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芭蕉の俳諧:猿蓑(28)

■旧暦8月1日、土曜日、、子規忌

(写真)稲刈りの後

午前中、病院、午後、買い物と掃除、夕方、哲学塾。櫻の葉が色づき始める。部屋の中では初めて靴下着用。

子規絶筆三句に
笑ひたるごとくに子規の糸瓜ゆれ   冬月



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

though in Buddha's presence
just a simple cloth
skullcap

go-butsuzen demo gomen zukin kana

御仏前でも御めん頭巾哉

by Issa, 1823

This haiku has an unusual syllable count of 5-5-5. Someone (Issa?) bows before the image of the Buddha (most likely, in a temple) while wearing a plain peasant's skullcap. The poem hints that one needn't "dress up" for Buddha's mercy. It is extended to all, even to the humble--perhaps, especially to the humble.



草臥れて宿かる比や藤の花
   芭蕉

行春を近江の人とをしみける
   芭蕉

■草臥れて、の句、おかしみがあって惹かれる。行春の句、夏に向かう琵琶湖の水の光や空気の感触が伝わって来る。



Souns and Vision

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フランス語になった俳人たち(17)

■旧暦7月30日、金曜日、

(写真)無題

この頃になると、京都で観た萩の花を思い出す。初秋には、授業が終わると、よく御所の萩の花を観に行ったものだった。紅白の萩はいつも静かだった。手で触ると、露がこぼれた。紅い萩もいいなと、そのとき話した記憶がある。もう四半世紀以上も昔になるが、あの頃共有した時間は、今思うと一瞬だったような気がする。

去りし日や萩の花見はうすぐもり   冬月




寺に寝てまこと顔なる月見哉
   芭蕉「鹿島紀行」(貞亨4年)


Une nuit au temple―
la lune
au plus chair de mon visage


※Traduction de Corinne Atlan et Zéno Bianu
HAIKU Anthologie du poème court japonais Gallimard 2002


寺の夜
月は わたしが
悟り顔になったときに


■これは、この原句でよいのかどうか、ちょっとわからない。「まこと顔」は悟りの境地のことだが、悟るをclairで表していて面白かった。



Sound and Vision

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芭蕉の俳諧:猿蓑(27)

■旧暦7月29日、木曜日、

(写真)小さな列

夕方の日の色が明らかに澄んできた。10月は父の17回忌か、早いなあ。

しろがねの秋の西日となりにけり   冬月

候補になりそうな本をまとめて発注。今、情報通信技術や身体論との関わりで、posthumanism or transhumanismの領域に関心があり、この分野のものを選んでみた。SFみたいな話が多いのだが、遅かれ早かれ、良かれ悪しかれ、身体の一部がマシーン化される時代に突入するだろう。今でも、ペースメーカーは普通になっている。ナノテクや再生医療、コンピューター科学、ロボット工学の急激な進展と相まって、人間の概念や生死の概念が変わる時代が来るかもしれない。そのときは、学問や芸術も根本的に変容するだろう。こうした社会は、どんな問題を孕むのか、非常に興味のあるところである。



here and there
eggplants dangle too...
withered fields

achi kochi ni nasubi mo sagaru kareno kana

あちこちに茄子も下る枯の哉

by Issa, 1806

■そう言えば、驚いたのが、ドイツ語で「月見」という言葉があるようなのだ。造語だろうけれど、「Mondschau」。Schauは文字どおり「観ること」を表す名詞だが、「Mondschau」が、どのくらい熟しているのか、不明。たぶん、俳句関係者の間で使われているのだろう。もっと、驚いたのが、ドイツの俳人たちが月見にちなんで俳句を作るということである。月見という日本の習慣が、世界化し始めたのだとしたら、実に愉快である。




大峰やよしのヽの奥の花の果
   曽良

はなちるや伽藍の枢おとし行
   凡兆

■曽良の句、「花の果」の措辞に惹かれた。「花の果」には何があるのだろう。凡兆の句、落して行く音が幻想的に響いてくる気がする。枢(くるる)は、戸締りのため戸から敷居に落しさす桟。



