アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

ストーカー

2017-08-19 09:26:20 | 映画
『ストーカー』 アンドレイ・タルコフスキー   ☆☆☆☆

 日本版ブルーレイで鑑賞。最初に観た時は途中で寝落ちした(タルコフスキー映画のお約束)ため、今回二度目のチャレンジである。

 この映画はタルコフスキーが母国ソ連で作った最後の作品で、名作『惑星ソラリス』の次作である。私が買ったブルーレイについてきた解説書でも複数の識者の方々が傑作と称賛していて、タルコフスキーでどれか一つ選べと言われたらこれを選ぶだろう、なんて書いている人もいる。まあタルコフスキーはどれをとってもタルコフスキー以外の何ものでもないので、どの作品を選んでも大差ない気もするが、あえて私の趣味で言わせてもらえば、今のところ他の作品、たとえば『惑星ソラリス』や『鏡』の方が好きである。

 さて、映画が始まると、いつも通りのタルコフな世界が広がる。荘重かつ憂鬱な音楽、廃墟めいた部屋、水分過剰でビチョビチョな床や地面、のろのろとカタツムリが這うように動くカメラ。ディープである。モノクロで始まるが全篇モノクロではなく、プロローグとエピローグの一部だけがモノクロ映像になっている。ストーリーの主要な部分を占める、登場人物たちが分け入っていく「ゾーン」の中の光景はカラーである。

 さて、では「ゾーン」とは何か。宇宙から隕石が降ってきたか異星人がやってきたかして、その名残りとなった場所である。正確に何があったのかは政府が隠しているので分からない。こういう設定は『惑星ソラリス』とよく似ている。とにかくそこへ行ったものは科学者であれ兵隊であれ、誰一人として戻ってこない。政府はそこを立入禁止区域とするが、こっそり侵入していく者が後を絶たない。なぜなら、ゾーンに行けば望みが叶うと信じられているからだ。

 タイトルの「ストーカー」とは、女のあとをつけ回す変質者のことではなく、「ゾーン」の案内人のことである。もちろん、非合法だ。この物語は、あるストーカーがその客である「教授」と「作家」を連れて「ゾーン」に分け入っていき、その中心部にある部屋へと案内する物語である。

 三人はまずトロッコみたいなものに乗って「ゾーン」に到着するが、そこは普通に緑があり川があり、打ち捨てられた廃物置き場などががある、特になんてことない場所である。が、案内人=ストーカーが言うには「ゾーン」は罠に満ちている、それは人間がやってくると活動を開始する、たとえば環境が絶え間なく変化する為に同じ道を戻ることはできない。だから「ゾーン」の中を進むには細心の注意を払わねばならない。そういって三人は徒歩で森や水辺みたいなところをずっと歩いていくが、別に大したことは起きない。

 普通の監督なら、ここで「ゾーン」の恐ろしさ異常さを知らしめるために何かしら超自然現象を起こすところだろうが、タルコフスキーはそんなことはしない。ただ三人が哲学的会話を交わしながら歩いていくだけである。一度、後方に置き去りにしたはずの「教授」が前方にいた、という場面があるぐらいだ。

 では何がストーリーを構成するのかというと、やはり三人の会話ということになる。会話の内容は哲学的だが、とはいってもまとまった思想というわけでもなく非常に断片的で、多分にムード的である。たとえば、人生とは、個人的願望とは、幸福とは、など。ストーカーは「ゾーン」を信仰しており人生に対して生真面目で、「作家」はニヒリスティックで斜に構え、「教授」はその中間である。最初にストーカーが、「ゾーン」を訪れて大金持ちになりその一週間後に自殺した男の話をするが、これが「ゾーン」が、ひいてはこの映画が観客に投げかける謎である。男はなぜ自殺したのか? 

 このミステリーと謎めいた「ゾーン」の存在が、観客をいつもの濃霧が立ち込めたようなタルコフスキー的迷宮世界にいざなうが、特にストーリーに進展がないまま三人がだらだら歩いていくだけなので、観客は強烈な睡魔が襲ってくることを覚悟しなければならない。

 やがて三人は「ゾーン」の中心部分にある部屋の前に辿り着く。そこに入ると望みが叶うという部屋だが、この場面で三人が交わす会話によって、自殺した男の謎は解明される。ここでネタバレするつもりはないが、それに関連する重要なコンセプトとして語られるのは、「ゾーン」が叶えるのは人間の無意識の願望であるということだ。つまり、心の中に秘めた願望を叶えてしまうのである。このあたりまで来ると、この映画は『惑星ソラリス』の別バージョンと言っていいぐらいよく似ていることに観客は気づくだろう。

 最後どうなるのかと思って固唾をのんで眺めていると、『ソラリス』の如き戦慄のエンディングではなく、穏やかにフェードアウトするような結末となる。三人は結局別世界へ呑み込まれることなく、出発地点である元の場所に帰ってくる。私が観たタルコフスキー映画の中では珍しいパターンである。最後は、ミュータントであるストーカーの子供が念動力でテーブルの上のコップや壜を動かしている場面で終わる。

 先に書いたように、タルコフスキーの映画はどれもタルコフスキー以外の何ものでもない世界なのであまり出来不出来を言ってもしかたがないし、さほど出来不出来の違いもないのだが、個人的には、テーマが『ソラリス』に酷似していること、オチのつけ方がいささかぬるい気がすること、映像が単調であること、三人の会話が断片的でさほど面白くないこと、などでまあまあレベルにとどまった。ただし、あくまでタルコフスキーのフィルモグラフィーの中ではという意味である。普通の映画とはちょっと比べられない別次元の映画であることは他の彼の作品同様で、特に、汽車の音、川、靄、遠くの煙突、などのノスタルジー装置の喚起力は、いつもながら見事である。



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