goo blog サービス終了のお知らせ 
goo

ドイツ語の散文家たち:Marx「経済学哲学草稿」(7)

■旧暦7月19日、月曜日、、白露

(写真)火の後の窓

今日は、用事で新宿へ行く。まだ、蒸し暑い。帰宅して、やけに疲労感あり。ビールをあおる。



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

the home village
I abandoned...
mountain cherry blossoms

mikagirishi kokyo^ no yama no sakura kana

見かぎりし古郷の山の桜哉

by Issa, 1804

Kashiwabara was Issa's home village that he "abandoned" until his homecoming in 1813. According to volume 1 of Issa zenshu^, this haiku was written in 1803, but in volume 2 a date of 1804 is given (Nagano: Shinano Mainichi Shimbunsha, 1976-79, 1.222; 2.199).



経済学は私有財産という事実から出発する。経済学は、この事実をわれわれに説明してくれない。経済学は、私有財産が現実において経験する物質的な過程を一般的で抽象的な公式で表現し、つぎにそれらの公式を法則とみなす。経済学は、これらの法則を概念的に理解しない、つまり、これらの法則が私有財産の本質からどのように生じるのかを教えない。経済学は、労働と資本、資本と土地を区別する根拠についてなんの説明もあたえない。たとえば、経済学が資本の利潤にたいする労賃の関係を規定するばあい、資本家たちの利害が最終的な根拠とみなされる。つまり、経済学はみずからが説明すべきことを前提にしてしまうのである。…経済学者が動かすただひとつの車輪は、所有欲であり、所有欲に駆られた者たちの戦いであり、競争である。   『マルクスコレクションⅠ』(pp.307-308 筑摩書房 2005年)

Die Nationalökonomie geht vom Faktum des Privateigentums aus. Sie erklärt uns dasselbe nicht. Sie faßt den materiellen Prozeß des Privateigentums, den es in der Wirklichkeit durchmacht, in allgemeine, abstrakte Formeln, die ihr dann als Gesetze gelten. Sie begreift diese Gesetze nicht, d.h., sie zeigt nicht nach, wie sie aus dem Wesen des Privateigentums hervorgehn. Die Nationalökonomie gibt uns keinen Aufschluß über den Grund der Teilung von Arbeit und Kapital, von Kapital und Erde. Wenn sie z.B. das Verhältnis des Arbeitslohns zum Profit des Kapitals bestimmt, so gilt ihr als letzter Grund das Interesse der Kapitalisten; d.h., sie unterstellt, was sie entwickeln soll. (...)Die einzigen Räder, die der Nationalökonom in Bewegung setzt, sind die Habsucht und der Krieg unter den Habsüchtigen, die KonkurrenzA47.


■現在の経済学は、マルクスのこの根源的な批判をどこまでクリアできているのだろうか。経済学に無知なので、いずれ、検討してみたいものである。



Sound and Vision

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

芭蕉の俳諧:猿蓑(23)

■旧暦7月18日、日曜日、

(写真)満月

午前中、いつもの喫茶店で、ルカーチと芭蕉を読む。日の光は厳しいが、風は、涼しい。秋風で印象的な句に、良寛の次の句がある。

秋風にひとり立ちたる姿かな   良寛

in the autumn wind
the figure of a man
standing alone


translated by Sanford Goldstein et al

良寛は、笑う人であると同時に苦悩する人でもあったのだろう。




世の中は鶺鴒の尾のひまもなし
   凡兆

■世の中のせわしなさを鶺鴒の尾の運動で喩えたところに惹かれた。凡兆の観察眼のただならぬものを感じる。やはり、根っからの自然科学者ではなかったろうか。



Sound and Vision

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

俳句の笑ひ:良寛の笑ひ(2)

