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俳句の笑ひ:良寛の笑ひ(2)

■旧暦7月17日、土曜日、、満月

(写真)火の後の日の光

どうも、9月は、眠い月でよく寝ている。夏バテか。

午後、朝日新聞の本社の販売局から来たという営業部員と一時間も話し込んでしまった。日本の新聞がジャーナリズムの本道、ひいては、言論の自由の本質である権力批判に徹しきれないのは、一つは、新聞のデリバリーシステムと関係がある、ということがわかった。スタンドで、一商品として情報価値や思想価値を競うことをせず、つまらない景品で、デリバリーシステムに読者をいかに囲い込むか、がマーケティングの最重要課題になっている。企業もデリバリーシステムによって、安定的な広告媒体となった新聞に、巨額の企業広告費用を投じる。この金が、新聞社経営の前提に組み込まれるため、なかなか、政治権力、経済権力、宗教権力への批判が本質に届かない。新聞社も、デリバリーシステムの維持・拡大が自己目的となり、この目的が紙面づくりに影響を与えるようになる。結果、読者のマジョリティに受ける論調や紙面作りが優先し、マイノリティの意見は言い訳程度にしか、掲載されなくなる。読者も、時間がないために、情報の相対化や取捨選択ができず、新聞から受ける影響は、意外にも、大きくなり、新聞=社会と見なすようになる。そして、新聞報道は「中立」という、あの欺瞞的なイデオロギーが、いつのまにか、新聞と読者の共犯で拡大再生産されていく。社会の中で、「中立」であろうとすればするほど、強者の側に立つことになるのだという内省は、もはや、働かない。

ただ、デリバリーシステムから自由な、海外の新聞が、自国の国内問題について、深い本質的な議論を展開できているのかどうかは、冷静に分析・検討してみなければ、なんとも言えないだろう。海外メディアとて、大資本の傘下にあれば、当然、言論の自由は制限されるからである。その意味では、メディアの分析・比較というのは、興味深いテーマになるだろうとは思う。カントの言うカテゴリーが認識に果たす役割は、現代では、広い意味で、メディアが担っていると考えられるからである。



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

onlookers
at a funeral...
the autumn wind

tomurai no kembutsunin ya aki no kaze

葬礼の見物人や秋の風

by Issa, 1821




手拭で年をかくすや盆踊



with a hand-towel
I hide my old face:
the Bon-dancing


translated by Sanford Goldstein et al.

■一見、単にfunnyに見えるが、人を笑わせる行為の裏には、必ずと言っていいくらい哀しみがある。笑いは、哀しみの昇華とも言えるだろう。この句の背景には、良寛の老いの哀しみがあると思う。それを自己客観化して笑いに昇華させているのは、俳諧という文学形式の力が大きいのではないかと思う。同じテーマでも、良寛が、和歌で詠むと、よりストレートに病や老を詠み込んでいるからである。どちらが、人の心に響くかは、読み手にもよるが、どちらも、捨てがたい。

もろともに踊り明かしぬ秋の夜を身に病疾のゐるも知らずて   良寛
風は清し月はさやけしいざともにをどり明かさむ老の名残に
   良寛



Sound and Vision

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