崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

分自身に対する心

2016年06月08日 05時17分05秒 | 日記
舛添都知事の話題は本欄で繰り返すほどとは思わなかったが政治家の政治的なことではなく、人生論的に触れたくなった。彼はこの日本社会の法律や制度の正道に乗って優等生として知事になった人である。努力、受験勉強、東大、法学、教授、政治家などへのプロセスを通してトップに上がった人、いわば出世した人である。今彼の出世物語りがダウンしている。弁護士の調査で「不適切」なことはあっても「違法ではない」という。何度も「反省」と繰り返し「粉骨砕身」し続投姿勢を強調しているが世論不評はとどまらない。社会的出世ルート、主な法理だけでは彼は自己防衛ができない。折角努力して手に入れたものを手放すようになっている。富を蓄積した人も一気に失うことも多い。今度の舛添氏のことは彼だけではなく、多くの政治家に大きい教訓がある。
 弁護士は不適切の基準は常識であると言った。法は常識、慣習、民俗などから作られたものである。この世には「法がなくとも生きる」善良なる人間だけではないのでタブー(taboo)がありそれを犯すと祟るのである。さらに法律が必要とされ、禁する(prohibit)のであり違法になると罰される。「法律を知らなくても自分自身に対する心が良心(良い心)」(新約聖書ローマ2:14-15)が律法の根源であろう。法律は人類の普遍的なものではなく永遠なものでもない。無法状況は時々起こりうる。日韓にだけでも法律が大きく異なっている。法律は真理ではない。それを金科玉条と信じている律法主義は危険である。日本は規制をよく作り、緩和する。人生を法律によって設計することは無謀、危険である。