ある船が嵐で遭難し、無人島に漂着した。
助かった乗客100人が島に上陸した。そこで生活しながら、救助を待つことにした。食糧や水を集めたり、寝床を作る作業などを全員で手分けしてやらねばならない状況だったが、ここにある一団が登場したのであった。
彼らは「団結市民革命連帯同盟」という、ちょっと変わった名称のメンバーであった。
彼らは言った。
(カッコ内は周囲の心の呟き)
我々は共に連帯している者です。
(一体何なの?、それ)
労働は快楽や生きがいがなければ受け入れられません。
(ハア?そんな状況なの?)
我々には労働を拒否する権利もあるのです。
(あぁ?みんなで手分けしてやらないと、生きていけないでしょ?)
と同時に、生きる権利も保障されなければなりません。
(とりあえず生き抜くしかないのは確か)
そういうわけで、連帯しているメンバーは何もしません。
(●ね!)
食事は全員平等に分けられなければなりません。
(やっぱ、●ね!!)
そゆことで、我々がゴロンゴロンしている間に、
皆はせっせと働き食事を運んできて下さい。
我が同盟の声明は以上です。
(クぅ~~、コイツら今すぐ●ね!)
・・・・・・
そうして「団結市民革命連帯同盟」のメンバーたちだけが、好き勝手にゴロンゴロンしているだけで、何もしなかった。
他の人々は、全員不満を訴えた。
どうして、何もせず働くこともないのに、彼らに食事を与えねばならないんだ?
何か作業を手伝えるはずなのに、それを拒否するのは卑怯だ。
どうして食事や利益享受は全員平等なのに、作業は平等ではないんだ?
彼らの主張を許すべきなのだろうか?
もしも許さないとすれば、彼らをこの集団から追い出すべきなのではないか?
もし許してしまうなら、明日から誰も作業をしなくなる。
他の誰かが働けばよい、ということになってしまう。
そうなると、互いにチキンゲーム?
どっちが我慢できずに働きはじめるか。
となると、自分だけ食う為に、こっそりとやるようになるのか?
それはつまり、「自分さえ良かったらいい」ということを呼び込むのでは?
「自分だけ助かればいい、食事は自己責任」ということを助長してしまうのでは?
・・・・・・
魚を3匹獲れた人も、ゼロだった人も、1匹だった人も、分配は「平等に」行われるのが望ましいだろう。それは一緒の作業に参加し、ある時は3、0、1匹というふうにバラツキがあるが、他の時にはまた別だからだ。獲得した成果に応じて分配してしまうと、多い時は良いがゼロの時に結局困ることになるからだ。
だから、参加したことに対する分配は、平等にした方がいい。成果や能力に応じて分ける必要はないのだ。多く獲れる人には称賛が与えられる。みんなが感謝し喜んでくれるのが、大きな報酬なのだ。
けれども、それは一緒に働くことに参加したことへの分配なのであって、何もしない連中に分けるほどの余裕はない。保護されるべきは、満足に動けないような老人や、小さな子どもや、妊婦や、力の弱い女性などだ。彼らは魚や獣を獲れないが、代わりに料理や他の人の面倒を見る等の「集団生活」への貢献があるのだ。
そうやって集団への参加を継続しているからこそ、ともに食事の分配を得るのだ。
しかし、はじめから「やる気のない者」「貢献したくない者」「参加を拒否する者」に分け与えることなどできるのだろうか?
・・・・・・
「団結市民革命連帯同盟」のメンバーが意思強固であるなら、集団から分離されるかも。
次の段階として、メンバーは「それでもオレは労働を拒否する」と言い張り続ける。
仲間同士で
「労働には生きがいが必要だよな」
「快楽を見つけられないくらいなら死んだ方がマシだよな」
と慰めあう。
次第に栄養失調で動けなくなっていき、餓死するだろう。
メンバーにとって重要なのは、食事よりも、思想であり、理想社会であり、生きがいである。その意思を貫いて餓死するのであれば、それは本望であるかもしれない。
「団結市民革命連帯同盟」のメンバーのような生き方がいいと思うか、他の人たちのように「やりたい、やりたくない」には関係なく、生きる為には止むを得ないということを受け入れて、自分のできる作業や労働を行って食べていくか、どちらか選ぶことが必要だ。
君は「団結市民革命連帯同盟」のメンバーになりたいか?
Yes,of course!!