Sound and Vision









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ポルトガル語の俳句(1)

■旧暦7月27日、火曜日、

(写真)朝顔

どうも漂流している。10月の頭にレクチャーする機会をいただいたので、今現在の関心をレクチャー原稿に入れ込むべく、翻訳中だった
The Medicalization of Cyberspaceのサマライズを、ここのところやっていた。しかし、サマライズしてみてわかったのは、このテキストは内容的に薄い、ということだった。扱っている領域はきわめて面白いのだが、議論に深さと展開がないのである。もっと早く見抜かなければいけなかったのだが、今になって露呈。翻訳企画は出してしまっている。F巻さんには、申し訳ないけれど、これでは、一からテキストの選択をし直さないといけないだろう。いやはや、お粗末である。

行き暮れし秋や此の道翁なく
   冬月



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

oining in
we curl to sleep too...
reclining Buddha

sho^ban ni warera mo gorori nehan kana

相伴に我らもごろり涅槃哉

by Issa, 1820

This comic haiku refers to the Second Month, 15th Day festival of Buddha's Death Day, commemorating Gautama Buddha's entrance into nirvana (i.e., his death). Following the example set by the statue of a reclining Buddha, Issa and his companions sleep also.




há que ser um pouco sonâmbulo
para percorrer a corda bamba da vida
sem caír

il faut être un peu somnanbule
pour parcourir la corde raide de la vie
sans tomber


少しは夢遊病者にならなければ
落ちることなく
人生という綱渡りをやり遂げるには


■これは、ポルトガルの俳人、ma grande folle de soeur の俳句と彼女自身による仏訳、さらにそれを、ぼくが日本語に翻訳したものである。一見逆説的ながら、人生の真実を突いているのではなかろうか。人生の綱渡りから、何度も落ちた者からすると、かなり共感できる。計算しようとしても、人生は計算外のことばかりである。



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芭蕉の俳諧:猿蓑(26)

■旧暦7月26日、月曜日、

(写真)無題

今日は爽やかな一日だった。それにしても腹が出てきたな。夏の間、ビール飲みすぎたか。

出でし腹もとに戻さん唐辛子   冬月

オバマの公的保険制度創設をめぐる共和党と一部のアメリカ市民の反応を観ていると、その方法論には賛成できないが、事態を正しく認識しているのは、いまだに、ビンラディンではないか、と思えてくる。イデオロギーの洗脳は、北の国よりも、アメリカの方が、ある意味で、巧妙かつ強靭なんだろう。なんせ、莫大な金が絡む。以下の記事、参照。

オバマ政権の医療改革などに10万人が抗議デモ ワシントンで

米医療改革「公的制度こだわらず」 大統領報道官

「ホワイトハウスを解放せよ」、ビンラディン容疑者が米国民に呼びかけ

CNNのカテゴリーを通すと、現実はこう見えるようだ。かなり、ファインダーが狭くなっている。

ビンラディン容疑者の新肉声か ネットで発表



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

the stray cat too
goes wife-hunting...
nightfall

nora neko mo tsuma kasegi suru yo nari keri

のら猫も妻かせぎする夜也けり

by Issa, 1805

Issa suggests that he, like the tomcat, is in search of female companionship this night.

