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俳句の笑ひ:良寛の笑ひ(3)

■旧暦8月5日、水曜日、、秋分の日、遊行忌

(写真)道端の彼岸花

今年初めて林檎を食す。梨、林檎と好物が出てくる嬉しい秋である。

林檎喰ふまた新しき日のはじめ  冬月 

朝、Michael Mooreの「The big one」を観る。アメリカの失業問題がテーマだが、相変わらずユーモアにあふれている。企業への突撃取材は、なかなか、セキュリティが厳しく、警官がすぐに来る。収益を出していても、さらなる収益のために、国外に製造拠点を移すメーカーの非情な経済合理性と収益最大主義があぶり出されるが、国内で職を失った人々のケアはほとんどなされない。大企業には、政府から多額の補助金が出ているが、それが、従業員に還元されることはない。物のように、いらなくなれば、捨てられるだけである。最後に、ナイキ会長への取材が可能になり、14歳のインドネシアの少女を低賃金で雇用していることへの倫理的な責任が追及されるが、ナイキ会長は、ムーアに答える言葉を持たない。生きてる次元が違っているのだ。「14歳の低賃金の労働者の中から、やがて出世する奴も出てくる」これが、ナイキ会長の生きてきた全思想である。「それがどうした?」これがムーアの思想である。

この映画では、大企業の強欲と非倫理性・非人間性が浮き彫りになるが、そもそも、なぜ、強欲なのか、なぜ、非倫理的なのか、それを、人間の社会的関係総体から解きほぐす視点はない。人間とは、そもそも、強欲で非倫理的な本性を持っているのだと、リーマンブラザーズ破綻以降の経済状況を、達観したように述べるエコノミストが多いが、そのとき言われる本性は、物象化された本性そのものであり、そこで最終的な答えを見出したつもりで問いを終わらせずに、なぜ、そうなるのかが問われなければならないだろう。歴史的・社会関係的に、問われなければならないだろう。結果的に、エコノミストの多くが、権力の提灯持ちになるのは、既存の社会的諸前提からしか思考を組み立てられないからだろう。




盗人にとり残されし窓の月
   良寛


left behind
by the thief:
the moon in my window


translated by Sanford Goldstein et al

■可笑しい。心の余裕が笑いを自然に生んでいるのだと思う。この句は笑いで自他を救済している。逸話によれば、無一物といっていい良寛の庵には、たびたび、盗人が入った。ある晩、盗人が入り、何も取る物がなく茫然と突っ立っていると、良寛は自分の着ている着物を脱いで盗人に与えたという。この逸話を読んで、ゴーリキーの『どん底』に出てくる巡礼の老人ルカーのことを思った。良寛と匂いが少し似ているのである。「世の中だれかしらいい人がいなくてはならん。ここぞという時に人を憐れむ事ができるのは素晴らしい事なんだよ」

人は憐れむべき存在なのか、尊敬すべき存在なのか、わからないが、憐れんだり憐れまれたりすることの多い社会は、社会の諸条件があまりいいとは言えないだろう。



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