と答える誰かがいるに違いない。
助かった乗客100人が島に上陸した。そこで生活しながら、救助を待つことにした。食糧や水を集めたり、寝床を作る作業などを全員で手分けしてやらねばならない状況だったが、ここにある一団が登場したのであった。
彼らは「団結市民革命連帯同盟」という、ちょっと変わった名称のメンバーであった。
彼らは言った。
(カッコ内は周囲の心の呟き)
我々は共に連帯している者です。
(一体何なの?、それ)
労働は快楽や生きがいがなければ受け入れられません。
(ハア?そんな状況なの?)
我々には労働を拒否する権利もあるのです。
(あぁ?みんなで手分けしてやらないと、生きていけないでしょ?)
と同時に、生きる権利も保障されなければなりません。
(とりあえず生き抜くしかないのは確か)
そういうわけで、連帯しているメンバーは何もしません。
(●ね!)
食事は全員平等に分けられなければなりません。
(やっぱ、●ね!!)
そゆことで、我々がゴロンゴロンしている間に、
皆はせっせと働き食事を運んできて下さい。
我が同盟の声明は以上です。
(クぅ~~、コイツら今すぐ●ね!)
・・・・・・
そうして「団結市民革命連帯同盟」のメンバーたちだけが、好き勝手にゴロンゴロンしているだけで、何もしなかった。
他の人々は、全員不満を訴えた。
どうして、何もせず働くこともないのに、彼らに食事を与えねばならないんだ?
何か作業を手伝えるはずなのに、それを拒否するのは卑怯だ。
どうして食事や利益享受は全員平等なのに、作業は平等ではないんだ?
彼らの主張を許すべきなのだろうか?
もしも許さないとすれば、彼らをこの集団から追い出すべきなのではないか?
もし許してしまうなら、明日から誰も作業をしなくなる。
他の誰かが働けばよい、ということになってしまう。
そうなると、互いにチキンゲーム?
どっちが我慢できずに働きはじめるか。
となると、自分だけ食う為に、こっそりとやるようになるのか?
それはつまり、「自分さえ良かったらいい」ということを呼び込むのでは?
「自分だけ助かればいい、食事は自己責任」ということを助長してしまうのでは?
・・・・・・
魚を3匹獲れた人も、ゼロだった人も、1匹だった人も、分配は「平等に」行われるのが望ましいだろう。それは一緒の作業に参加し、ある時は3、0、1匹というふうにバラツキがあるが、他の時にはまた別だからだ。獲得した成果に応じて分配してしまうと、多い時は良いがゼロの時に結局困ることになるからだ。
だから、参加したことに対する分配は、平等にした方がいい。成果や能力に応じて分ける必要はないのだ。多く獲れる人には称賛が与えられる。みんなが感謝し喜んでくれるのが、大きな報酬なのだ。
けれども、それは一緒に働くことに参加したことへの分配なのであって、何もしない連中に分けるほどの余裕はない。保護されるべきは、満足に動けないような老人や、小さな子どもや、妊婦や、力の弱い女性などだ。彼らは魚や獣を獲れないが、代わりに料理や他の人の面倒を見る等の「集団生活」への貢献があるのだ。
そうやって集団への参加を継続しているからこそ、ともに食事の分配を得るのだ。
しかし、はじめから「やる気のない者」「貢献したくない者」「参加を拒否する者」に分け与えることなどできるのだろうか?
・・・・・・
「団結市民革命連帯同盟」のメンバーが意思強固であるなら、集団から分離されるかも。
次の段階として、メンバーは「それでもオレは労働を拒否する」と言い張り続ける。
仲間同士で
「労働には生きがいが必要だよな」
「快楽を見つけられないくらいなら死んだ方がマシだよな」
と慰めあう。
次第に栄養失調で動けなくなっていき、餓死するだろう。
メンバーにとって重要なのは、食事よりも、思想であり、理想社会であり、生きがいである。その意思を貫いて餓死するのであれば、それは本望であるかもしれない。
「団結市民革命連帯同盟」のメンバーのような生き方がいいと思うか、他の人たちのように「やりたい、やりたくない」には関係なく、生きる為には止むを得ないということを受け入れて、自分のできる作業や労働を行って食べていくか、どちらか選ぶことが必要だ。
君は「団結市民革命連帯同盟」のメンバーになりたいか?
Yes,of course!!
と答える誰かがいるに違いない。