■この訳者注には、笑った。確かにそうかもしれない。



いがの国花垣の庄は、そのかみ南良(なら)の八重櫻の料に附けられると云傳へはんべれば
一里はみな花守の子孫かや
   芭蕉

知人にあはじ〱と花見かな
   去来

ある僧の嫌ひし花の都かな
   凡兆

■芭蕉の句、驚きが素直に伝わってきて惹かれた。去来の句、寂しくもあり、嬉しくもあり、ちょっと可笑しい。凡兆の句、「ある僧の」の詠み出し、なかなか出ないと思うが、主客の距離が遠い。



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SICKO(2007) by Michael Moore

■旧暦7月25日、日曜日、

(写真)無題

7時に起きて、ブログの更新。

仕事の参考に、マイケル・ムーアの「SICKO」(2007年)を観る。非常に面白かった。これだけシリアスなテーマなのに、笑いがあるところに感心した。5,000万人が無保険で、毎年、18,000人が医療費が払えずに死亡する国。金がなくて民間保険に入れないで死亡する人が問題なのは、もちろんだが、保険に入っていても、審査が異常に厳しくて、保険金が下りない。保険会社は自社の利益だけをえげつないほど考えていて、狂ったような理由を付けて保険給付を行わないのである。曰く「実験的な医療」曰く「深刻ではない」などなど。保険審査は保険会社の医師が行うのだが、この報酬制度が凄い。保険料の申請拒否件数に応じてボーナスが出るのだ。中には、申請拒否のスペシャリストを抱えている保険会社もある。患者も知らないような既往歴や非意図的な偽申告を、刑事のように、丹念に調べ上げてきて、契約解除に持ち込むのである。その結果は患者の死亡である。

連邦政府の議員たちも、保険業界から多額の献金を受け取っていて、国民皆保険をソビエト流の国家社会主義と結びつける洗脳を繰り返す。これ、すべて、金のため。医療費が払えない患者は、点滴を受けている最中でも、傷口が治りきらずベッドに寝ていても、タクシーで貧民街に捨てられる。「お大事に」の一言だけで。金のない者は人間ではないという制度設計は、ニクソンとカイザーが始めたものだが、まさに今のアメリカの本質が現れているように感じる。ある意味で、保険会社、製薬会社、病院、政府による、合法的な命の強盗である。自分たちのことは自分たちでやる、国の介入は社会主義だという思想は、本質的には、富める者のための思想であり、端的に言って、金儲けの思想である。そのベースは、自己責任論と同じように、きわめて幼稚で単純な社会認識がある。ただ、救いがあるとすれば、マイケル・ムーアみたいなアメリカ人もいるところかもしれない。

映画では、国民皆保険で医療費ただのカナダ、英国、フランスとユーモアたっぷりに比較してゆく(フランスでは子育て中の家庭には、一日4時間の家事ヘルパーも付く!)。最後は、医療費無料のキューバのグアンタナモ基地の病院まで、患者数名と突撃していき、「アルカイダと同じ医療を!」と叫んで、拒絶されると、アメリカの宿敵キューバの病院へ向かい、全員無料で最先端治療を受けて帰国する。これは、漫画みたいだが、実に、ユーモアと批評精神の溢れる映画だった。マイケル・ムーアの巨漢ぶりと表情も、そこにいるだけでおかしみがある。

カナダ、英国、フランスの医療・福祉制度は、日本も参考にできる余地が多くあるんじゃないか。変に忙しいばかりで、命を楽しむゆとりをもてないのは、自己責任だけではあるまいよ。



シッコ [DVD]
クリエーター情報なし
ギャガ







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飴山實を読む(122)

■旧暦7月24日、土曜日、

(写真)歯舞より直送のこまい

朝、半年ぶりにドイツ語版ブログを更新した。ドイツ語は、ほぼ壊滅していることがわかった。書いてみるとよくわかる。今日は、寒い一日だった。



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

ightning flash--
the astonished face
of the dog

inazuma ya akke torareshi inu no kao

稲妻やあっけとられし犬の顔

by Issa, 1815




峡人のほとけとんぼとつぶやける
   「花浴び」

ほとけとんぼ。とんぼにも「ほとけ」を見る素朴な心性に惹かれる。「つぶやく」という動詞が、秋の澄んできた大気や水と呼応するかのよう。



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芭蕉の俳諧:猿蓑(25)

