崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

「人間資本」

2011年01月16日 06時55分05秒 | エッセイ
 昨日は午前中、東亜大学の創立者の櫛田薫先生(写真の中央)と八幡ビルディング株式会社の会長の原田準一氏(写真の右端)と3人で2時間歓談した。原田氏は11日朝刊の「毎日新聞」の私の記事を読んで同感し、コメントも用意してこられた。人生経験豊かな二人の話には私は目から鱗が落ちるようであった。人生論や名言が時々飛び、私はたち打ちできなかった。櫛田先生は「政治資本」「経済資本」「人間資本」を重要視してきて、その中でも人間を教育すべきだと思って学校法人を作ったという言う。その過程でいつもチャンスと奇跡が起こったという。大蔵省の大臣であった田中角栄氏に面会して55分間の面談から学校創立のためにたくさんの助言を得たこと、その後も人間関係を大事にしてきたという。四国のある村の同郷出身の中沢氏が前の東亜大学の学長であること、学校の敷地を祀る石碑を600万円で立てたことに感動した山崎氏が学長に来られた話、人脈とパソナりティのパワーが強く感じられた。しかし自分と一緒に仕事をした人が離れるか、裏切られた場合でも親離れの「一人前」になったと思うことにし、流したという。経済人を大学入れると教育を経済的な面だけで考え、教育には邪魔になる人間もいて難しい。
 それを聞きながら原田氏は時々拍手を送った。そして櫛田氏に高杉晋作の名言「おもしろき こともなき世を おもしろくすみなしものは 心なりけり」という言葉を借りて評価した。私は拍手を送りながら3人で記念写真を撮ることになってシャッターを押してくれる人を探した結果、櫛田宏治学長に頼むことになった。その後、櫛田学長が運転してくださり、韓国からのお客さんがで待っているホテルに送っていただいた。功山寺では有福先生とまた歴史中の人間論になって1日中人生論講義ばかりであったような感である。
 

2011年01月15日 06時13分38秒 | エッセイ
昨日、朝8時40分山陽ホテル破壊式に参列した。市文化人、反対グループ、報道関係者など数十人が集まって野村文化協会会長のご挨拶と惜別の合唱の歌などが行なわれた。その足で韓国からのお客さんが泊まっているホテルへ走った。
 書くべき原稿など仕事をいっぱい抱えている中、韓国からの友人3人を案内することになった。さらに川村博忠先生まで運転して下さり、萩へ往復した。下関から新山口までは在来線で、電車でこんなに時間がかかるのかと改めて感じた。金と時間を使いながらまったくの奉仕というか、友情だけの旅行であった。川村先生は運転と入館チケットも買ってくださった。お客さんからはうどんをご馳走になった。浦上美術館は全員70歳以上で無料であった。年よりの権限ではない。社会から保護されていることを感謝すべきである。無料であるからよく鑑賞して、その分以上の金額の記念品など買うのが本当の礼儀である。
 帰りの電車の車内の話題の中で韓国の老人天国のような話が気になる。電車や多くの公共施設に無料や半額が多く老人による疲弊が多く出ているという。大勢の老人の群れが全車内を優先席のように占拠し、若者層から顰蹙される。社会福祉の経験の浅い韓国政府が過剰に老人福祉で「老人天国」を作っているようである。時間が経ったら韓国の福祉は良くなっていくには違いないが問題点が多く出ているようである。
 私の韓国の「老人」友人への奉仕を見る若層はどう思うだろうか。今は退職した、人間関係、利害関係のまったくない人への付き合いと接待はドライな若者たちから見たら全く「無駄」と感じられるかもしれない。しかし、私はそうは思っていないし本当の友情関係で無条件で好きで喜んでやっていることである。(写真:萩県立博物館の前で中央が川村先生、その右崔仁鶴、李相日、左端は洪潤植)

