goo

芭蕉の俳諧:猿蓑(30)

■旧暦8月6日、木曜日、

(写真)無題

夕方の影の色やその戯れ方で秋になったなあと感じることはないだろうか。

わが影と戯るる猫秋の暮

踏切の音のあなたや秋の声   冬月

おるかさんのところで、水引草を知った。見たことはあるのだろうけれど、識別してなかった。立原道造が、水引草の詩を書いている。ちょうど、今くらいの季節だろう。


のちのおもひに


 
夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
 
水引草に風が立ち
 
草ひばりのうたひやまない
 
しづまりかへつた午さがりの林道を

 
うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた
 
――そして私は
 
見て來たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
 
だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……

 
夢は そのさきには もうゆかない
 
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
 
忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

 
夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
                         
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
 
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう


立原道造「萱草に寄す」SONATINE No.1



いつも気になっていた言葉に「科学的マルクス主義」という言葉がある。これは、原語では、der wissenschaftliche Marxismusのはずだが、日本語では、「科学的」とされてしまっている。このことから、自然科学的な方法論を前提にしたマルクス主義という理解がされてきたように思う。共産党のマルクス理解は、これに近いものではなかろうか。wissenschaftlichという言葉はもっと幅広く、「体系的、学術的、合理的、組織的」という意味を持っている。ちなみに、Wahrig は、Wissenschaftを次のように定義している。「geordnetes, folgerichtig aufgebautes, zusammenhaengendes, Gebiet von Erkenntnissen」(系統立てられ、矛盾なく構築され、相互に関連付けられた、認識の領域」言いかえれば、wissenschaftlichは、狭く自然科学的な発想としてではなく、論理的な整合性や体系性に重きを置いた認識のあり方ととらえるべきではなかろうか。



股引の朝からぬるヽ川こえて   凡兆
たぬきをヽどす篠張の弓
   史邦
まいら戸に蔦這ひかヽる宵の月
   芭蕉

■物語を読んでいるような気分になる。芭蕉が「まいら戸」の句を出したことで、定住者が現れてきた。自然から人間の旅、そして定住者の日常へと場面は展開されていく。「たぬき」の句は、狩猟を意味するからの生活の方へぐっとひき寄せられる。狩人の住処が、「まいら戸」(板戸の表面に細い桟を密にうってある戸)の家ということになろうか。自分とは異なる人間が、異なる感性と視点で、自分の句を展開させていく様子は、なんとも興味深いものだろうと思う。



Sound and Vision

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )