いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

ドラマ『Tomorrow』の最終回

2008年09月08日 21時14分05秒 | 俺のそれ
思った通りの展開。

何てベタなんだーー!
とは思う。

が、しかし、ちょっと「昔」っぽさがあったのと、菅ちゃんが健気に署名集めをしたので、同情を誘う。


それにしても、商店街のオヤジたちの掌返しの早さといったら!
調子良すぎ。観光開発事業に賛同していたのに、病院に一晩いただけで既に反対派に早変わり。
だけど、世の中の現実に一番近いのかもしれない。
遠藤先生の給料払えるのか問題は、とても気になったんですが、どうなんでしょうか(笑)。理想だけでは、お母さんの医療費を払えないんじゃないかと心配してしまいます。


あと、何てタイミング良く遠藤先生が登場するんだ!
その他看護師たちも、まるで舞台のソデから「ハイ、出番です」みたいに登場してくるわざとらしさがあるけど、そういうベタな臭さがいい。


最後の最後に重大な真相が明らかにされた。

院長は、実は次の就職先が「医療安全センター」の所長になる予定だったらしい。って、これはどうでもいいんだけど。イマドキの話題っぽい名称だったもんで。

じゃなくて、手伝いに院長がオペ室に入ってきた(術者はいるが、麻酔管理ができる人がいなくて困っていた場面)途端に、看護師が言ったのだった。

「ところで院長、できるんですか?」

酷いー!
というか、普通泣くよね、そんなこと言われたら(笑)。
看護師が面と向かって、そこまで言うわけねー!

それはとりあえずとして、院長は少しハニカミながらこう言った。

「オレはこう見えても、昔は『救命救急の鬼』と言われた男だぞ…」

そうだったのか!
かなーり、ウソっぽい設定だけど、最終回だからヨシとしよう。
(記憶を頼りに書いているので、実際の台詞通りではないかも。大体は合っていると思うけど)

鬼と呼ばれた男の割りには、これまで何らの貢献もなかったのがちょっと疑問ではある(笑)。けど、ドサクサっぽい最終回だから、許す。


傾向として、この街でお祭りみたいな行事があると、大規模災害っぽく「火災」「爆発事故」「突風」などに見舞われてしまうようだ(笑)。危険な街だな。まあいいんじゃないか?


ふざけたことばかり書いたけど、病院存続か閉鎖か、という問題は、ドラマの話ではなく現実の問題なのだ。他にも医療の抱えている問題について多くの人々の提起したという点においては、このドラマは良かったんじゃないかと思う。
が、あまり人気は出なかった、っぽい?


昔っぽさ、というのは、田舎の病院ならば他科の医師同士が協力するしかなかった、血液が足りず「●型の人はいませんか~?」みたいに一般人に供血をお願いする(ウイルス検査も照射もなしに輸血だから、かなり…)、みたいな。多分、現代だと「何故検査もせずに輸血したんだ」とか「専門医がいないのに何故手術したんだ」とか、大問題にされると思う。


ま、「コード・ブルー」の最終回との比較になっちゃうね、多分。
関係ないけど、制作にかかってる金が、どう見てもフジ系は多いが、TBS系の方はかなり少ないとしか思えんのだが、どうなんだろう。



権威喪失の時代?

2008年09月08日 12時29分44秒 | 俺のそれ
こういう感覚を抱くのはよく判る気がする。

はてなブックマーク - そして誰も「専門家」を信用しなくなった - インターネットください


専門家と呼ばれる人々が、必ずしも「正しいこと」を言うわけではない、ということだと思う。当てになるかどうかは、場合によると思う。


随分前にそうしたことを感じたので、記事に書いた>
「反専門家主義」が顕在化したブログ世界


このコメント欄で、小倉秀夫氏の指摘がこれだった。
(以下引用)

>残念ですが (小倉秀夫)  2005-07-27 02:09:35

 残念ながら、専門家の嘘を見抜くところまでは言っていないように思います。現在できているのは、専門家の意見が気に入らない場合に、嘘だと決めてかかって集団で嘘だということにしてしまって納得してしまうことくらいでしょう(人権擁護法案騒動などその典型ですね。)。
 「周囲の人々は洗脳にかかったままだが、自分は○○のおかげで洗脳が解けた」というのは一般的には非常に危険な状況なのですが、ネット上にはこの種の言説があちらこちらに見受けられます。
=====