韓国からの来客が福岡空港で遺憾なこと

2011年01月14日 06時37分17秒 | エッセイ
 韓国の友人たち有名な昔話学者の崔仁鶴氏、成均館大学名誉教授・東崇アートホールの理事長の李相日氏、東国大学名誉教授・仏教学者の洪潤植氏が下関に来られた。4時からの私の授業で学生たちと対話の時間を設けて待っていた。時間に間に合わず授業を始めて私に電話がかかってきた。それは福岡入管の人からであった。入国目的が観光と書いたことで別室に入れられて私にまで人物の確認の電話であった。私は以前、韓国のパスポートを持っていた時別室に入れられたことがあって大変なことと感じた。また数年前大阪空港の入管から中国からの入国者がそうされたことを思い出した。地方の空港ほど手続きが厳格、不親切なことはどの国でも同じ。ロシアのウラジボストク、ハバロスクやウズベキスタン、アイルランドダブリン空港などで犯罪者扱いされた嫌な思い出が噴出する。
 日韓関係はせっかく良い関係になり、人と文化が頻繁に多く往来するようになっている。私は今山口日韓親善連合会の顧問もしているのに、このように友人たちに空港で悪い思い出を持たせたくない。、講義に入ってもらうようにも予定したが間に合わず入管審査で時間がかかるので大変困惑した。だれでも入国審査することは制度上必要とは思うが、後期高齢者たちをみて判断できないのは日本の国際化に大きい問題である。韓国文化界のリーダーたちに失礼なことを私がお詫びすることになったとても残念ことがらである。今日は有名な地理学者の川村博忠先生と、明日は京都大学の名誉教授・功山寺の住職の有福先生などとの意見交流が予定されている。安全を守るために対策は必要とはするが、すべての人を犯罪人扱いしてはいけない。安全はどんどん機械的な装置で高度化すべきであり、人を大切に扱う人間がほしい。彼らが機嫌を直して帰国するように最善を尽くしたい。

映画「祝祭」

2011年01月13日 06時30分07秒 | エッセイ
下関映画祭への私の推薦作として韓国映画「祝祭」を実行委員たちと事前上映会をした。伊丹十三の「お葬式」に対比する映画である。以前紹介した「風の丘を越えて」と同様林権澤監督の映画である。死を扱った作品であり、高齢者の多い日本で上映するのはどうかと懸念もしたが、最近日本では「おくりびと」ブームもあって大丈夫であろうということで、80代の高齢の方を含めて観たが抵抗はなかったようである。この作品を視聴して、むしろ韓国の方が死を丁寧に扱うようであり、韓国文化を紹介する意味でもよいのではないかという意見であった。ただ字幕だけでは画像を理解するに不十分であり、私が概説を書くことにした。特に「観音菩薩」が「カナン菩薩」などの字幕などは考証すべきであると思った。
 原作者の故李清俊氏の故郷である韓国全羅南道長興が撮影場所であり、去年私が韓国文化へ関心の高い大学教員らで構成された人々を案内したちょうどその場所である。特に私が長く現地調査を行った場所でもあり、訛りの激しい地域の方言が懐かしく嬉しい。しかしそれをどのように伝えるかを考えている。4月8日東亜大学9号館階段教室で2編「風の丘を越えて」「祝祭」を学生と市民に公開上映するので予めお知らせしておく。この映画を楽しく見るには日本の「お葬式」と「おくりびと」を見ることであろう。

