アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

さかしま

2010-09-24 21:38:26 | 
『さかしま』 J.K. ユイスマンス   ☆☆☆☆

 再読。翻訳は渋澤龍彦。本書はデカダンスの聖書とか奇書とか色々言われているので、読む前はどんなとんでもない小説かとびびっていたのだが、読んでみると意外と普通で拍子抜けした。バタイユの『眼球譚』とかレアージュの『O嬢の物語』とかマンディアルグの『城の中のイギリス人』とか、ああいうスキャンダラスな暗黒小説系かと思っていたのである。実際はそんなことはなく、非常にヌクヌクとした趣味的な小説だ。

 登場人物は隠遁者にして独身者のデ・ゼッタント、ほぼ一人だけである。あとは召使ぐらい。小説は彼が田舎の邸宅に隠遁して打ち込むさまざまな趣味と、その趣味的な生活の有りようを描く。ストーリーは特にない。ある章では絵画について語られ、ある章では詩について語られる。その語りは一般的な薀蓄というより、デ・ゼッタントの偏った趣味傾向をベースにした独断と偏見の嵐である。その偏った趣味傾向とは、要するに人工的、反自然的、神秘主義的な中世趣味なのだった。

 もっと具体的に言うと、扱われる題材は神秘的な絵画(モロー、ルドン)、ラテン語の詩篇、インテリア、香水、花(蘭や食虫植物、人工物を模倣した花)、近世文学(ボードレール、マラルメ、ヴェルレーヌ、ポオ)、音楽(教会音楽)、などなどだが、これらをエッセーとしてではなく小説として呈示したところがミソだろう。要するにユイスマンスはデ・ゼッタントという人物、美と洗練の世界に沈潜することのみを生きがいとする独身者をひたすら精密に造形し、呈示したのである。それだけだ。だからこの小説には筋がない。奇書というのはそういうことである。特に当時は自然主義文学が隆盛していたので、こういう突然変異的な小説は奇異に見られたのだろう。フローベールも、そういうのはやめて自然主義に戻った方がいい、と忠告したりしたそうだ。

 そういうわけで、この小説を愉しめるかどうかは、読者にデ・ゼッタント的気質があるか否かで決まってくる。例えば誰もが思い浮かべるように、渋澤龍彦はまさにデ・ゼッタント的人物だ。私は渋澤龍彦も好きだし、モローやルドンの絵画も大好きなのでかなり共感できた。私のような人間にしてみれば、デ・ゼッタントの生活は一種願望充足的な、ヌクヌクした心地よさに満ちた生活である。こんな風に隠遁して、好きな芸術作品の賞味三昧で暮らせたらどんなにいいだろうと思う。現代なら、ここに映画のコレクションと写真芸術が入ってくるだろうな。

 私は香水や教会音楽については何も知らないが、香水芸術についてその歴史や評価を長々と書いてある部分なども、分からないなりに愉しめる。別世界を覗き見る面白さだ。なんせ、やたらマニアックなのである。こういう情熱を面白いと思えるかどうかも、本書に惹かれるかどうかのポイントだろう。

 それから本書を奇想小説としてみた場合、強烈なのは花について書かれた章で、もはや自然の花、または自然の花を模した人工の花に飽きたデ・ゼッタントは、「人工物を模した自然の花」にしか惹かれないのである。え? なんですかそれは? というわけで、ブリキ製みたいに見える花、ある種の病気にかかった人間の皮膚を思わせる模様の花、などがあれこれと情熱を持って紹介される。どこまで実在の花なのか分からないが、強烈だ。食虫植物についての精密な描写もすごいぞ。

 分からない人には「で、何?」の世界、しかし分かる人にはきわめて良く分かる桃源郷。『さかしま』とはそんな小説である。


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