アブソリュート・エゴ・レビュー

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淑女は何を忘れたか

2015-12-09 22:00:10 | 映画
『淑女は何を忘れたか』 小津安二郎監督   ☆☆☆☆

 日本版DVDを購入して鑑賞。『小津ごのみ』で中野翠が絶賛していたので、とても観ずにはいられなくなった。

 しかしこれはまた、何と他愛もない物語だろうか。家庭内の他愛ない小事件を扱うのが得意な小津の映画の中でも、ひときわ他愛のない話だ。そしてまた、それと同時に、なんと幸福なフィルムだろうか。私はこれほどまでにチャーミングな映画を今まで観たことがない、と思ってしまった。他愛ないからこそ、チャーミングなのである。

 一種のコメディということになるのだろうが、ただ観客を笑わすための、コントの延長線上にあるようなコメディ映画ではない。ちゃんとした芝居を見せ、物語を見せ、その中でディテールの微笑ましさが観客の頬を緩ませてしまうという類の、美しく上質なコメディである。中野翠はこれを「ルビッチ風」と呼んでいる。やはり幸福感に溢れた、チャーミングな数々のフィルムを撮ったあのエルンスト・ルビッチの、いわゆるルビッチ・タッチを思わせるということである。ストーリーはきわめてシンプルで、大学のドクトル・斎藤達雄は妻・栗島すみ子に頭が上がらない。その家に姪・桑野通子が一時滞在することになり、ドクトルと一緒に酒場に行って酔っ払って帰って来たりする。そんなことが何度かあった後、妻・栗島すみ子は激怒して夫をなじり、姪をすごい剣幕で叱る。するとドクトルはつい、妻の頬をピシャリ。「いい気になっているのはお前の方じゃないか!」びっくりして口を利けなくなってしまう妻・栗島すみ子。さて、この夫婦は一体どうなるのでしょう?

 という、基本的にはこれだけの映画である。なんとも他愛ない。そんな映画面白いのかと呆れる人がいるかも知れないが、これが面白いのである。名人の手にかかれば、世界滅亡や国家の存亡や殺人や誘拐が起きなくたって映画はちゃんと面白くなるのであって、これはまさにそのお手本のような映画だ。もちろん、そんじょそこらの凡人監督に真似できることではない。

 とにかくこの結末の素晴らしさを見よ。ネタバレを嫌う人のためにはっきりとは書かないでおくが、あの素晴らしいシークエンスを誰かと語り合いたくてたまらない。あの、掌に新聞を載せてバランスをとりながら、ニヤケ顔で自室に入っていく斎藤達雄を見て顔をほころばせない人がいるだろうか。あるいは、「もういっぺんやってみ!」とドクトルに新聞を放り投げる桑野通子の愛らしさに惚れない観客がいるだろうか。そして、もはや陶然とならずにはいられないあの深夜のコーヒー。ひとつひとつ灯りが消え、重なる襖が小津ならではの精密なコンポジションを形作る中、遠くでぐるぐる歩き回る斎藤達雄、いそいそとコーヒーを運ぶ栗島すみ子。ちらりと見えるだけの、この二人の姿。これには感嘆した。普通の監督なら幸福そうな二人のアップで、あるいはズームアウトして終わるところだろうが、これはまさに離れ業的なセンスである。

 こんなあたりが本作の魅力の芯の部分だとすれば、それ以外にも数々の愉しさ、美しさが、その芯の回りを取り巻いている。『小津ごのみ』で特に中野翠が指摘していたのは桑野通子と斎藤達雄のファッションだが、いやもう、口を半開きにして見惚れてしまうほどにカッコいい。昔の人ってほんとにこれほどファッショナブルだったのだろうか。いや、そんなわけないのだが、この映画の中ではそうなのだ。これもルビッチ風の贅沢さである。

 それからなんといっても、おそらくは誰もがとりこになってしまうであろうヒロイン・桑野通子の魅力。顔がきれいとかそういうことではなく(もちろん顔もきれいだが)、歯切れのよい関西弁でドクトル夫婦を向こうに回し、陰湿さのかけらもないカラッとした態度を貫く爽やかさ、小気味良さ。酔っ払って「ウィッ!」と声を漏らす時の可愛らしさ。彼女にあの口調で「かめへん、かめへん」と言われると、本当にあれこれ心配するのが馬鹿らしくなって、心が晴れ晴れとしてくる。

 それからまた、節子とドクトルの助手である岡田(佐野周二)の距離感がうまい。この二人はどんな関係なんだろうと思いながら観ているいると、二人が登場する最後のシーンの、ほんのちょっとした会話から分かるようになっている。そして、これも『小津ごのみ』で中野翠が特に言及していた節子のセリフ、「うち、明日の今時分もう大阪や」。中野翠はこの場面を「『時』というものが一瞬、光となってきらめいたかのような感触がある」と表現しているが、本当にその通り。なんとも美しいシーンだ。
 
 75分ほどの短い映画だが、マジックと香気に溢れた、とても魅惑的な作品である。



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2 コメント

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桑野通子 (無銘)
2018-09-18 15:02:15
桑野通子さんは奔放な女性を演じさせたらピカ一です
小津監督と同年生まれの清水宏監督の『有りがたうさん』でも魅力的な役を演じられているので是非
有りがたうさん (ego_dance)
2018-09-24 09:57:41
ずっと前に一度観たことがあるのですが、『有りがたうさん』に桑野通子さんが出ていらっしゃるとは知りませんでした。もう一度観てみます。教えていただいて深謝です。

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