アジア向けの交流へのチャンス

2011年01月12日 06時03分28秒 | エッセイ
 今日のブログはメインテナンス作業で書くのが遅くなった。読者には申し訳ない。
 
 昨日「毎日新聞」の朝刊に寄稿した拙稿に関する読者からの反応があった。中には大学の創立者からのもあった。読者が訪ねてくるとのことで、アポイントも取っている。楽しみである。新聞の寄稿内容は都市中心の行政への批判と地方の人に勇気を持ってほしいという趣旨で書いたので内容には物足りなさがあるかもしれない。読者によっては「見る」、「読む」の差があるようである。実は紙面では書けなかったが、地方の大学の生き残り策の主要なことは教育改革と思っている。組織などの改編があり、人事の再編成はあっても人の本質を変えるのが教育の本質である。それは難しくてもやらなければならない。オバマ大統領の言葉で一気に流行するようになった言葉がチェンジchangeである。しかし人はなかなか変わらない、変わりにくい。人はショックや試練によって変わることがある。大病、事業や人間関係で失敗した人が飲酒や放蕩生活をするようになるか、立て直すかは天と地の差であろう。
 私の人生はほぼ大学生と学び、そして教えることである。高校までの教育は知識伝達式であり、子ども時代の知識にプラスして教養を重ねて、高めてきたと言える。大学は違う。物事の本質を考え直して、自我中心から他者へ、人類への関心の拡大もその一つである。先生は研究者でありながら教育者にならなければならないと思っている。知識伝達はコンピューターでもできる。その情報はネット上簡単に得ることができる。しかし、人格的な影響は対面、討論などが必要である。それを運用しようとするエネルギーー、意欲、生き方などの教育を目指すべきであろう。その意味で日本の少子化は質高い教育、アジア向けの交流へのチャンスであろう。

「毎日新聞」(全国版)に論説を

2011年01月11日 05時26分31秒 | エッセイ
毎日新聞(山口版)に2年半リレーエッセイを書いたが、今度論説の寄稿依頼があり、今朝(2011,1,11)の朝刊に出た。

地方発 「地方大学は生き残り策」

 北朝鮮の砲撃事件の後、韓国の晋州市にある大学などを数か所訪ねると、キャンバスは活気に満ちていた。危機感は全く感じられず、話題に挙げてみたが話にには乗ってくれなかった。主な話題は中国の発展と「韓国の世界化」だった。相手は米国で学んだ経済学者だったが、中国の経済に追い抜かれた日本を“日本沈没”のようなイメージで語っていた。私は、日本では高齢者に対するバス運転手の配慮、道路と歩道の段差なくすバリアフリーなどが進み、経済面ばかりではなく「生活の質の高さに注目すべきでは」と付け加えた。隣国の韓国であっても、経済の一面だけをとらえて論じられていた。
 東亜大のある下関に住んで6年。地方の疲弊を痛感している。山口県は「総理多産県」だが、全く政治的恩恵は感じられない。都会から地方へ流れた歴史、「馬と牛は田舎へ、人は都会へ」という、まるで韓国の諺のようだ。とても残念である。
 政府はそれなりに地方の活性化の政策に取り組んではいるが、大都会中心の政策が外郭まで及んでいるだろうか。地方でも超現代的な建物を建てることはできても、知的な人材をそろえることは難い。地方には人材が少ない。地方には住んでも都市向き志向の人がなんと多いことか。単身赴任型の人間に地方発展など託せない。地方に派遣された官吏は、ただ与えられた仕事をドライにこなすだけである。
 都市の格差は知識の不均衡にもつながる。地方がいつまでも「辺鄙」であってはならず、知的分散、平準化が必要だ。それは地方大学の活性化によらざるを得ない。対都市化ではない、「ローカルからグローバル化」へ発信すべきことの模索が急務である。
 かつて下関市は大陸への連絡船の玄関港である重要都市の一つであったが、戦後は対岸の福岡市や北九州市への人口流出続く。今、下関を含む地方の大学は過疎化、少子化などで経営難に直面。地方の大学が消滅していくのは自然であろう。そこで東京中心の大学の在り方を見直し、アジアへ目を向けた国際化こそ、日本の地方大学の生き残り希望を見出せると考える。
 独自の研究に取り組み、時代の求めに即応した学科を設けるなど特色ある大学づくりは言うまでもない。そこで東亜大学は国家資格が必要な理美容に着目した。4年かけて実技、理論、経営などを学ぶトータルビューティ学科を07年度に設立。今では美意識の高い韓国や中国からの留学生が学び、韓国や中国から東亜大に提携を呼びかけられている。地方大学はプロの人材育成や人的交流にこそ生き残り策のポイントがあるのではないか。受身的に待つのではなく、ローカルとローカルの国際化に向けて地方の大学が主導的役割を発揮すべき時に来ている。
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名誉顧問

