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déjà vuと俳句


(写真)鶏頭

蒸し暑くて参った。公園で太極拳。犬が繋がれていたので、しばし、頭をなでる。動物には癒されるなあ。約束を勘違いして、すっぽかす。手帳には書いてあったのに、である。夕食にソーメンチャンプルーを作る。久しぶりに料理して完全に勘が狂ったのを知る。味見という基本的なことも忘れていたからである。


英国の紳士は秋を好みけり


草紅葉盥の水はゆれやまず
   冬月



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

utterly rhythmless
at my house!
night cloth-pounding

fu hyo^shi wa tashika waga ya zo sayo-ginuta

不拍子はたしか我家ぞ小夜砧

by Issa, 1817

In Japan and Korea, fulling-blocks were used to pound fabric and bedding. The fabric was laid over a flat stone, covered with paper, and pounded, making a distinctive sound. In this haiku, Issa comments on the lack of rhythm in the cloth-pounding at his house--a comic jab at his wife Kiku or at himself?



déjà vuと俳句。

俳句を批判するときの一つのパターンに既視感というのがある。類想とも言う。これについて、感じている点を述べてみたい。ある俳句に対して、既視感あるいは類想句があると感じることはだれしもあるだろう。このとき、既視感ある句あるいは類想句は大きく3つに分けられる。第一に、類想あるいはどこかで見た句がほかに実際に存在する場合。第二に、多くの人間がそう感じていたが、それを俳句にしたことがなく、出てきた俳句を見たとき、類想あるいはどこかで見た句だと感じる場合。第三に、読み手の感受性の粗さから、類想あるいはどこかで見た句だと感じる場合。

第一のケースは、ある程度、俳句を読みこんでいくと、だれしも、陥ることがあるケースで、あながち、悪いことではないように思う。というのは、実際にdéjà vuあるいは類想だと気づけば、推敲によって、まったく違った新鮮な俳句に生まれ変わる可能性があるからである。このとき、元の句を踏まえた新鮮な俳句が誕生する。第二のケースは、意外とdéjà vu批判の中に多いのではないかと思う。というのは、déjà vuを言っている論者が、具体的な比較例を出して、類想だと批判しているケースをほとんど知らないからである。この場合、論者は漠然とそう感じているのだが、これは、論者の側の怠慢と言うよりも、俳句の側の成功例と言えるだろう。それだけ、共感を得られた証拠なのだから。第一のケースでは作者の側に勉強と批評力が、第二ケースでは、論者の側に、勉強と批評力が求められているとも言えるのではなかろうか。

問題は、第三のケースで、ある意味で、これは第一のケースとも第二のケースとも関連している。なぜ、俳句にdéjà vuが多いのか。それは、われわれの感受性を構成している社会的・歴史的な条件によるところが大きい。まず、感受性とは、個人的なものであると同時に社会的・歴史的なものであることを確認しなければならない。つまり、感受性は作られるものである。俳句は、季語の世界に依拠して作られるために、季節の移り変わりに対して、鋭敏な感性を求められる。その移り変わりは、微妙な差異が積み重なって、大きな差異へと転換する。毎日の日の落ちる頃合いや影の色、葉の色づき具合の変化など、非常に細やかな感性が求められる。

一方、われわれは、高度に発達した資本主義社会に生きている。テクノロジーの発展と経済合理主義の生活への浸透によって、生活領域は、計算可能領域へと急速に再編されている。微妙なものやニュアンスの差異を感じ取っていた感受性は、社会全体の利益追求、利便性追求によって、粗暴でのっぺりしたものへと再編されてきている。新暦による時間のニュアンスの混乱と無意味化や都市化による人間と自然の距離の拡大化という問題も、生活領域の再編の一つの現れと言えるだろう。

生活領域の再編に感受性も歩調を合わせるから、現存の感受性では、とらえきれない世界が存在するのではないかという想像力もやがて失われる。現存の感受性は、季語を中心にした存在論的な訓練を受けていないから、季節の微妙なニュアンスや差異を感受することが難しくなる。これには、日本語世界の散文化(あるいは世界の散文化)という現象も深く関わっている。生活世界の合理化に、自覚的でない感受性は、この波に一気に呑まれてしまい、それを前提に、新しさを求めるから、季語の世界圏とは異なったところへ出てゆく。これは、抵抗ではなく、順応である。今、俳句を詠むことは、ある意味で、歴史への抵抗なのだと思う。「新しいことはちっとも新鮮じゃない」という飴山實の言葉は、新しさの社会的基盤への批判を含むものであると僕には思えるのである。
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芭蕉の俳諧:猿蓑(31)

■旧暦8月8日、土曜日、、世阿弥忌

(写真)無題

晩夏がずっと続いているかのように、朝晩が蒸し暑い。九月は何の成果も出ず。しばし、呆然とする。じっくりと行くしかないのだが。

赤松の果たるところ世阿弥の忌    

ヘルパーを入れれば、お年寄りは楽になるだろうというのは、表層的な見方で、他人が家に入ることで生じる雑用や心理的負担は、無視できないものがある。ここには、ある種の虚栄や人間としてのプライドも含まれる。人間は、いつまでも健康でいられることが幸福なのか、あるいは、不幸なのか、わからないが、今のところ、死は避けがたい。ふり返れば、何事も些事。そんな気もするときがある。まあ、年取ったのだろうけれど。

ことごとく些事に覚ゆる瓢かな   冬月



まいら戸に蔦這かヽる宵の月   芭蕉
人にもくれず名物の梨
   去来
かきなぐる墨繪をかしく秋暮て
   史邦

■物語を4人で共同制作しているような趣。7.7が意外に面白い。前の句に触発されて後の句が出てくる、というのは、俳句の共同性がはっきり出たものと思うが、それが句ではなく具体的な状況であれば、近現代の俳句になる。その意味では、江戸の俳諧も明治以降の俳句も、そう断絶はない。状況へのリアクションという意味では、現代詩も同じである。
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