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ポルトガル語の俳句(2)

■旧暦8月9日、日曜日、

(写真)芒

昨日は蒸し暑くてクーラーを入れないと眠れなかった。実家に戻ると購う自家焙煎の店の珈琲が、なかなかうまく淹れられないので、珈琲メーカーではなく、メリタの陶器フィルターを使ってみた。これだと、お湯の温度を調節できるからだ。結果、うまくはいった。今まで、珈琲には苦みを求めてきたが、どうも苦いというのは、目覚めの一杯にはいいが、他の要素―甘みや豊潤さ―を消してしまうのではないかと思うようになった。却って、酸味の強いキリマンジェロのような珈琲が、味わいのTotalität(全体性)を引き出すように感じるのである(ブルマンのようなバランスの良さとは、ちょっと、違う)。しかし、ドイツ語に対応する日本語って、なぜ、かくも大げさになるんだろう。

花なくも金木犀の立ち話    冬月



ポルトガルの俳人、ma grande folle de soeurが面白い俳句を書いてくれたので、紹介したい。


Justiça -
uma puta velha e desdentada
que não engana apenas o Quixote!

Justice -
une vieille pute édentée
qui ne trompe pas seulement Quijote!


正義―
歯のない老いた娼婦は
もうドンキホーテを欺かない


■この俳句は、二つの点で興味深い。一つは、ドンキホーテの物語を踏まえていること。古典を踏まえるという方法は、日本語の俳句の専売特許みたいなものだからだ。もう一つは、季語の問題である。この句には、季節を表す言葉がない。欧文の俳句を作るとき、たいてい、入門書などには、季語は入れても入れなくてもいい、と書かれている。ポルトガルの季節の変化はどうなっているのか、見当がつかないのだが、時間の推移を表す表現はあるに違いない。ヨーロッパ歳時記を見ると、スペインの歳時記はある程度あるようだが、ポルトガルはない。季語の問題をどう考えるかは、欧文俳句の面白い問題の一つだと思う。
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