2011年01月10日 06時54分39秒 | エッセイ
 日韓親善連合会から名誉顧問という称号をいただき、また韓国の国立機関からも顧問になれというような話もある。名誉教授とか名誉顧問とか、いわば名誉や顧問が着くことは歳をとったということでもある。ある有名人の名刺の裏には名誉職名がいっぱい書かれている。その人の忙しさと名誉に感動することもある。
 私は称号だけの顧問や名誉よりいくつかの実行委員をして、働いているのが好きである。先日は日韓親善連合会々長の石崎県議員らと今年の50周年記念行事について相談した。また下関と大分の映画祭の実行委員として会場と作品を探し、著作権などの問い合わせもしている。肩書きより実際に仕事ができて嬉しく思っている。

「一生一冊の名作」

2011年01月08日 23時09分46秒 | エッセイ
 年末に韓国の出版社へ送った私の1冊の本の原稿が15日間で初稿がメールで送られてきて驚いた。ハングルの原稿をおそらく数人で分けて打ったのではないか。超スピーディな仕事振りに驚きながら日本の常識からは大丈夫かと不安な文句が言われそうである。慎重にするということで仕事を怠ける部類の人はいないだろうか。私が若い時に本を出した時、ある人は慎重にするべきだと批判されたことがある。その彼は論著らしいものを1冊も発表することなく、今現職から離れている。
 一生一冊の名作を書いたのは「風と共に去りぬ」(Gone With the Wind)の作者マーガレット・ミッチェルである。この長編小説はアメリカ南部の貴族的白人文化社会が消え「去った」ことをテーマにしている。女史は10年近い歳月を費やして執筆され、1936年に出版した。一冊のためにも長い年月をかけ、一生一冊残した人もいる。長く考え磨き、努力したと思う。それは怠けたことを意味しない。凡人が彼女のような非凡な努力者を真似することは結構なことであるが、それを借語して慎重だといいながら怠けることはよくない。
 私は凡人として若い時から多く拙著を世に出してきた。残してきた足跡を今省みながら修正、増補している。

youtubeとテレビ

2011年01月07日 21時55分06秒 | エッセイ
 毎日配達される4ヶ所からの新聞の中で特に愛読する「毎日新聞」が他の「読売新聞」などに比べて量が少ないことを支局長に言ったら新聞の質の話が戻ってきた。その新聞の全国版に論説を書くことになり拙稿の校正が終わったばかりである。本社からも数回校正のゲラが来て確認した。文字一つ一つを慎重に大切にし、丁寧にする作業から実に質の高い新聞を作ることに努力していると感じた。
 新年に出版予定の論文などの校正をしている。昔活字を植字して印刷した時代に7、8回もしたことを思うと編集者とネット上で書き直しながら校正する現在は非常に楽に、迅速になっている。昔の印刷の時の校正ではなく、編集の段階で著者と相談するような校正が行われるようになった。私はその時代より校正が効果的にやりやすくはなったと思う。そしてそれにもまして、質が高くなったと思う。編集やレフリー制(論文などへコメント)によって内容をチェックし、コメントしあうことによって一般的に出版物の質はかなり高くなっている。
 テレビなどは取材してから編集がなされ放映するようである。それは勝手にある部分だけをクローズアップしたり、ほぼ一方的で話者へ被害(妄言などといわれるような)を与えることも多い。最近小沢氏や広島の秋葉市長などはyoutubeなどを利用して、放送局の編集を避けてネット上直接発表する。テレビなどの映像媒体も話者と話し合って話の意図をきちんと確認してする方法で放映したら良いと思われるし、信頼もできると思う。
 
 