■旧暦7月23日、金曜日、

(写真)無題

早朝に起きる。江戸川へ散歩。虫の声と法師蝉の二重奏だった。吾亦紅が色づき始めた。曼珠沙華が夏草の中に埋もれるように咲いていた。



欧文ハイクはほとんど感心しないが、次の句には驚いた。


the homeless man
takes off his shoes before
his cardboard house


PENNY HARTER

※ ペニー・ハーターは米国の俳人。1940年生まれ。アメリカ俳句協会会長も務めた。

Patricia Donegan(2008), Haiku Mind, SHAMBHALA, 2008



うらやましおもひ切時猫の恋   越人

うき友にかまれてねこの空ながめ
   去来

野馬(かげろふ)に子共あそばす狐哉
   凡兆

■越人、我が身に重ねているところが面白い。人間一般との比較としても可笑しい。去来の句、うき友=恋人。なんと人間的な。可笑しい。凡兆の句、情景がアニメのように生き生き浮かぶ。動物俳句アニメというのがシリーズであったら、結構、面白いんじゃないか。



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ドイツ語の俳人たち:Udo Wenzel(18)

■旧暦7月22日、木曜日、

(写真)働く女性

実に良い天気だった。湿気がなく晴天。ピアノソナタを作曲して、アファナシエフに献呈したら、その場で弾いてくれた。これ、今朝の夢。ベートーヴェン風の曲だった(笑)。気分良かったですな、夢とは言え。家人には「夢のまた夢」と言われてしまったが。




An kahlen Ästen
sammeln sich Regentropfen,
fangen das Licht ein.


枯枝の
雨粒がふくらんで
そこだけ光っている


■まあ、とくに感心しない。sammeln sich Regentropfenの言い回しが面白かった。



Sound and Vision



若いなあ!!


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芭蕉の俳諧:猿蓑(24)

■旧暦7月21日、水曜日、、重陽

(写真)無題

朝早くに起きるが、作業していて、うっかりフランス語講座を聴き逃す。そろそろ、散文の読解に入りたいので、練習問題を時間のあるときに考えている。当面の目標は、Le pointなどのフランス語の雑誌を読めるようにすること。まだまだ、マエストロのテキストまでは道のりが遠い。午前中、用事で外出、午後、仕事。



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

counting heads
in a hot tub...
little butterfly

yu iri shu^ no atama kazoeru ko cho^ kana

湯入衆の頭かぞへる小てふ哉

by Issa, 1816

Issa makes use of his two-part joke structure in this haiku. The first two phrases, "counting heads/ in a hot tub..." lead the reader to expect a human agent, but then he surprises us by revealing the counter to be a "little butterfly!" The butterfly seems to share in the happiness of the humans, soaking away their aches and troubles in hot water. It flits from head to head, taking roll. This haiku is one of the "essential" 188 picked by the translator. back next

■これは、面白いと思った。普通に読めば、湯入衆の頭かぞへる/小てふ哉で切れるから、取合せの句になり、頭を数えているのは、作者ということになるが、ラヌーのように、蝶が頭から頭へひらひら舞っている情景の比喩とも考えられる。この場合、一物仕立てということになろうか。一茶の思想を考えると、ラヌーの理解の方が、一茶に近いかもしれない。




灰捨て白梅うるむ垣ねかな
   凡兆

百八のかねて迷ひや闇のむめ
   其角

我事と鯲(どじょう)のにげし根芹哉
   丈艸

■猿蓑巻之四、春。凡兆の句、灰と白梅がうるむの取合せには、驚く。一見、なんの関係もないが、灰が目に入ることや同系色の灰の色との対比が周到に計算されていると思う。感覚的なだけでなく、理知的な人だったかもしれない。芥川龍之介が傾倒したのもわかる気がする。其角の句、「闇の梅」を取り合わせたところに惹かれた。闇は煩悩との連想で、普通だと思うが、「闇の梅」というのは、むしろ、煩悩を祝福しているような気配がある。煩悩の周りに闇があるのだと。丈艸の句、可笑しい。これも動物シリーズに分類できる笑いの句だろう。
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