妙に交錯したりする。警官の日常のリアルな細部も面白いし、感情描写が巧みであることも間違いない。娯楽小説として読めば優秀だと思う。しかし妙に純文学っぽいので、上に書いたような違和感をどうしても感じてしまう。
 


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