爐邊夜話

2011年01月06日 22時01分53秒 | エッセイ
 この頃日本でも寒い。冬が寒いのは当たり前である。冬に寒くないと伝染病がはやるとか、冬に花が咲くと異変が起こる予兆と言われた。時々日本に来られる韓国人から日本ではオンドル暖房がなく、体がすっきりしないのではないかと言われた。私はその意味がすぐわかった。私も日本に来て間もないときには曇って暗い日が長く続く日本の冬、さらに湿度の高い冬が嫌な時期であった。腰が痛くなり、ヘルニアともいわれた。韓国のオンドルが懐かしく欲しかった。しかし私も何時の間にか日本になれたか、韓国のホテルでオンドルを希望して使ってみると空気が乾燥して、座ることが不便に感ずる。
 オンドルに体にくっ付けて暖かさを感ずるのが韓国文化といえる。横になりやすく怠け者になるのでオンドルを改良しようとする運動もあったが高層マンションでもオンドルは愛用されている。日本でも最近オンドルのような床暖房を設置する家も多い。話が飛躍すると思うが、韓国人の人間関係も暖かさを直接的にぶつけ合うように表現する。寒い季節にこそ暖かさを表現する時である。爐邊夜話(火鉢の傍で話す人情談)の季節でもある。
 
 

表彰される人

2011年01月05日 21時53分00秒 | エッセイ
 年賀状の中から二人がそれぞれの分野で表彰されたことがわかった。お目でたいことである。彼らはその他にも以前に受賞したことがある人である。賞を受ける人の人間像がありそうである。業績上、社会的に貢献した人である。さらに性格が無難で、多くの人から好かれる、また人脈を広く持っている人である。
 私は去年出版した著作集第2巻が大韓民国学術院から出版優秀図書として択ばれたことが精々であり、韓国国立国楽院が私の所蔵品を展示するコーナーを設けると連絡があった程度の小さいものはあっても、賞などとは縁がない。むしろ非難されることが多い。それは私の「狭き道を歩く」という信念による生き方にあると思う。「上を向いて歩こう」(歌詞)とか「君子大道行」(論語)とは違う生き方である。ここでイエスを考える。彼は人を愛しても裏切られて殺された。でも世間を恨んだりはしなかった。

新年挨拶の多様化

2011年01月05日 06時06分40秒 | エッセイ
 韓国の一部の知識層とマスコミは新正月を祝う。香港や韓国での正月を祝う映像が映っていた。韓国の李明博大統領は年頭記者会見で北朝鮮が核を放棄したら経済的に支援すると発表した。過去に私が過ごした韓国では新正月と旧正月の葛藤があって、両方を祝う「二重過歳」が流行した。それがある程度定着して両方を祝う人もいる。陽暦の新年祝いの正月は「年中行事」の一つであり、旧暦による旧正月は伝統的な「名節」に当る。友人の李相日氏は新正月を祝うという。
 10年間の日記帳の最終年が始まった。今までの大晦日の日記には中国からの留学生、韓国人が集まった。1日は例外なく新年礼拝に参加したが、今年は元日が土曜日なので例外的に新年礼拝が2日になった。毎年韓国や中国から新年祝いの電話が来る。元日の朝最初の電話は韓国の姜顕秀氏夫婦からであった。一昨年大晦日の夜を一緒に我家で過ごしたことを思い出してくれた。また中国の延吉の延辺大学の教え子の金俊教授からも電話があった。新年挨拶もインターネット、電話、カードなど多様化している。
 日本人は電話より年賀状で祝う習慣がある。年賀状も両方が交わすもの、一方的なものなどがあり、一応今日の線で終える。ただ外国へ、特に旧正月圏にはまだ遅れてもよい。書くのは楽しい。明日は職場の新年始務式である。(写真は2010年大晦日の晩、留学生たち、左端は李)

桜山神社

2011年01月04日 06時28分00秒 | エッセイ
元日の雨中に下関の桜山神社を尋ねてみた。他人には初詣のように見られたかもしれない。しかし日中の時間でも参拝客は一人もおらず、寂しかった。この神社は奇兵隊の調練場跡でもあり高杉晋作の発議によって1865年に創建された招魂場で、戦死した者、吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞、山県有朋らの霊も加えて、400人ほどの志士が祀られている。招魂場となって以後、桜を植えたことから、桜山と呼ばれるようになった。戦死した無名勇士などを「神」として祀る「招魂場」の発想は靖国神社へ受け継がれていったという。
 「無名勇士」を祀るのは近代国家のナショナリズムとして強調されるが、雨の中とは言っても参拝客が一人もなかったのはどういうことであろう。赤間神宮の前を通ったが参拝客で混み合っていたのとは対照的であった。神社に行く人はナショナリズムによるものではなく、祝福を得るためや習慣や信仰によるものであろう。靖国神社に行く人の多くも愛国というよりはただの慣習や信仰によるものであろう。それを政治家たちや一部の人が政治的に利用するだけであろうと思う。ナショナリズムにおいて日本はまだ健全であろう。
 

