崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

「編集」が「偏集」になってはいけない

2011年01月21日 06時05分10秒 | エッセイ
先日韓国でテレビで日本のニュースを見た。大雪で新幹線が遅れたのかと思ったが、コンピューターシステムの故障のためであった。以前にもあったことを思う中、韓国側のコメントが気になった。それはコンピューターのシステムの故障は日本の技術の低下、さらに海外の鉄道産業への限界であるように述べていた。短いニュースとはいっても日本の先進的な新幹線技術をもって海外へ進出するのは無理であるようなコメントであった。同行中の鵜沢氏と話をした。彼は日本では山陽、東北など2、000キロ以上の新幹線、そして地方線との複雑な鉄道網を営む日本にたった400キロの単線の韓国(写真)がそのようにコメントするのはおかしいという。地震の多い国として新幹線の無事故の歴史は貴重なものであることは私も同感である。
 日本の新幹線が長い間、ほぼ無事故に近い歴史をもって、海外へ進出しようとするとき故障は大変な問題であることは事実として認めるが、韓国がそれを海外進出の競争相手の弱点として利用しようとする意思があってはいけない。私がマスコミのこのような点を懸念する。情報をキャッチして客観的に理解納得して伝えることは難しい。読書も同様であり、作者の意図を正しく掴み、理解することが大切である。先日も触れたようにテレビの編集を嫌がる政治家たちがネットを使用して発言したことがある。「編集」が「偏集」になってはいけない。