アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

潤一郎ラビリンス〈6〉異国綺談

2005-07-08 12:09:44 | 
『潤一郎ラビリンス〈6〉異国綺談』 谷崎潤一郎   ☆☆☆☆

 一昨日読了。面白かった。異国綺談ということでエキゾチズムが主題だが、それぞれの短篇が微妙に趣が異なっていて楽しめる。

『独探』 
 最初独探の意味が分からなかったがスパイのこと。しかしスパイ云々は関係なく、要するに変な外人との交遊記であるが、これが非常に面白い。谷崎である「私」は西洋というものにものすごい憧れと幻想を抱いている。その憧れ具合は現代から見ればほとんどファンタジーの世界で、まるで欧州が神々の住むオリンポスであるかの如くである。これが当時の普通の感覚なのか誇張してあるのかよく分からないが、ユーモラスで大変面白い。「私」の頭の中にある西洋は幻想的なまでに美しい世界で、そこには天使のような人々が暮らしているのだ。
 その天上界からなぜか日本にやってきたオーストリア人のGと「私」は親しくなり、色々と行動をともにするのだが、このGがまた変な奴なのだ。女にだらしなく、口がうまく、嘘つきで、現金で、しかし倹約家で、えらいところもあるようなないような奴である。付き合っているうちに身なりもだんだんボロくなってくる。そのGと呆れつつも忍耐強く交際する「私」こと谷崎潤一郎もまたおかしい。Gと「私」は浅草の映画館に行ったりロシアンバーに行ったりするのだが、当時の風俗も風情があって良い。

『玄弉三蔵』
 三蔵法師がインドに行ってあれこれ見て回る話である。変な修行をしている行者達が色々出てくる。這って旅する行者、無言の行を行う行者、歌を歌う聖女、体のあちこちの沐浴を行う行者、その他色々。これも面白い。

『ハッサン・カンの妖術』
 インド妖術の話ではあるが、これもやはり妙なインド人との交流の話という方が正しいような気もする。最初と最後に妖術が出てくるが、大部分は図書館で出会ったインド人のことである。『独探』の方が面白い。

『秦淮の夜』
 中国の秦淮の夜、美しい女を求めてさまよう話。要は買春で、けしからん話なのだが、その後ろめたさと異国情緒と夜をさまよう心細さが渾然一体となって、不思議にノスタルジックな世界を作り出している。

『西湖の月』
 耽美の世界。リアルな旅行記の体裁で進み、最後に一気に耽美の世界へ飛翔する。その転調がめまいを誘う。

『天鵞絨の夢』
 本書中もっとも耽美な物語。『西湖の月』と違って最初から綺談の世界が繰り広げられる。中国の西湖のほとりにある豪奢な邸宅で、権力者が数々の奴隷達をなぐさみものにしながら享楽的な生活を送っている。逃げ出した奴隷達の証言によってこの短篇は成り立っている。
 豪邸内での享楽的なエピソードの数々が語られるのかと思っていたらそうではなく、基本的に一つのエピソードを複数の視点で語るという話だった。水槽の中を泳ぐ美少女、眠る女王とそれを見守る美少年、少女と少年の恋、そしてそれに対して下される女王の残酷な罰。耽美である。ただし、閉ざされた空間、絶対権力者、奴隷、というフランスのエロティシズム文学を思わせる道具立てからするとわりとおとなしい話で、そこが私としては少々物足りなかった。

 というわけで、『天鵞絨の夢』を目当てに買ったのだが、あまり耽美でないユーモラスな『独探』が一番面白かった。

 ところで本書の解説で、エキゾチズムとは異国の皮相的な理解から生まれるもので「虚妄な幻影」であるとのサイードの言説が紹介してあり、編者はこの論にシンパシーを抱いている風である。要するに日本といえばゲイシャ、フジヤマと言うようなもので、これは無知と偏見にもとづいた誤った認識である、だから良くない、ということだ。もちろんそれはその通りだ。しかし芸術におけるエキゾティズムは文化人類学の場合とはまた別の価値を生じる場合がある。プリニウスの博物誌は現代の科学からすれば間違いだらけで無価値かも知れないが、幻想芸術としてはその真偽に関係なく、いやむしろそれが現実とはかけ離れているが故の価値というものがある。神話的な価値と言ってもいい。錬金術や中世の天使学、悪魔学も同じである。また、誤解にもとづくエキゾティズムを意図的に利用してユニークな音楽を作り出したYMOのようなアーティストもいる。
 『独探』の中で描かれたユートピアとしての西洋、あるいは『秦淮の夜』で描かれた迷宮としての秦淮は、それが意図的なものかどうかは別にして、現実の異化として非常に有効に機能していると思う。そういう意味で、このようなエキゾティズムを私は評価する。



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