「風の丘を越えて(西便制)」

2011年01月03日 06時58分43秒 | エッセイ
 下関映画祭への推薦作品を考えている。韓国や韓国の映画やドラマが好きな淑女たちが訪ねてきたのでパンソリ(湖南地域の民謡)の旅芸能人と恨をテーマにしている1993年の韓国映画李清俊原作、林權澤監督の「西便制」(日本題は「風の丘を越えて」113分)を見せた。日本語の字幕がないので私の解説と家内の通訳で進行した。「西便制」はパンソリの一つの流派であり、全羅道地域で歌われるものを指す。1960年代伝統芸能・パンソリにたずさわる家族の、情愛と芸道に関する物語、その奥底に「恨(ハン)」が横たわっている。
 私はその地域の被差別集団の巫女とパンソリの調査、そして慶尚道の地域の巫集団の調査をした話などもまじえて話した。彼女たちの質問に答えて韓国のシャーマンの映像を見せながら私のシャーマン研究の回顧のようになった。日本のイタコ、ユタなどへも触れることになり、年初講義のようになった。今年日本宗教史の講義の前の初戦のようであった。友人の朴仙容氏の提案のように新年には「私塾」をも作れそうである。著作集第3巻は「シャーマニズムとキリスト教の混用」をテーマにしている。

二つの新聞の新年記念号に

2011年01月02日 07時03分11秒 | エッセイ
 二つの新聞の新年記念号に寄稿した。一つは「民団新聞」から珍しく原稿請託に応じて新年記念号に「兎年」を寄稿した。もう一つは地域新聞の「長周新聞」に数年連続して新年記念号エッセイとして「植民地朝鮮の劇映画と現在」を寄稿した。民団新聞に初めて名前を載せることになった。
                 
              「兎年」

                         崔吉城
                     (東亜大学教授・広島大学名誉教授)

 2011年はウサギ年である。ウサギとは中国文化圏において十干、十二支を組み合わせて60年周期の干支の年号である。一般的に親しまれ覚えやすくするために元々遊牧民族が星座に大熊座や白鳥座、そして獅子、蛇、牡羊、兎、孔雀などの動物の名前を付ける習慣がある。そこからギリシャ神話も出来上がり、占星術が一般化されている。個人が星と関係を設定していることが多い。それは西洋だけの話ではない。
それはある程度中国文化圏でも共通のものである。古代中国人も西洋と似ていて天体に動物名をつけたものがある。中国古代ではより神話化されている。古代中国の詩人の屈原は《楚辞》<天問篇>で月の中にはウサギがいるといった。星だけではなく地図などでは国の地形を覚えやすくあるいは象徴的に動物や物に喩えることがある。たとえばベルギーをライオンに、イタリアを長靴に喩える。韓半島の形をウサギに似たと喩えられたことがあった。それは日本の学者が当時の朝鮮の弱さを象徴したものと反感をもった崔南善氏が虎に代置したという。虎が満州に向かって足を伸ばした形だというのである。

