アブソリュート・エゴ・レビュー

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アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

2017-08-22 22:08:26 | 
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』 フィリップ・K・ディック   ☆☆☆☆☆

 フィリップ・K・ディックの名作、通称『アンドロ羊』を再読。知っている人も多いだろうが、映画『ブレードランナー』の原作である。ただ原作ではあるが、ストーリーや雰囲気はかなり違う。本書を読んで『ブレードランナー』のあの雰囲気を紙上体験しようと思ってもそれは無理だ。この原作小説ではデッカードは既婚者で、しかもなかなか大変そうな結婚生活を送っているし、ボーナスが入ったら電気羊じゃなく本物の羊を買いたい、みたいなサラリーマン的悩みを持つ公務員である。ブレードランナーやレプリカントというかっこいいタームも映画だけのもので、小説ではそれぞれバウンティ・ハンター(賞金稼ぎ)、アンドロイドと呼ばれる。何よりも、原作できわめて重要な意味を持つ共感ボックスやマーサー教という宗教的ガジェットが、映画からはきれいさっぱり姿を消している。

 さて、小説は主人公であるデッカードが人間そっくりのアンドロイド狩りをするプロットと、放射能に身体や脳がやられているため移民も結婚も許可されない「特殊者」イジドアが孤独感からアンドロイドたちをかくまうプロット、の二つが並行して進む。ディックお得意の多視点的叙述で進み、終盤で二つのプロットが融合する。

 デッカード・プロットは大筋では映画と同じで、植民惑星から地球に逃げてきたアンドロイド8人(そのうち2人は前任者が始末しているので、残り6人がデッカードの担当)を一人ずつ始末していくわけだが、その中で特に重要と思われるエピソードは、デッカードがニセ警察署に連行され、そこで出会ったフィル・レッシュというバウンティ・ハンターを通して、人間とアンドロイドの区別に疑問を持つようになるくだりである。

 デッカードは最初アンドロイドを殺すことに疑問を抱いていない。それは「殺し」ではなく「処理」である。ところが優れたオペラ歌手であるアンドロイドを見て、彼女を殺すことの意味に疑問を抱く。そしてもう一人のハンター、フィル・レッシュがアンドロイド殺しを楽しんでいるのを見てレッシュもアンドロイドだと信じるが、テストで彼は間違いなく人間だと判明したため、ますます疑問が深まる。果たして人間とは何か、アンドロイドとは何か。その結果、彼は自分自身をテストにかけて自分が人間であることを確認せずにはいられなくなるところまで追いつめられる。

 この「人間とアンドロイドの違いとは何か」こそが、本書最大のテーマである。それは単純に生物学的に人間か、アンドロイドかということではなく、「人間」性と「アンドロイド」性という問題へと発展していく。「人間」性とは他者に共感できることであり、「アンドロイド」性とは他者への共感能力を欠き、無関心であり続けることである。しかしながら、デッカードはアンドロイドの中にも場合によっては「人間」性があり、人間の中にも場合によっては「アンドロイド」性があることを発見する。従って、大切なのは生物学的に人間であるかどうかではなく、他者に共感できるか、他者に親切であるかどうか、なのである。ディックが本書で言おうとしていることはそこに集約される。

 デッカードはアンドロイド狩りを通して徐々にそのことを発見していくが、実は、このテーマを最初から明確に担って登場するのがマーサー教と共感ボックスである。共感ボックスとはハンドルが付いた箱で、このハンドルを握った者は、石を投げつけられながら岩山をひたすら登り続けるウィルバー・マーサーという苦行僧めいた老人と一体化する。同時にハンドルを握っている地球上のあるいは植民惑星上の人間たちすべてが、その苦しみを分かち合う。バーチャル・リアリティみたいなものだが、ただし投げつけられた石で疑似現実の中のマーサーがケガをすると、ハンドルから手を放して現実に戻ってもそのケガは消えない。ひどく出血する時もある。

 この奇怪な共感ボックスは人間なら誰もが一つ持っているというぐらい普及していて、人類の心の支えになっている。だからアンドロイドたちはマーサー教をイカサマだと告発するキャンペーンを張り、マーサーを演じているのが三流の俳優であること、岩山がハリボテであり、昔スタジオで撮影されたフィルムであること、投げつけられる石やケガも全部演技であり、ヤラセであることを暴露する。ところが、この小説の中ではマーサーが実際にデッカードやイジドアの前に現れ、叡智に満ちた預言的な言葉を与える。つまり、マーサーはインチキでもあり本物でもあるという、ディック一流のパラドックスなのである。

 そして、アパートの中に出現したマーサーは絶望するイジドアに言う。「共感ボックスがインチキだったとしても、私が三流俳優によって演じられた役柄だとしても、実は何も変わらない。アンドロイドたちには、決してそのことが理解できないだろう」

 この「共感」能力をキーとして展開していく「人間」性と「アンドロイド」性に関する考察は非常に首尾一貫していて、またマーサー教や動物への愛情という他のモチーフともしっかり整合していて、いつもの行き当たりばったりなディックらしくない。それが本書『アンドロ羊』がディックの中で珍しく破綻のない、まとまった小説として評価されているゆえんだ。一方で、ディックらしいハチャメチャさには欠けるきらいがあり、お得意の現実崩壊もない。

 途中でデッカードが警察に捕まり、聞いたことがない警察署に連れて行かれるあたりは「お。現実崩壊または現実変容きたか?」と思わせるが、すぐに合理的な説明がついてまた元のレールに戻る。つまり、ぐちゃぐちゃになる快感はない。ただし、例によって細かい部分で辻褄が合わないところはある。ニセ警察にデッカードが連れて行かれてからのアンドロイドたちの行動はどう考えてもおかしいし、レッシュが結局人間だったというのも、それまでの他のアンドロイドたちの言動からすると辻褄が合わない。

 まあしかし、そんな緩さはありながらも、一つのテーマをエピソードを重ねて掘り下げていくアプローチはいつになくまっとうだし、面白半分にクモの足を切り落とすアンドロイドたち、山羊を殺すレイチェル、猫を死なせてしまうイジドアなど、エピソードがテーマから逸脱していかず有機的に関連しているところが、小説としてのまとまりの良さに繋がっている。また、デッカードが人間は必ず間違ったことをやらされる運命にあることを悟るところなど、不条理性を色濃く滲ませた世界観がいかにもディックらしい。

 『アンドロ羊』はスリラー的なプロットとキッチュなB級性と深遠な哲学性が混ぜこぜになった、とても奇妙なSF作品であるが、その一方で、一つの切実なテーマによって各パーツがしっかりと縫い合わされた力強くも美しい作品である。ディックらしい八方破れの快感は少ないかわりに、ずっしりと重たい、染み入るような感動がある。やはり傑作である。



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