で、次のように答えた。

>そうですね、完全に見抜くのは容易ではないですね。ただ、「権威」への疑念は確かに存在しそうで、日米関係なくトフラーが書いているのと同じような印象を持ちます。
あちこちに「フィルターのない言葉」(ドグマさんの記述された)が存在するというのは、私自身を含めてそうだと感じます。


今の感想を言うとすれば、やはり「専門家はウソを言うことがある」と思っている。記事でいくつか書いてきたと思うが、弁護士が「憲法違反だ」と言う事例―「貸金業法」関連で違憲だとする主張、「医療安全調査委」法案関連で各種行政手続が違憲だという主張や医師法21条が違憲ではないかという主張など―が横行しているのを見るに、「信頼に足る言説」というのはかなり怪しくなり、専門家だから必ずしも正しいということではないのだな、ということです。

参考記事:

大衆は何に対峙しているのか(追記後)

大学教授は信頼すべき有識者と本当に言えるか

「現代日本教養論」を読む


じゃあ、結局どうすればいいのさ、というところに行き着くわけだけれども、基本的原則としては、
・専門家をある程度信頼するしかない(自分が全部をやるのは無駄が多い)
が、それでは引っ掛かってしまうこともあるので、
・自分に疑問が生じるならば、考えたり調べたりしてみる
・他の対立意見や何らかの指摘があれば、立ち戻って考える
・自分は何を信じ選択するか、の基盤となるものを強化する
みたいなことでしょうか。

実際、そのようなことを実行できるかどうかは、判らないんですけれども。基盤強化って言っても、本読むとか、そういう何らかの努力をしたとして、正しいものだけをうまく取捨選択できるのかは判らない。エコ商品や健康関連グッズなどに引っ掛かってしまうかもしれない。なので、多少はしょうがないんじゃないかな、とも思う。まんまと嵌っている場合もあるかもしれないが、後々気付くとか、実質的に大きな被害を被らなければ、それでいいんじゃないでしょうか。どこかの段階で、自分を納得させるしかなさそうですし。

以前に、私は自分の感覚を信じている、ということを書いたことがあるが、それは今でも変わっていません。


<寄り道:
中には「以前から言っていること」を知らずに何でも判断している人がいるようだ。パソオタ?なのか何なのか知らんが、いい気になってるのが笑えた。
また喩えですまないが。
前から「××のHDDなんていらない」と言っているのに、それを単に知らないのだな。暫く後に書いた別な記事で「パソコン改造費用高すぎじゃね?無駄にぼったくられているんじゃないの?」と疑問を呈すると、妥当な価格とか他の人の改造費用とかそういう参考(比較)になるものを何一つ知らないクセに「費用は妥当」とか即座に結論を下す「結論ありき野郎」もいたな、『はてな』に(笑)。
で、以前からの主張である「××のHDDなんていらない」と記事本文ではなくコメントに書いたら、
「改造費用に疑問を呈しつつ、実は反対したいだけ。「××のHDDなんていらない」という真の主張を隠蔽する為に、改造費用にあれこれと言っているのだ」
みたいな解説まで付けて、自分だけは何かを看破したつもりになっているんだな。抱腹絶倒。前からはっきり書いてあることなのに、見破るも裏を読むも何もないだろ。ごくろうさん、としか言いようがない。
こういう色メガネ野郎というのはいるんだな、と思った。中身を考えないからだろうね。「誰が言ったか」の「誰」の部分にかなりのバイアスでもあるからか?これと似たようなことは前にもあって、「指摘している語句は、以前から書いてることに過ぎないよ」と示唆してるのに、また同じことをやっているのだな。学習効果がないのか?要するに、何でもいいから批判したいだけ。「中身」ではなく、「誰」の部分だけしか批判できないんじゃないの?(笑)所詮その程度、ってことなんだろう。>


できれば、専門家同士の中で「まがいもの」をある程度排除できるようにしてもらうとか、間違いを修正していってもらうとか、そういうことをやってもらい、一般人は専門家をある程度信頼して受け入れるといいのでは。信頼ゼロだと、いつまで経っても「信じないぜ」ということから抜けられないし、どちらにしてもほどほどに、としか言いようがないかな。