私は子供のときに空や宇宙があまりにも未知の世界であり、関心の対象になっていなかった。ただ夏の夜空を仰ぎ見て空の神秘さを感じたことがあるだけであった。しかし童謡や昔話、神話などを知るようなり関心は徐々に高まった。私のシャーマニズム研究では星の話は多く出る。特に捨てられた王女が三人の男の子を産んで、彼らが天に上って「三太星」(オリオン座)になった最も長い神話がある。また月にはウサギがいるという話も聞くようなり、月で神仙が食べる不老長生の仙薬を臼で搗く動物、ウサギを見て身ごもるという伝承もあり、月とウサギの関係性が知らされてから私の関心はさらに深まっていったのである。それはベトナムを除いて中国、韓国、日本まで広がって共通している。ただベトナムでは「卯」の発音が猫の鳴き声と似てウサギが「猫」になったという。
ウサギは一般的な家畜ではない。しかし神聖な、あるいは象徴的な動物でもない。親しい動物であるが、愛玩動物のようなものでもない。ただ昔話や動揺などによって親しまれた動物である。月に桂の木が一本あり、兎が一匹住んでいる話になっている。それを歌で聞いたり観察したりして月や宇宙がより深く親しく感じられる。
韓国人であればだれでも知っている児童文学家尹克榮(1903-1988)が作曲した童謡「半月」がある。

青い空 天の川 白い木の船に
桂一本 兎一匹
帆もなく 棹もなく 
進んでいく 西の国へ
天の川を越えて 雲の国へ
雲の国を過ぎたら どこへ行くのか
遠くで きらきら光るもの
明けの明星が燈台だという 道を探して
帆もなく 棹もなく 
進んでいく 西の国へ

国を失った朝鮮民族が大海を彷徨する一隻の船に、空を彷徨する半月のように、舵もなく櫓もないのにただ進む悲しみ、奪われた祖国に対する想いを表現したとされている。この歌は愛国心で読み取らなくとも韓国的情緒を十分表現している。青い空、天の川、明星などの中を見上げて「半月」の存在、そこでメロディによって「桂一本、兎一匹」の神話の世界へ入る。
ウサギの神秘性はいろいろな文学に登場する。中国古代神話と韓国昔話ではウサギと亀のコンビの話がある。その一つがウサギの肝の話である。龍王が不老長寿の薬だというウサギの肝を求める話である。パンソリ「水宮歌」「鼈主簿傳」が形成され、その辞説(パンソリで演技者の合間にはさむ話)が文字化して小説<うさぎ伝>として発展した。以後、開化期には李海朝によって[うさぎの肝臓]という新小説として改作された。桂樹で臼をつくうさぎの姿は夫婦間の夫婦愛をも意味する。
ウサギは空の月から海の底の龍宮まで往来する。天上、地上、地下の世界に活動する動物のように描かれている。まるで龍の存在に比肩するような動物になっている。龍は池や湖から天上に昇り地中に隠れて龍脈を持つが、海の底では宮殿を持っている。ウサギは龍より高い月まで至る。宇宙から龍宮までより幅広く活動すると想像されている。
 昔、東海竜王の娘が病になって、兎の肝臓を煎じて飲めば治ると言われた。しかし海には兎がいないので、どうにもならなかった。そこで亀が兎の肝臓を得るために陸地へ上がり、兎に出会い、ウサギに嘘を言ってついに兎を背中に乗せて海に出た。亀は兎に言う。
「今竜王の娘様が病に臥せっているのだが、兎の肝臓だけが薬になると言うから、俺が苦労をいとわずお前をおぶって行くのだ」
兎がこの言葉を聞いて言うに、
「私は神明の後裔としてよく肝臓をとり出して洗ってまた元に戻したりするのだ。このごろちょっと気になるところがあってそれを取り出し、きれいに洗ってまだ岩の上に乾かしてあるから戻ってその肝臓を持ってきて君がそれをあげよう」
 というので、亀は兎のこの言葉を信じて、兎をおぶって引き返し、陸地に上がった。
 兎は亀に向かって言うに、
「おろかだな、肝臓がなくても生きているやつがいるわけがないだろう?」
新年は十二支神の一つである「辛卯」のウサギ年である。ウサギは月から龍宮まで、宇宙から海底まで天上、地上、地下の世界に往来するところからメッセージを受け取ることが出来だろう。グローバリゼーションや国際化などが主に平面的に広がることの現象であるが、ウサギ年からはより高く月から、深く竜宮まで横縦に進行していくべきメッセージを受け取りたい。