■旧暦7月17日、土曜日、、満月

(写真)火の後の日の光

どうも、9月は、眠い月でよく寝ている。夏バテか。

午後、朝日新聞の本社の販売局から来たという営業部員と一時間も話し込んでしまった。日本の新聞がジャーナリズムの本道、ひいては、言論の自由の本質である権力批判に徹しきれないのは、一つは、新聞のデリバリーシステムと関係がある、ということがわかった。スタンドで、一商品として情報価値や思想価値を競うことをせず、つまらない景品で、デリバリーシステムに読者をいかに囲い込むか、がマーケティングの最重要課題になっている。企業もデリバリーシステムによって、安定的な広告媒体となった新聞に、巨額の企業広告費用を投じる。この金が、新聞社経営の前提に組み込まれるため、なかなか、政治権力、経済権力、宗教権力への批判が本質に届かない。新聞社も、デリバリーシステムの維持・拡大が自己目的となり、この目的が紙面づくりに影響を与えるようになる。結果、読者のマジョリティに受ける論調や紙面作りが優先し、マイノリティの意見は言い訳程度にしか、掲載されなくなる。読者も、時間がないために、情報の相対化や取捨選択ができず、新聞から受ける影響は、意外にも、大きくなり、新聞=社会と見なすようになる。そして、新聞報道は「中立」という、あの欺瞞的なイデオロギーが、いつのまにか、新聞と読者の共犯で拡大再生産されていく。社会の中で、「中立」であろうとすればするほど、強者の側に立つことになるのだという内省は、もはや、働かない。

ただ、デリバリーシステムから自由な、海外の新聞が、自国の国内問題について、深い本質的な議論を展開できているのかどうかは、冷静に分析・検討してみなければ、なんとも言えないだろう。海外メディアとて、大資本の傘下にあれば、当然、言論の自由は制限されるからである。その意味では、メディアの分析・比較というのは、興味深いテーマになるだろうとは思う。カントの言うカテゴリーが認識に果たす役割は、現代では、広い意味で、メディアが担っていると考えられるからである。



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

onlookers
at a funeral...
the autumn wind

tomurai no kembutsunin ya aki no kaze

葬礼の見物人や秋の風

by Issa, 1821




手拭で年をかくすや盆踊



with a hand-towel
I hide my old face:
the Bon-dancing


translated by Sanford Goldstein et al.

■一見、単にfunnyに見えるが、人を笑わせる行為の裏には、必ずと言っていいくらい哀しみがある。笑いは、哀しみの昇華とも言えるだろう。この句の背景には、良寛の老いの哀しみがあると思う。それを自己客観化して笑いに昇華させているのは、俳諧という文学形式の力が大きいのではないかと思う。同じテーマでも、良寛が、和歌で詠むと、よりストレートに病や老を詠み込んでいるからである。どちらが、人の心に響くかは、読み手にもよるが、どちらも、捨てがたい。

もろともに踊り明かしぬ秋の夜を身に病疾のゐるも知らずて   良寛
風は清し月はさやけしいざともにをどり明かさむ老の名残に
   良寛



Sound and Vision

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

俳句の笑ひ:良寛の笑ひ(1)

■旧暦7月16日、金曜日、

(写真)無題

朝、太極拳、筋トレ。帰宅したら、なんと、向かいのアパートが火事ではないか。黒煙がもうもうと立ち込めて、赤い炎が業火のごとく天を焦がしている。消防がなかなか来ないので、人が陸橋の上に相当集まっていた。無人アパートに近い古びたいい味の建物だったが、廃墟になると、取り壊しはすぐだろう。廃墟好きとしては、明日、朝の光の中で写真でも撮ってくるかな。



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

the dragonfly's tail, too
day by day
grows old

tombo^ no ito mo nichi-nichi furubi keri

とんぼうの糸も日々古びけり

by Issa, 1807

I interpret ito ("thread") to mean the dragonfly's tail, in light of a later haiku (1820) in which a dragonfly is dragging its ito (ito hikizutte), presumably on the surface of water.




酔ひ臥しのところは爰か蓮の花
(よいふしのところはこころかはすのはな)

■文句なく、名句だと思う。この神のような笑いはどうだろう。「蓮の花」が、天上の出来事、神の振る舞いのような印象を与える。また、人間の振る舞いは畢竟、神から見れば、酔い臥しなのかもしれない。そんな気もしてくる。「神話化」は、現実の諸矛盾を覆い隠してしまう働きもあるが、こういう、美しく高い笑いの一瞬も現実の中に確かに存在し、歴史の諸矛盾を骨の髄まで知っている人間に、今を戦う勇気を与えるのではなかろうか。

太極拳では、座禅ならぬ立禅というのをやるのだが、このとき、半眼でこの句を唱えている。なんとも言えんいい心持になるのである。



Sound and Vision




コメント ( 0 ) | Trackback ( )

