アブソリュート・エゴ・レビュー

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笑の大学

2005-07-03 07:36:31 | 映画
『笑の大学』 星護監督・三谷幸喜脚本   ☆☆☆

 昨日レンタルビデオで鑑賞。三谷幸喜が脚本で、舞台が傑作だったと聞いてそれなりに期待して観た。結果はまあまあ。期待したほどではなかった。

 これよりネタばれあり。
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 昭和十五年が舞台。今まで心から笑ったことがないという検閲官(役所広司)が劇団の座付作家(稲垣吾郎)の脚本を検閲する。外国人を出すな、「お国のために」という台詞を入れろ、警察官を出せ、キスシーンをなくせ、などなど難題を吹っかけ、作家の椿が懸命に書き直しをする。すると書き直しのせいでかえって脚本はどんどん面白くなっていき、検閲官と椿の間に奇妙な共感が生まれ始める…。

 あらすじを読むと分かるように『ラヂオの時間』に似たところがある。あっちは出演者のわがままでどんどん話が変わっていく話だったが、こっちは検閲官の注文でどんどん変わっていく話である。もともと『ロミオとジュリエット』のパロディだったイタリアの話が、検閲官の注文で日本に変えさせられる、とか。まあ似ているからいけないとは言わないが。三谷幸喜こういうの好きなんだな。

 舞台劇の雰囲気を出したかったようで、セットは意図的に芝居の書割的にしてあったりする。基本的に密室内の二人芝居なので、これは悪くはなかった。

 役所広司はやっぱりうまい。三谷幸喜の芝居はかなりデフォルメされた演技をする役者が多いが、この人の演技は非常に精緻、緻密という感じがする。対する稲垣吾郎は、がんばってはいるが役不足。滑舌が悪く、気になる部分もあった。ただ、酷評するほどではないと思う。

 脚本がどんどん変わっていくところが笑いどころのはずだが、私は大して笑えなかった。これが第一の不満。本当に笑ったのは芸者のおくにさんぐらい。お肉のため、のギャグがやたら最後まで引っ張られるが、個人的にはかなり寒い。

 それから、最後の方でシリアス調になり、椿がどうして人を楽しませるのがいけないのかとか、どうして検閲なんてことをするのかとか突然反権力のアジテーターと化して主張を始めるが、これがいただけない。直球すぎる。そのまんまだ。これを台詞で言わせちゃ駄目だ。私は原則どんなに正しいメッセージでも、映画や小説の中でそのまま言葉にして主張するのは良くないと思う。それは芸術作品から多義性を奪い、謎めいた力を奪ってしまう。アジテーションの場となった作品は政治的なアジびらと化してしまう。
 この映画に関して言えば、物語全体がすでに横暴な検閲制度への批判になっている。それはユーモラスで、雄弁で、多義的で、説得力のある批判だ。しかし、それをここで台詞にして言わせてしまうと、かえって空々しい、浅はかな二元論になってしまう。

 この場面に限らず、全体に、特に終盤だけれど、この映画は「人を笑わせるのは素晴らしいことだ」という主張に貫かれている。それは悪くない。でも時にはそれが、「人を笑わせる才能とは素晴らしいものだ」「人を笑わせようとしているのを邪魔するのは悪いことだ」「人を笑わせられないというのは悲しいことだ」までのニュアンスを感じる瞬間があったというとひねくれすぎだろうか。何か、自分と自分の仕事をかなり持ち上げていないか、三谷幸喜。
 人を笑わせるというのが凄い才能であり、素晴らしいことであるのは当然である。ただ自分で言うとちょっと嫌らしいと思うんだけど。

 どうもこの人は映画よりテレビの方が面白いような気がするが、気のせいだろうか。『ラヂオの時間』も、あまりにご都合主義的で引いてしまうところがあった。あんなメチャクチャになってしまったラジオドラマで、トラックの運ちゃんが感動して泣く、などというところとか。

 自分としては三谷幸喜関係の映画では好きなのが『十二人の優しい日本人』『みんなのいえ』、駄目だったのが『ラヂオの時間』『笑の大学』ということになる。この二つはたまたま両方とも脚本に四苦八苦する脚本家及び制作者の話である。この人は自分の職業を題材にすると客観性が失われてしまうということはないだろうか。客観性というか、斜めに見るという姿勢は良質のコメディには欠かせない。脚本家の仕事やコメディを愛しているのは良く分かるが、時々それに酔い気味になるのが気にかかる。

 これは舞台では西村雅彦・近藤芳正の二人芝居だったそうだ。この組み合わせにはひかれる。観たいなあ。

 

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