芭蕉の俳諧:猿蓑(22)

■旧暦7月15日、木曜日、

(写真)無題

朝から、叔母を病院へ連れていく。10時半の予約で、終わったのが3時である。これでは、「予約」した意味がない。付き添いも疲れるが、検査を受ける高齢者はもっと疲れる。幸い、体調は安定しているので、訪問医療に切り替えて、負担を減らすことにした。

ルカーチの『小説の理論』を読んでいる。このテキストは1915年に書かれたものだが(1920年にドイツ語で出版)、深い洞察力に満ちていて感動する。マエストロの小説を読解するにあたって、ルカーチを手引きの一つにしようと考えている。



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

all day teasing
the horse's ear...
little butterfly

uma no mimi ichi nichi naburu ko cho^ kana

馬の耳一日なぶる小てふ哉

by Issa, 1816

Issa wrote the character for "moon" instead of "day" in his original text, a mistake, according to the editors of Issa zenshu^ (Nagano: Shinano Mainichi Shimbunsha, 1976-79) 1.170.



一鳥不鳴山更幽
物の音ひとりたふるヽ案山子哉
   凡兆

上行と下くる雲や穐の天
   凡兆

■凡兆二句、怜悧な感覚で印象的だった。これはこれで、面白いとは思うけれど、外科医のごとく、存在を物として外部から把握している印象がある。この点で、近代の写生句と発想は同じだが、芭蕉の「竹のことは竹に習え」という主客分裂を止揚する発想には、及ばないのではなかろうか。自我と世界の間の深淵は、近代世界の特徴ではあるが、その深淵をそのまま、写し取っても、疎外を超える道筋は見えないんじゃなかろうか。そんなことも思う。この点を問題意識に、今後、芭蕉の俳諧を検討してみたい。



Sound and Vision

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

翻訳詩の試み:Paul Celanを読む(4)

(写真)無題

■同じく、コールサック64号に発表したパウル・ツェランの翻訳詩。これは、それほど自信がない。時間がなく既存訳とつき合わせて検討していない。誤訳があったら、許されよ。


DER REISEKAMERAD

Paul Celan






Deiner Mutter Seele schwebt voraus.
Deiner mutter Seele hilft die Nacht umschiffen, Riff um Riff.

Deiner Mutter Seele peitscht die Haie vor dir her.

Dieses Wort ist deiner Mutter Mündel.
Deiner Mutter Mündel teilt dein Lager, Stein um Stein.
Deiner Mutter Mündel blückt sich nach der Krume Lichts.



旅の道づれ

パウル・ツェラン




きみのお母さんの魂はそのさきをさまよっている
きみのお母さんの魂は
夜が暗礁また暗礁に乗り上げないようにしている

きみのお母さんの魂はきみのさきを泳ぐ鮫どもを鞭打っている

この言葉はきみのお母さんが後見人だ
それはきみとラーゲルを、石また石を、共有する
それは光のパン屑の方へ傾く




Sound and Vision



テキストはHenri Michauxだと思うが…。ヴィトルト・ルトスワフスキ
コメント ( 0 ) | Trackback ( )

作品3

■旧暦7月13日、火曜日、、関東大震災忌、二百十日

(写真)芭蕉

9月か。風の叉三郎を読みたくなる季節である。以前、未決定稿の方を読んだら、叉三郎が、風の神として描かれていて、これはこれで、面白かった記憶がある。今回は二つ同時に読んでみるか。

コールサック64号が出たので、発表した詩をアップする。




唐変木

                

言葉の終わったところで世界が始まる
ここは霧深い古道 古代的なるものの色濃い
熊野の山の中である
言葉は世界の涯なれば
われらは涯に住まう者

日の中にふいに現れた一頭の鹿
スコールの上がった岩の上に悠然と飛来する鴉
何も告げないが何かを告げているその瞬間―
精妙さとニュアンスは言葉の外の言葉である
もはや二度と同じ瞬間はめぐってこない
そう悟ったとき ひとの心は無になる
川の流れになり
逆巻く雲になり
幻の滝の音になり
世界の中心になる

言葉は無意味だ
ここで踊れ 神はここにいる




Sound and Vision





コメント ( 0 ) | Trackback ( )
   次ページ »